白雪姫の接吻

坂水

文字の大きさ
上 下
4 / 45
〈一幕 直美〉 第1話 再会

1-4

しおりを挟む
 
 少女時代、香世子はあまり笑わなかった。
 とても美しい家族だった。大学教授の父親。美人で若い母親。清らかで賢い子ども。〈城〉にふさわしい、非の打ち所がない、夢見た通りの。私は引っ越してきた一家に憧憬を抱いていた。
 だが内部から覗けば、あっさりとほころびが見つかるものだ。その頃〈城〉には、週に数回、家政婦が通っていた。今ほど個人のプライバシーが声高に叫ばれていなかった時代だ。私は何度か、家政婦が近所の人と立ち話をしているのを見ている。恐らく彼女が漏らしたのだろう。母親が継母であるということを。
 家政婦の善し悪しはともかく、家政婦を雇う、という行為そのものに、近隣住民はまず悪感情を持った。外に働きに出ているわけでもないのに、あすこの主婦は何をしているのだ、と。
 怠惰で享楽、お金目当ての後妻。高台の〈城〉にそもそも反感を抱いていた近隣の住民達は、我が意を得たりと、ますます非難を高めた。嫌われていたから付き合わなかったのか、付き合わなかったから嫌われたのか、初瀬家は現在にいたるまでほとんど地域行事に参加していない。
 その一方、継母への義憤が香世子への同情にスライドすることはなかった。だが負のイメージだけは降り積もり、きっちり子どもへ伝播する。閉鎖された土地において、大人と子どもの社会は驚くほど似た構造を成しやすい。転校生という存在は、特別尊敬されるか、毛嫌いされるか、どちらかに偏りがちだ。高台の城、家政婦の噂、異なる装い・口調・物腰――当然、香世子は後者だった。
 担任教師はそんな状況を見兼ねて、私に香世子の面倒を見るよう言いつけた。女子にしては活発で、生徒の中で最も家が近かった私は適任だったのだろう。

 〝皆と一緒に、長縄の練習しようよ〟
 〝学校終わったら、西公園に集合ね〟
 〝やっちゃんちに遊びに行こう〟

 教師を後ろ盾に、私は常に香世子と連れ立った。休み時間には話しかけ、遊びには必ず誘い、他の子たちとの橋渡しをした。
 けれど、どんなに馴染ませようと腐心しても、香世子を輪に加えた途端、空気が変わってしまう。周囲に埋没せず、何者にも染まらず、どこにも落ち着けず、白く浮き上がる少女。無視され、嘘を吐かれ、持ち物を隠され、給食を引っくり返され……直接的な暴力こそ無かったが、彼女は悪意の風にさらされ続けた。
 香世子自身は何もしていない。だが、彼女に原因があるのも確かだった。彼女は明らかに他の子どもたちとは違う。子どもにとって『違う』ことは、個性として認められない。それすなわち『変』『おかしい』と同義だ。出る杭は打たねばならない、それがルールであり、正義。私には他の子の気持ちも理解できた。しかし皮肉なことに、辛い境遇はますます香世子を白く、儚く、透明に磨き上げてしまう。香世子への仕打ちは、両者ともに何も得るものがない虚しい行為だった。
 幼く、当事者であった香世子には、なぜ自分が迫害されるのかわからなかっただろう。美しさを妬まれた小さな姫のように。あの、戸惑うばかりの汚れなき瞳。
 町の中、学校の中、城の中。居場所が無い少女は逃げ出そうとする。深くて暗い森の中、とがった石を飛び越えて、茨を駆け抜け、奥へ奥へと進んでゆく。
 だけど待って、森はこんなにも危険なのに、そんな細い手足で走り切れるはずがない。
 木の根に足を躓かせ、鋭い梢で肌を裂き、毒の蝶が撒く鱗粉に肺を灼く。
 おじょうさん、おはいんなさい。生臭い息を吐く獣が口を開けて待ち構えている。
 足はもつれ、泥だらけ、傷だらけ、もう一歩も動けない。ならばいっそ森の中に隠れてしまえば良い。暗がりに、茂みに、樹のうろに。怖いお妃様に見つからないように。
 でも、ほら。どんなにじっとしていても、縮こまっていても、あの子は白く浮かび上がってしまうから。
 お妃か、狩人か、獣か、気配を感じて振り返る。なびく黒髪の隙間、漆黒の瞳が訴えかける。
 ……助けて。
 振り返る少女の唇がわずかに動いた。助けて。助けて。助けて。繰り返される哀願。
 なら、どうして、逃げ出したの? 私から離れては助けられない。差し伸べた手も、必死の叫びも届かない。少女は囁く。
 ……本当のことを知っていて欲しいから。
 本当のこと? それなら知っている。結局、あの子は助からない。食べられてしまう。消えてしまうのよ。黒い髪、白いコート、赤いマフラーは、あまりに目立ち過ぎるもの。

 ――違う。狼に食べられてしまうのは赤頭巾でしょう?

