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30.昔の君なら、泣いていただけだったのに。
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「父さん、行ってしまいましたね」
クロイアの寂しそうな声に、「そうね」とだけ返す。あまり言葉を露わにすると、感情を悟られそうで怖かった。
……前回までとは比べものにならない程の寂しさを感じる。改めて通じ合ってしまったからだろうか。
エリオードは、教会から直接発っていった。最後に「また近々くる」と言い残して。
「ぼく、このまま教会のしゅぎょうに入りますね」
「分かったわ。私は一旦帰るわね」
クロイアは寂しそうに俯く。いつもは見せない元気のない様子を疑問に思い、しゃがんで目線を合わせる。
「どうしたの、クロイア」
「……ジェリアさんは、父さんのおよめさんになるんですか」
ぎょっとする。「どうして」と何とか返すと、クロイアは唇を尖らせた。
「おふろで父さんが言ってたんです。『実際にジェリアみたいな母さんってどうだ』って」
……自分の気持ちこそは隠すのではなかったのか。それとも、クロイアが先に言い出したからなのか。あまりにもあからさますぎる。クロイアは続けた。
「あの、ぼく。あの時はああ言いましたけど……やっぱりいやだっていいました」
「え」
まさかの返事に、狼狽える。まさか、そんな答えがくるとはさすがに思っていなかった。内心泣きそうになるが、クロイアはどこか恥ずかしそうに俯いた。
「……はなよめさんにするのは、ぼくがいいっていいました」
「……え」
クロイアは、ジェリアに抱きついてくる。しゃがんでいるせいで、目線が同じ位置だった。柔らかい温もりが、ふわりとやってくる。
クロイアは、消え入りそうな声で口にした。
「よ、よくよく考えたら父さんには母さんがいますし。それなら、ぼくがジェリアさんをはなよめさんにしたいんです。おおきくなったらですけど」
「クロイア……」
何だか、胸の奥が熱くなる。そう思ってくれていたとは。無性に愛おしくなって、強く抱きしめる。クロイアはすりすりとジェリアの肩に顔を押しつけてきた。
「でもそれをいったら、父さんが『ぜったいむり』って言ったんです。多分ちょっと怒ってました」
「そ、そうなの」
「……父さんも、きっとジェリアさんがだいすきなんですね」
それはそれで嬉しい話だが、あまりにも大人気が無い気もする。しかしエリオードのあの嫉妬深さは、例え自分の息子でも容赦はしないだろう。
クロイアはそっとジェリアから離れた。エリオードによく似た赤い目で、じっと見つめてくる。
「ぼくがおとなになるまでに、待っててくれますか」
その目は、子どもがするにはあまりにも真剣そのものだった。少し戸惑うも、「クロイアに他に好きな子が出来なければね」と微笑む。するとクロイアは嬉しそうに笑った。それを見て、ジェリアの心も温かくなる。
クロイアは笑顔で、手を振ってジェリアを見送ってくれた。ジェリアも手を振りながら、教会をあとにする。
……まさか、クロイアにあんな事を言われるとは。内心どきりとした。
きっと、大人になればそんな約束など忘れるだろう。しかしひとまず、大人になったクロイアを想像してみる。恐らく、あの様子ならば顔立ちはエリオードに似るはずだ。そう考えると、少し心が浮き上がるような心地がした。
結局自分は、エリオードが好きなのだと思い知らされる。
「……エリオード」
その名を呟きながら、ジェリアはポケットに手を入れた。中から、以前見つけたロケットを取り出す。何だか気になってしまって、ずっと手放せなかった。
恐る恐る、首へとかける。かつて感じていた重みが、戻ってきた気がした。トップのロケットを、強く握りしめる。
……完全に、戻ってしまった。
