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7.触れさせない。君に、受け入れる器が出来るまでは。
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エリオードが去ってすぐに、ジェリアは我を取り戻した。急速に体の熱が冷えていく感覚にぞっとして、慌てて身を起こす。
乱されたのは、ドレスの中だけだった。中への射精を免れたのは、不幸中の幸いだ。手で溢れ出ていた愛液を必死で拭う。太股に力が入る度、じくりと膣内が痛む。
……やってしまった。
「どうしよう……」
顔を覆う。暗くなった世界に、エリオードとの記憶が浮かんでは、ちらつく。
変わっていなかった。あの声、目。そしてあの溢れ出るかのような甘い熱。けれど、それは嘘だった。彼はああ言っていたが、所詮は世帯持ちだ。自分への愛などより、妻への愛が第一に決まっている。
大丈夫だ、これからはしっかり避ければいい。少なくとも今日はもう近付いてこないだろう。そろそろ戻ってみようか。
身なりを整え、アーチを潜りでる。未だに人混みの密度は高かった。必死にきょろきょろと見渡し、ラルネスを探す。彼の後頭部はすぐに分かった。駆け寄ろうとすると、後ろから肩を叩かれる。ハッとして振り返ると、見知らぬ男が立っていた。
「見慣れない顔ですね、都市部の外からいらしたんですか」
にこやかに話しかけてくる男に、ジェリアはひとまず頷く。すると男は「ああ、やっぱり」とよりその愛想笑いを強めた。
「貴女のような美しい方は都市部ではなかなかお目にかかれない。麗しい貴女、お名前は」
「ジェ、ジェリア・アーネハイト……」
「ああ、アーネハイト家の令嬢ですか。いい、それはいい」
その言い方にどこか感じるものがあったが、何か言い返す前に男の手がジェリアの手首を掴んだ。その顔からは、爽やかさが早くも消えている。
「今夜のお相手はもうお決まりですか?」
「こ、今夜って」
「はは、初心な方だ。我が邸は国主邸のすぐ傍にあります。今からでも」
そこで、男の言葉は止まった。そして、顔も一瞬で凍り付いていた。何となく予感がして振り返ると、やはり予想通り。こんな男よりも断然見覚えのある微笑みが、背後に居た。
「ジェリア、もう大丈夫かい」
「え、ええ」
ラルネスはさりげない手つきで、ジェリアの手を掴んでいた男の手をひっくり返した。唐突な衝撃に驚いたのか、男は大げさに飛び退く。そんな男に対しても微笑みを崩さず、ラルネスは顔を男に向けた。
「我がいとこにとっては初めての謝恩会なんだ。お手柔らかに頼むよ」
「え、あ、えっ」
「行こう、ジェリア」
呆然とする男を放って、ラルネスはジェリアの手をそっと取った。戸惑いながらもそれにならう。
ラルネスに連れられるがままになっていると、ラルネスは顔だけをこちらへ向けてきた。
「もう大丈夫かい」
恐る恐る頷く。すると彼は「ならよかった」と微笑みを柔らかくした。
「まだろくに料理も食べられていないだろう。あちらはまだ結構残っているから行こう」
「ありがとう……」
「本当に大丈夫?」
まさか、エリオードの事を彼には言えない。もし知ったら、彼は微笑みながら激昂しそうだ。そういえば、彼はエリオードが今日来る事を知っているのだろうか。もしかすると、家の代表としての挨拶くらいはしているのかもしれない。あれだけの事をしたからジェリアには近付いてこないだろうという油断もありそうだ。
ラルネスに連れられたテーブルで残されていた料理を楽しんでいると、やはりそこでも男性の目に触れた。戸惑うジェリアの代わりに、ラルネスがすべて応対している。それに感謝と、少しの罪悪感を感じた。しかし彼は何とも思っていないようだった。
少しずつ、人が減り始めた。一応気をつけて周囲を見渡してはいるが、エリオードの姿は消えていた。意識していない内に、もう出て行ったのだろうか。その事にほんの少し胸の奥がちくりとする。