 途方もない落下感に揺さぶられ、私は目を覚ました。
 夫の帰りを待ちながら、ダイニングテーブルで雑誌を読んでいたところ、うたたねしてしまったらしい。動悸がする胸を押さえながら上半身を起こす。
 ヒーターの低い唸りだけが夜のしじまに響いていた。明かりはダイニングにしか点いておらず、繋がった先のリビングは暗い。だが、わずかな気配を感じて私は目を凝らした。
 ……闇にじわり、浮き上がる、白。それは。

「ママ?」

 金縛りにあったように硬直し、次の瞬間、どっと全身から力が抜け出る。暗がりから出てきたのは、どこか焦点が定まらない美雪だった。

「どうしたの。おしっこ?」

 動揺を悟られないよう、私は努めて優しく尋ねた。美雪はお気に入りのうさぎのぬいぐるみを引き摺り、ごにょごにょと何か呟いている。どうやら寝ぼけているらしい。トイレに連れて行ってからもう一度寝かしつけようと、私は立ち上がり、美雪の空いている手を引いた。
「寒いから、早くお布団に戻ろう?」
 小用を済ませた美雪に呼び掛けるが、なぜかしんしんと冷える廊下で足を止めて動かない。わずかに開いたピンクの唇。愛嬌程度に隊列を乱した歯並び。お節の黒豆を彷彿させるつやつやした瞳。覗き込んだ娘はいともあどけない。だが、彼女の目線は私を通り過ぎ、道路に面した窓の外に注がれていた。

「だれかいるよ」
「え?」

 夫が帰ってきたのだろうか。しかし、車のエンジン音が聞こえてこない。駅から離れたこの立地では、徒歩で帰宅するなんてありえない。窓の外、家の敷地に繋がる道路に目をやる。
 我が家は隣家と接していない。田舎特有の広々とした間をとっており、周囲は閑散としている。その寒々しい空気の中、たった一本佇む街灯が闇を突き刺す針のような鋭い光を放つ。その研磨された明かりを逃れ、何か、一瞬、白い影が過ぎったような……
 瞬間、私は自分の視たものを否定した。私自身、寝ぼけているのかもしれない。ついさっき、奇妙な夢と混同して、愛娘にぎょっとしてしまったのと同じに。
「おきさき様、のぞきにきたの?」
 だから、小首を傾げて呟く美雪に、見間違えよと返すことができなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

13歳女子は男友達のためヌードモデルになる

矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

母からの電話

naomikoryo
ミステリー
東京の静かな夜、30歳の男性ヒロシは、突然亡き母からの電話を受け取る。 母は数年前に他界したはずなのに、その声ははっきりとスマートフォンから聞こえてきた。 最初は信じられないヒロシだが、母の声が語る言葉には深い意味があり、彼は次第にその真実に引き寄せられていく。 母が命を懸けて守ろうとしていた秘密、そしてヒロシが知らなかった母の仕事。 それを追い求める中で、彼は恐ろしい陰謀と向き合わなければならない。 彼の未来を決定づける「最後の電話」に込められた母の思いとは一体何なのか? 真実と向き合うため、ヒロシはどんな犠牲を払う覚悟を決めるのか。 最後の母の電話と、選択の連続が織り成すサスペンスフルな物語。

真夏の温泉物語

矢木羽研
青春
山奥の温泉にのんびり浸かっていた俺の前に現れた謎の少女は何者……?ちょっとエッチ(R15)で切ない、真夏の白昼夢。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

後悔と快感の中で

なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私 快感に溺れてしまってる私 なつきの体験談かも知れないです もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう もっと後悔して もっと溺れてしまうかも ※感想を聞かせてもらえたらうれしいです

【完結】【R18百合】女子寮ルームメイトに夜な夜なおっぱいを吸われています。

千鶴田ルト
恋愛
本編完結済み。細々と特別編を書いていくかもしれません。 風月学園女子寮。 私――舞鶴ミサが夜中に目を覚ますと、ルームメイトの藤咲ひなたが私の胸を…! R-18ですが、いわゆる本番行為はなく、ひたすらおっぱいばかり攻めるガールズラブ小説です。 おすすめする人 ・百合/GL/ガールズラブが好きな人 ・ひたすらおっぱいを攻める描写が好きな人 ・起きないように寝込みを襲うドキドキが好きな人 ※タイトル画像はAI生成ですが、キャラクターデザインのイメージは合っています。 ※私の小説に関しては誤字等あったら指摘してもらえると嬉しいです。(他の方の場合はわからないですが)

背徳の獣たちの宴

戸影絵麻
ミステリー
突然、不登校になった兄。その兄に、執拗にまとわりつく母。静かに嫉妬の炎を燃やし、異常な行動を繰り返す父。家庭崩壊の予感に怯える私の目の前で、ある日、クラスメートが学校で謎の墜落死を遂げる。それは、自殺にみせかけた殺人だった。犯人は、その時校内にいた誰か? 偽装殺人と兄の不登校の謎がひとつになり、やがてそれが解けた時、私の前に立ち現れた残酷な現実とは…?

処理中です...