ふと、背後に足音。はっとして振り返ると、鮮やかな金髪。
「ラルネス?」
「やあ」
彼は、いつもと変わらず微笑んでいた。朝日を浴びている彼は、もはや輝いているようにも見える。
「いつもいつも、突然なのね」
「そうだね。でも今回は気まぐれで抜き打ちにきたわけではないよ」
そこで、ジェリアは気付いた。空気が、ぴりぴりとしている。それを発しているのは、明らかにラルネスだった。いつもの笑顔のままで。
彼はあくまで穏やかに、口を開いた。
「実はね、たった今ここに到着したんだ。奴の使った馬車の筋道を辿っていくと、簡単にたどり着いたよ。あんな特徴的な車輪なんか使うから、こんな遠いところまで轍を残してしまうんだよなあ」
「……奴、って」
「ああ、エリオード・ジルガニッレだよ」
ぞっ、と背筋が凍るのを感じた。
「もう誤魔化す必要はないよ。実はちょっと調べさせてもらったんだ、クロイアの事も含めて」
「……ラルネス」
「ジェリア、君は本当にあの男が好きなんだね」
ラルネスの微笑みは依然として消えない。しかし、こんな異様な空気を発するラルネスを未だかつて見たことがなかった。
震えるジェリアの手を、ラルネスがそっと取る。その仕草は、あくまで紳士的だった。
「分かってるよ、あの男からまた近付いてきたんだろう。君との繋がりをもう一度作るため、面倒な遠回りをしてでもクロイアを君の元へ送り込んだ。これが僕の推察」
恐らく実際そうではある。しかしここで頷けば、エリオードが確実に悪者になってしまう。
何も答えないジェリアに、ラルネスは微笑みかけた。
「大丈夫だ。僕が何とかしてあげる」
「どういう事?」
「簡単さ。今回こうやってジェリアに近付いたという事を奥方へ暴露してやればいいんだよ」
その声は、あくまで無邪気だった。
「実は今回僕が奴を追ったのは、奥方に依頼されてなんだ。先日あった都市部のパーティーで知り合ってね。何でも、夫が最近怪しいと言うじゃないか。でもあんな真面目な男が懸想する相手なんて、僕には一人しか浮かばなかったんだ」
「それで、私……?」
「ああ。周辺の女に関しては奥方がもうすっかり調べ尽くしていたからね。自由にジルガニッレの敷地を出られない彼女の代わりに、僕が動いてあげたというわけだ」
……最悪だ。よりによって、ラルネスに見つかってしまうとは。背筋が冷えて止まらない。
震えを、ジェリアの手から感じ取ったのだろう。ラルネスの手が、ジェリアの手を強く握り込んだ。
「大丈夫、ジェリアに被害は絶対いかないようにする。裁きを受けるのはあいつだけで十分だ。何より」
醜悪な、目。
「奥方が第二子を身ごもろうって時に、よくもまあ種をよそに蒔く気になってるものだよ」
「第二子……」
クロイアにとっての弟か、妹か。でも、エリオードは言っていた。そんな風な事にはしない、妻を抱いてはいないと。
ジェリアの戸惑いに、ラルネスは微笑みかける。
「子作りは順調みたいだよ? 週に三度は睦んでいるそうだし」
それを聞き、足の力が抜ける。地面に、へたりこんだ。尻餅をつく。
……いや、エリオードは確かに言っていた。ジェリアだけだ、と。
ラルネスは未だ微笑んでいた。柔らかく、しかしどこか……楽しそうにすら見えた。
「また騙されているのかい。どうせ言われたんだろう、『お前だけだ』って。前回もそれで騙されたじゃないか」
「あ、あ……」
声が、嗚咽に変わりだす。
また、嘘をつかれていたのか。最初の時と同じ、嘘を。ジェリアだけだと、あんなにも言っていたのに。
ラルネスはジェリアの前に屈み込んだ。そのまま、ジェリアを抱きしめる。
「大丈夫だよ、また僕が守ってあげる」
……その声は、甘かった。しかし、エリオードのような熱はない。
そうだ、自分はあの熱を欲している。誰よりも。そして再燃したその恋は……あまりにも、熱く燃えている最中なのだ。
「ジェリア?」