「誰か探しているのかい」
ラルネスの言葉にびくり、と身を跳ねさせる。そんなジェリアを、ラルネスはにこにこと見つめていた。ジェリアは「別に」と感情を殺して返す。
「おや、いい殿方はいなかったかな。僕は何人かアリかなあと思ったよ」
「別に貴方がいいと思っても……」
「一応君は僕の家の人間だ。次期当主の僕の意見も反映してもいいんじゃいか?」
それを言われると、言い返す事が出来ない。そこで反発する程、自由が欲しいわけでもない。
そうだ。自分が自由だったとしても、別に……結ばれる事はないのだ。
「ジェリア」
「何でもないわ」
まるで、未練があるような思考。いや、未練そのものはある。未練というよりは黒歴史としての記録に等しいか。それが、先程の出来事でより鮮明に戻ってしまっただけだ。
ジェリアはデザートの生菓子を口に運び、咀嚼する。そしてしっかり飲み込むと、「御馳走様」と呟く。
「おや、もういいのかい」
「ええ。ところで伯父様達は?」
「ああ、もう馬車にいるんじゃないかな。ジェリアと合流する前に、母上が人に当てられたから休むと言っていたよ。もう人も減ってきたし、僕たちも行こうか」
「そうね」
ラルネスは再びジェリアの手を取ると、馬車へ向かった。彼のエスコートを受ける度、やはり今日彼がいて本当に良かったと思えた。最初からずっとラルネスから離れずに居れば、エリオードは接触してこなかったのだろうか。
馬車に戻ると、すでに伯父夫婦が居た。彼らの合図で、馬車が走り出す。もう夜も遅いのに、都市部には未だ明かりが満ちていた。
本家の屋敷に到着すると、伯父と伯母は早々と自室へ消えていった。ラルネスは二人を見送ると、ジェリアを見た。
「ミネグブの部屋、まだ片付けていないんだ。客間よりそっちの方が都合がいいかもしれないね」
「いいの?」
「心配はいらない、もう彼女は戻ってこないさ」
その言葉に、どこにも悲しげな様子は見えなかった。振り切った、にしては少々早い気もするのだが。
ミネグブの部屋は、ラルネスの部屋の隣だった。
「中は好きなように使ってくれていいよ」
「ありがとう。そういえば、部屋は別だったのね」
「ああ、ミネグブとかい」
頷く。ラルネスは気まずそうに笑った。
「いや、最初は同じ部屋だったんだ。でも彼女が途中で部屋を分けたいと言い出してね」
どうも言いにくそうで、それ以上追求するのはやめた。
ラルネスは「明日また起こすよ」とだけ言って、部屋に入っていった。ジェリアも扉を開く。
中に入ると、香水の匂いが充満していた。換気が追いつかない程に、開けっ放しの香水たちが匂っていた。別に嫌いな匂いではないので、気にしない事にした。
備え付けられていたシャワーを浴び、寝間着を拝借する。そして、早速ベッドへ潜り込んだ。
「……疲れた」
思わず漏れ出た言葉に、ため息を吐く。ただでさえ不慣れな社交の場、そしてエリオードとの再会。精神への負荷は、果たして一晩の睡眠でとれるのだろうか。
枕に顔を埋める。すると、硬い何かの存在を感じた。少し気になり、枕の下に手を入れる。手が、何かに触れた。掴んで引きずり出す。
「本?」
厚い本だった。題名は無い。表紙を開くと、一枚目に手書きで文字が書いてあった。
「……『次にラルネス・アーネハイトの妻になる人へ』?」
見たことのある筆跡。これは、ミネグブのものだ。
その文章の下に、何かを二重線で訂正しているのが見えた。消されていたのは、数字。内容的に恐らく、書き出した日付とその約半年後の日付だった。元々日記にしていたという事か。
恐る恐る、開いていく。一固まりの文章の頭に、日付が記されている。やはり、日記だった。
『明日でラルネスが出張を終える。憂鬱でしかない』
『湯浴みすらろくにさせてもらえない。疲れた』
『彼の欲はいつになったら消えるのか』
「なにこれ……」
いい思い出が、一切書かれていない。ラルネスへの愚痴ばかりだ。
『私には彼の欲を受け止められない』
『地獄のよう』
『部屋をようやく分けたのに、彼はすぐに進入してくる。すべて無駄だった』
『誰も理解してくれない』
『この家は異常。誰も助けてくれない』
読み進めていく内に、ぞくりぞくりと背筋を何かが這う。これ以上は、見てはいけないかのような。
ラルネスの事は、ミネグブなどよりずっと近くで見てきたという自負がある。しかしそれは、あくまで親戚としてだ。妻に見せる顔はまた違ったのだろう。しかし、こんな……一種の摘発のような形を取らせるとは。
日付が、最後になった。
『手配は済んだ。私は自由になる』
「自由……」
次のページの、インクが透けていた。まだ、続きがある。恐る恐る、めくった。
手が震えたまま書いたのだろう。細かく揺れた字を、目で追った。
『私には無理だった。彼を最後まで受け止める事は出来なかった。もしあなたが彼を愛せるなら、すべてを捨て彼に尽くす事が必要となる。どうか、あなたが壊れずに済みますように』
まるで遺言にすら見える程にまで、追いつめられていた言葉に見えた。
ジェリアはそっと本を閉じる。一瞬思考を巡らせたが、再び枕の下に戻した。きっとそれが、ミネグブの望みだ。
この部屋はきっと、換気こそはされていても掃除はそこまでされていない。こんな本が見つかれば、きっと処分されるはずだ。
……一体、何だというのだろう。しかしどうせ考えたところできっと意味もない。
純粋に、疲れが体を蝕んでいる。もう、考える事を放棄したかった。すぐに、ジェリアの瞼は自棄気味に落ちた。
翌日、ラルネスに起こされるよりも先にジェリアは目を覚ました。素早く身支度を整え、迎えにきたラルネスに連れられ馬車の前に来た。
ラルネスは相変わらず微笑みながら、ジェリアの頭を撫でた。
「次に会うのはいつだろう。新年の前には多分もう一度南部へ行くよ」
「そう。また待っているわ」
「ジェリアもまた都市部においで。部屋はいつでもあるからね」
その言葉に少しぞくりとしたが、顔には出さずに済んだ。
ジェリアは馬車に乗る。そのまま、御者の手によって馬車は駆けだした。それを見送ると、ラルネスの口から勝手にため息が漏れた。
「やっぱり僕は、意気地なしだなあ」
ミネグブの事はもうどうとも思わない。追いかける気も沸かない。どうせなら幸せにこの先も生きていればいいとは思うが、それは所詮博愛精神からくる他人事だ。
彼女が何故自分から逃げ出したかは十二分に分かっている。けれど、結局そこは価値観の差異によるものだ。どうしようもない。だからこそ、そこが自分の汚点であるという事も自覚している。
……ジェリアに知られる事だけは、避けなければならない。
乱されたのは、ドレスの中だけだった。中への射精を免れたのは、不幸中の幸いだ。手で溢れ出ていた愛液を必死で拭う。太股に力が入る度、じくりと膣内が痛む。
……やってしまった。
「どうしよう……」
顔を覆う。暗くなった世界に、エリオードとの記憶が浮かんでは、ちらつく。
変わっていなかった。あの声、目。そしてあの溢れ出るかのような甘い熱。けれど、それは嘘だった。彼はああ言っていたが、所詮は世帯持ちだ。自分への愛などより、妻への愛が第一に決まっている。
大丈夫だ、これからはしっかり避ければいい。少なくとも今日はもう近付いてこないだろう。そろそろ戻ってみようか。
身なりを整え、アーチを潜りでる。未だに人混みの密度は高かった。必死にきょろきょろと見渡し、ラルネスを探す。彼の後頭部はすぐに分かった。駆け寄ろうとすると、後ろから肩を叩かれる。ハッとして振り返ると、見知らぬ男が立っていた。
「見慣れない顔ですね、都市部の外からいらしたんですか」
にこやかに話しかけてくる男に、ジェリアはひとまず頷く。すると男は「ああ、やっぱり」とよりその愛想笑いを強めた。