ジェリアはそっと、ラルネスを押しのけた。その行動にさすがに戸惑ったのか、ラルネスから微笑みが消える。
じっと、ラルネスの目を見る。自分と同じ青色の目は、とても澄んでいた。
「……ごめんなさい、ラルネス」
その謝罪の意味をくみ取りきれないらしく、ラルネスは露骨に顔を歪めた。そして、ジェリアの肩を掴む。
「どうしたんだ。ああやっぱり、あいつか。あの男が、余計な真似を」
「私」
ラルネスを制止するように、声を張り上げる。彼は、止まった。
「……今度こそ、信じたいの」
エリオードは言っていた。ずっとジェリアを想っていたと。真剣に愛していると。そして、妻よりもジェリアを取ると。いくら騙されていた事が事実だったとしても、かつて信じきれず切り捨てていた部分があったのだ。
「もしそれが本当だとしても、私はエリオードが言う事を信じる」
勿論、胸は痛い。張り裂けそうだ。しかしまだ、裏切られていると決まったわけではない。
ラルネスは歯噛みした。ジェリアの肩を掴む手が、こわばる。
「なんで、あいつなんだ」
「え?」
「っなんで、ジルガニッレ家なんだ!」
初めて聞く、激昂の声。あまりの大声に体をびくつかせると、ラルネスは怒りに満ちた表情でジェリアを固定した。
「何でよりによってあの家の人間を! あんな、あんな最低最悪のエクソシストの家を!」
「ラ、ラルネス」
ジェリアの震えた声に、ラルネスは表情を弾かせる。すぐに、「すまない」と呟いた。
「僕とした事が、取り乱してしまった。でも、ジェリア。駄目だ。僕は、絶対に認めない」
「ラルネス……」
「僕の大切な身内を、ジェリアを……あんな奴に絶対にやらない」
ジェリアの肩から手を離す。そして、ラルネスは背を向けた。慌てて彼の裾を掴む。振り向いた彼は、無表情だった。しかしその目には……いつもジェリアに向ける優しい瞳が、戻っていた。
「大丈夫だ、誰にも言わないよ」
「え……」
「奴の奥方はとんだ曲者でね。漏らせば確実にジェリアに嫌がらせをする。大切な身内に、そんな事はさせたくない」
ラルネスの表情には、微笑みが戻っていた。しかし、空気は依然として不穏なままだ。
そっと、ジェリアの手を外した。そして、強く抱きしめられる。
「ジェリア、僕にとって君はとても大切なんだよ。アーネハイトの、皆がそうなんだ。僕にとっては大切なんだ」
「ええ、私もよ」
声が、震えてしまう。しかしラルネスは、あくまでまっすぐだ。
「……だから、許してほしい」
その声は掠れていた。小さな声だった。だから、反応が出来なかった。
ラルネスはそっと、ジェリアを離した。表情はいつものラルネスに完全に戻っている。
「さて、依頼はこなしたしもう都市部へ戻るよ。暫くは僕の胸の内に秘めておくさ、でもジェリア」
「……なに?」
「あの男は僕としては認められない。アーネハイト次期当主としても、ひとりの人間としても……僕は認めるわけにはいかない。それだけは、分かってくれ」
それは、そうなのだろう。確かにあの公園での出来事の時も、最初からラルネスはエリオードに対して当たりがきつかった。あの時は、単にジェリアの事も絡んでかと思っていた。
「また今度、ゆっくり来るよ。その時に、改めて話をさせてくれるかい」
頷く。頷かざるを得なかった。
立ち尽くすジェリアを残して、ラルネスは歩き出した。ジェリアの姿が見えなくなる頃には、もう教会に到着していた。
「…………」
気配。ラルネスからは誰も見えない。しかし、息をひそめている気配が見えた。だからこそ、仕掛ける。
「伯母上は元気かい?」
息を呑む気配。諦めたかのように、がさがさと茂みから音がした。現れたのは、ひとりの子ども。ジェリアの前の時とは打って変わって、その表情には愛想の欠片もない。
……ああ、やはり似ている。
「身を潜めるなら、呼吸を消すだけでなく周囲と一体化する技術を身につける事だ。まさか景色が、殺意を持ってそこに在るわけなんてないのだからね」
「……こころえます」
クロイアはそう呟き、弓を地面に置いた。視線で右手を指すと、何本か矢が落ちてきた。
クロイアの寂しそうな声に、「そうね」とだけ返す。あまり言葉を露わにすると、感情を悟られそうで怖かった。
……前回までとは比べものにならない程の寂しさを感じる。改めて通じ合ってしまったからだろうか。
エリオードは、教会から直接発っていった。最後に「また近々くる」と言い残して。
「ぼく、このまま教会のしゅぎょうに入りますね」
「分かったわ。私は一旦帰るわね」
クロイアは寂しそうに俯く。いつもは見せない元気のない様子を疑問に思い、しゃがんで目線を合わせる。
「どうしたの、クロイア」
「……ジェリアさんは、父さんのおよめさんになるんですか」
ぎょっとする。「どうして」と何とか返すと、クロイアは唇を尖らせた。
「おふろで父さんが言ってたんです。『実際にジェリアみたいな母さんってどうだ』って」
……自分の気持ちこそは隠すのではなかったのか。それとも、クロイアが先に言い出したからなのか。あまりにもあからさますぎる。クロイアは続けた。
「あの、ぼく。あの時はああ言いましたけど……やっぱりいやだっていいました」
「え」
まさかの返事に、狼狽える。まさか、そんな答えがくるとはさすがに思っていなかった。内心泣きそうになるが、クロイアはどこか恥ずかしそうに俯いた。
「……はなよめさんにするのは、ぼくがいいっていいました」
「……え」
クロイアは、ジェリアに抱きついてくる。しゃがんでいるせいで、目線が同じ位置だった。柔らかい温もりが、ふわりとやってくる。
クロイアは、消え入りそうな声で口にした。
「よ、よくよく考えたら父さんには母さんがいますし。それなら、ぼくがジェリアさんをはなよめさんにしたいんです。おおきくなったらですけど」
「クロイア……」
何だか、胸の奥が熱くなる。そう思ってくれていたとは。無性に愛おしくなって、強く抱きしめる。クロイアはすりすりとジェリアの肩に顔を押しつけてきた。
「でもそれをいったら、父さんが『ぜったいむり』って言ったんです。多分ちょっと怒ってました」
「そ、そうなの」
「……父さんも、きっとジェリアさんがだいすきなんですね」
それはそれで嬉しい話だが、あまりにも大人気が無い気もする。しかしエリオードのあの嫉妬深さは、例え自分の息子でも容赦はしないだろう。
クロイアはそっとジェリアから離れた。エリオードによく似た赤い目で、じっと見つめてくる。
「ぼくがおとなになるまでに、待っててくれますか」
その目は、子どもがするにはあまりにも真剣そのものだった。少し戸惑うも、「クロイアに他に好きな子が出来なければね」と微笑む。するとクロイアは嬉しそうに笑った。それを見て、ジェリアの心も温かくなる。
クロイアは笑顔で、手を振ってジェリアを見送ってくれた。ジェリアも手を振りながら、教会をあとにする。
……まさか、クロイアにあんな事を言われるとは。内心どきりとした。
きっと、大人になればそんな約束など忘れるだろう。しかしひとまず、大人になったクロイアを想像してみる。恐らく、あの様子ならば顔立ちはエリオードに似るはずだ。そう考えると、少し心が浮き上がるような心地がした。
結局自分は、エリオードが好きなのだと思い知らされる。
「……エリオード」
その名を呟きながら、ジェリアはポケットに手を入れた。中から、以前見つけたロケットを取り出す。何だか気になってしまって、ずっと手放せなかった。
恐る恐る、首へとかける。かつて感じていた重みが、戻ってきた気がした。トップのロケットを、強く握りしめる。
……完全に、戻ってしまった。
ふと、背後に足音。はっとして振り返ると、鮮やかな金髪。
「ラルネス?」
「やあ」
彼は、いつもと変わらず微笑んでいた。朝日を浴びている彼は、もはや輝いているようにも見える。