「貴女のような美しい方は都市部ではなかなかお目にかかれない。麗しい貴女、お名前は」
「ジェ、ジェリア・アーネハイト……」
「ああ、アーネハイト家の令嬢ですか。いい、それはいい」
その言い方にどこか感じるものがあったが、何か言い返す前に男の手がジェリアの手首を掴んだ。その顔からは、爽やかさが早くも消えている。
「今夜のお相手はもうお決まりですか?」
「こ、今夜って」
「はは、初心な方だ。我が邸は国主邸のすぐ傍にあります。今からでも」
そこで、男の言葉は止まった。そして、顔も一瞬で凍り付いていた。何となく予感がして振り返ると、やはり予想通り。こんな男よりも断然見覚えのある微笑みが、背後に居た。
「ジェリア、もう大丈夫かい」
「え、ええ」
ラルネスはさりげない手つきで、ジェリアの手を掴んでいた男の手をひっくり返した。唐突な衝撃に驚いたのか、男は大げさに飛び退く。そんな男に対しても微笑みを崩さず、ラルネスは顔を男に向けた。
「我がいとこにとっては初めての謝恩会なんだ。お手柔らかに頼むよ」
「え、あ、えっ」
「行こう、ジェリア」
呆然とする男を放って、ラルネスはジェリアの手をそっと取った。戸惑いながらもそれにならう。
ラルネスに連れられるがままになっていると、ラルネスは顔だけをこちらへ向けてきた。
「もう大丈夫かい」
恐る恐る頷く。すると彼は「ならよかった」と微笑みを柔らかくした。
「まだろくに料理も食べられていないだろう。あちらはまだ結構残っているから行こう」
「ありがとう……」
「本当に大丈夫?」
まさか、エリオードの事を彼には言えない。もし知ったら、彼は微笑みながら激昂しそうだ。そういえば、彼はエリオードが今日来る事を知っているのだろうか。もしかすると、家の代表としての挨拶くらいはしているのかもしれない。あれだけの事をしたからジェリアには近付いてこないだろうという油断もありそうだ。
ラルネスに連れられたテーブルで残されていた料理を楽しんでいると、やはりそこでも男性の目に触れた。戸惑うジェリアの代わりに、ラルネスがすべて応対している。それに感謝と、少しの罪悪感を感じた。しかし彼は何とも思っていないようだった。
少しずつ、人が減り始めた。一応気をつけて周囲を見渡してはいるが、エリオードの姿は消えていた。意識していない内に、もう出て行ったのだろうか。その事にほんの少し胸の奥がちくりとする。
「誰か探しているのかい」
ラルネスの言葉にびくり、と身を跳ねさせる。そんなジェリアを、ラルネスはにこにこと見つめていた。ジェリアは「別に」と感情を殺して返す。
「おや、いい殿方はいなかったかな。僕は何人かアリかなあと思ったよ」
「別に貴方がいいと思っても……」
「一応君は僕の家の人間だ。次期当主の僕の意見も反映してもいいんじゃいか?」
それを言われると、言い返す事が出来ない。そこで反発する程、自由が欲しいわけでもない。
そうだ。自分が自由だったとしても、別に……結ばれる事はないのだ。
「ジェリア」
「何でもないわ」
まるで、未練があるような思考。いや、未練そのものはある。未練というよりは黒歴史としての記録に等しいか。それが、先程の出来事でより鮮明に戻ってしまっただけだ。
ジェリアはデザートの生菓子を口に運び、咀嚼する。そしてしっかり飲み込むと、「御馳走様」と呟く。
「おや、もういいのかい」
「ええ。ところで伯父様達は?」
「ああ、もう馬車にいるんじゃないかな。ジェリアと合流する前に、母上が人に当てられたから休むと言っていたよ。もう人も減ってきたし、僕たちも行こうか」
「そうね」
ラルネスは再びジェリアの手を取ると、馬車へ向かった。彼のエスコートを受ける度、やはり今日彼がいて本当に良かったと思えた。最初からずっとラルネスから離れずに居れば、エリオードは接触してこなかったのだろうか。
馬車に戻ると、すでに伯父夫婦が居た。彼らの合図で、馬車が走り出す。もう夜も遅いのに、都市部には未だ明かりが満ちていた。