「いつもいつも、突然なのね」
「そうだね。でも今回は気まぐれで抜き打ちにきたわけではないよ」
そこで、ジェリアは気付いた。空気が、ぴりぴりとしている。それを発しているのは、明らかにラルネスだった。いつもの笑顔のままで。
彼はあくまで穏やかに、口を開いた。
「実はね、たった今ここに到着したんだ。奴の使った馬車の筋道を辿っていくと、簡単にたどり着いたよ。あんな特徴的な車輪なんか使うから、こんな遠いところまで轍を残してしまうんだよなあ」
「……奴、って」
「ああ、エリオード・ジルガニッレだよ」
ぞっ、と背筋が凍るのを感じた。
「もう誤魔化す必要はないよ。実はちょっと調べさせてもらったんだ、クロイアの事も含めて」
「……ラルネス」
「ジェリア、君は本当にあの男が好きなんだね」
ラルネスの微笑みは依然として消えない。しかし、こんな異様な空気を発するラルネスを未だかつて見たことがなかった。
震えるジェリアの手を、ラルネスがそっと取る。その仕草は、あくまで紳士的だった。
「分かってるよ、あの男からまた近付いてきたんだろう。君との繋がりをもう一度作るため、面倒な遠回りをしてでもクロイアを君の元へ送り込んだ。これが僕の推察」
恐らく実際そうではある。しかしここで頷けば、エリオードが確実に悪者になってしまう。
何も答えないジェリアに、ラルネスは微笑みかけた。
「大丈夫だ。僕が何とかしてあげる」
「どういう事?」
「簡単さ。今回こうやってジェリアに近付いたという事を奥方へ暴露してやればいいんだよ」
その声は、あくまで無邪気だった。
「実は今回僕が奴を追ったのは、奥方に依頼されてなんだ。先日あった都市部のパーティーで知り合ってね。何でも、夫が最近怪しいと言うじゃないか。でもあんな真面目な男が懸想する相手なんて、僕には一人しか浮かばなかったんだ」
「それで、私……?」
「ああ。周辺の女に関しては奥方がもうすっかり調べ尽くしていたからね。自由にジルガニッレの敷地を出られない彼女の代わりに、僕が動いてあげたというわけだ」
……最悪だ。よりによって、ラルネスに見つかってしまうとは。背筋が冷えて止まらない。
震えを、ジェリアの手から感じ取ったのだろう。ラルネスの手が、ジェリアの手を強く握り込んだ。
「大丈夫、ジェリアに被害は絶対いかないようにする。裁きを受けるのはあいつだけで十分だ。何より」
醜悪な、目。
「奥方が第二子を身ごもろうって時に、よくもまあ種をよそに蒔く気になってるものだよ」
「第二子……」
クロイアにとっての弟か、妹か。でも、エリオードは言っていた。そんな風な事にはしない、妻を抱いてはいないと。
ジェリアの戸惑いに、ラルネスは微笑みかける。
「子作りは順調みたいだよ? 週に三度は睦んでいるそうだし」
それを聞き、足の力が抜ける。地面に、へたりこんだ。尻餅をつく。
……いや、エリオードは確かに言っていた。ジェリアだけだ、と。
ラルネスは未だ微笑んでいた。柔らかく、しかしどこか……楽しそうにすら見えた。
「また騙されているのかい。どうせ言われたんだろう、『お前だけだ』って。前回もそれで騙されたじゃないか」
「あ、あ……」
声が、嗚咽に変わりだす。
また、嘘をつかれていたのか。最初の時と同じ、嘘を。ジェリアだけだと、あんなにも言っていたのに。
ラルネスはジェリアの前に屈み込んだ。そのまま、ジェリアを抱きしめる。
「大丈夫だよ、また僕が守ってあげる」
……その声は、甘かった。しかし、エリオードのような熱はない。
そうだ、自分はあの熱を欲している。誰よりも。そして再燃したその恋は……あまりにも、熱く燃えている最中なのだ。
「ジェリア?」
ジェリアはそっと、ラルネスを押しのけた。その行動にさすがに戸惑ったのか、ラルネスから微笑みが消える。
じっと、ラルネスの目を見る。自分と同じ青色の目は、とても澄んでいた。
「……ごめんなさい、ラルネス」
その謝罪の意味をくみ取りきれないらしく、ラルネスは露骨に顔を歪めた。そして、ジェリアの肩を掴む。
「どうしたんだ。ああやっぱり、あいつか。あの男が、余計な真似を」
「私」
ラルネスを制止するように、声を張り上げる。彼は、止まった。
「……今度こそ、信じたいの」
エリオードは言っていた。ずっとジェリアを想っていたと。真剣に愛していると。そして、妻よりもジェリアを取ると。いくら騙されていた事が事実だったとしても、かつて信じきれず切り捨てていた部分があったのだ。
「もしそれが本当だとしても、私はエリオードが言う事を信じる」
勿論、胸は痛い。張り裂けそうだ。しかしまだ、裏切られていると決まったわけではない。
ラルネスは歯噛みした。ジェリアの肩を掴む手が、こわばる。
「なんで、あいつなんだ」
「え?」
「っなんで、ジルガニッレ家なんだ!」
初めて聞く、激昂の声。あまりの大声に体をびくつかせると、ラルネスは怒りに満ちた表情でジェリアを固定した。
「何でよりによってあの家の人間を! あんな、あんな最低最悪のエクソシストの家を!」
「ラ、ラルネス」
ジェリアの震えた声に、ラルネスは表情を弾かせる。すぐに、「すまない」と呟いた。
「僕とした事が、取り乱してしまった。でも、ジェリア。駄目だ。僕は、絶対に認めない」
「ラルネス……」
「僕の大切な身内を、ジェリアを……あんな奴に絶対にやらない」
ジェリアの肩から手を離す。そして、ラルネスは背を向けた。慌てて彼の裾を掴む。振り向いた彼は、無表情だった。しかしその目には……いつもジェリアに向ける優しい瞳が、戻っていた。
「大丈夫だ、誰にも言わないよ」
「え……」
「奴の奥方はとんだ曲者でね。漏らせば確実にジェリアに嫌がらせをする。大切な身内に、そんな事はさせたくない」
ラルネスの表情には、微笑みが戻っていた。しかし、空気は依然として不穏なままだ。
そっと、ジェリアの手を外した。そして、強く抱きしめられる。
「ジェリア、僕にとって君はとても大切なんだよ。アーネハイトの、皆がそうなんだ。僕にとっては大切なんだ」
「ええ、私もよ」
声が、震えてしまう。しかしラルネスは、あくまでまっすぐだ。
「……だから、許してほしい」
その声は掠れていた。小さな声だった。だから、反応が出来なかった。
ラルネスはそっと、ジェリアを離した。表情はいつものラルネスに完全に戻っている。
「さて、依頼はこなしたしもう都市部へ戻るよ。暫くは僕の胸の内に秘めておくさ、でもジェリア」
「……なに?」
「あの男は僕としては認められない。アーネハイト次期当主としても、ひとりの人間としても……僕は認めるわけにはいかない。それだけは、分かってくれ」
それは、そうなのだろう。確かにあの公園での出来事の時も、最初からラルネスはエリオードに対して当たりがきつかった。あの時は、単にジェリアの事も絡んでかと思っていた。
「また今度、ゆっくり来るよ。その時に、改めて話をさせてくれるかい」
頷く。頷かざるを得なかった。
立ち尽くすジェリアを残して、ラルネスは歩き出した。ジェリアの姿が見えなくなる頃には、もう教会に到着していた。
「…………」
気配。ラルネスからは誰も見えない。しかし、息をひそめている気配が見えた。だからこそ、仕掛ける。
「伯母上は元気かい?」
息を呑む気配。諦めたかのように、がさがさと茂みから音がした。現れたのは、ひとりの子ども。ジェリアの前の時とは打って変わって、その表情には愛想の欠片もない。
……ああ、やはり似ている。
「身を潜めるなら、呼吸を消すだけでなく周囲と一体化する技術を身につける事だ。まさか景色が、殺意を持ってそこに在るわけなんてないのだからね」
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