本家の屋敷に到着すると、伯父と伯母は早々と自室へ消えていった。ラルネスは二人を見送ると、ジェリアを見た。
「ミネグブの部屋、まだ片付けていないんだ。客間よりそっちの方が都合がいいかもしれないね」
「いいの?」
「心配はいらない、もう彼女は戻ってこないさ」
その言葉に、どこにも悲しげな様子は見えなかった。振り切った、にしては少々早い気もするのだが。
ミネグブの部屋は、ラルネスの部屋の隣だった。
「中は好きなように使ってくれていいよ」
「ありがとう。そういえば、部屋は別だったのね」
「ああ、ミネグブとかい」
頷く。ラルネスは気まずそうに笑った。
「いや、最初は同じ部屋だったんだ。でも彼女が途中で部屋を分けたいと言い出してね」
どうも言いにくそうで、それ以上追求するのはやめた。
ラルネスは「明日また起こすよ」とだけ言って、部屋に入っていった。ジェリアも扉を開く。
中に入ると、香水の匂いが充満していた。換気が追いつかない程に、開けっ放しの香水たちが匂っていた。別に嫌いな匂いではないので、気にしない事にした。
備え付けられていたシャワーを浴び、寝間着を拝借する。そして、早速ベッドへ潜り込んだ。
「……疲れた」
思わず漏れ出た言葉に、ため息を吐く。ただでさえ不慣れな社交の場、そしてエリオードとの再会。精神への負荷は、果たして一晩の睡眠でとれるのだろうか。
枕に顔を埋める。すると、硬い何かの存在を感じた。少し気になり、枕の下に手を入れる。手が、何かに触れた。掴んで引きずり出す。
「本?」
厚い本だった。題名は無い。表紙を開くと、一枚目に手書きで文字が書いてあった。
「……『次にラルネス・アーネハイトの妻になる人へ』?」
見たことのある筆跡。これは、ミネグブのものだ。
その文章の下に、何かを二重線で訂正しているのが見えた。消されていたのは、数字。内容的に恐らく、書き出した日付とその約半年後の日付だった。元々日記にしていたという事か。
恐る恐る、開いていく。一固まりの文章の頭に、日付が記されている。やはり、日記だった。
『明日でラルネスが出張を終える。憂鬱でしかない』
『湯浴みすらろくにさせてもらえない。疲れた』
『彼の欲はいつになったら消えるのか』
「なにこれ……」
いい思い出が、一切書かれていない。ラルネスへの愚痴ばかりだ。
『私には彼の欲を受け止められない』
『地獄のよう』
『部屋をようやく分けたのに、彼はすぐに進入してくる。すべて無駄だった』
『誰も理解してくれない』
『この家は異常。誰も助けてくれない』
読み進めていく内に、ぞくりぞくりと背筋を何かが這う。これ以上は、見てはいけないかのような。
ラルネスの事は、ミネグブなどよりずっと近くで見てきたという自負がある。しかしそれは、あくまで親戚としてだ。妻に見せる顔はまた違ったのだろう。しかし、こんな……一種の摘発のような形を取らせるとは。
日付が、最後になった。
『手配は済んだ。私は自由になる』
「自由……」
次のページの、インクが透けていた。まだ、続きがある。恐る恐る、めくった。
手が震えたまま書いたのだろう。細かく揺れた字を、目で追った。
『私には無理だった。彼を最後まで受け止める事は出来なかった。もしあなたが彼を愛せるなら、すべてを捨て彼に尽くす事が必要となる。どうか、あなたが壊れずに済みますように』
まるで遺言にすら見える程にまで、追いつめられていた言葉に見えた。
ジェリアはそっと本を閉じる。一瞬思考を巡らせたが、再び枕の下に戻した。きっとそれが、ミネグブの望みだ。
この部屋はきっと、換気こそはされていても掃除はそこまでされていない。こんな本が見つかれば、きっと処分されるはずだ。
……一体、何だというのだろう。しかしどうせ考えたところできっと意味もない。
純粋に、疲れが体を蝕んでいる。もう、考える事を放棄したかった。すぐに、ジェリアの瞼は自棄気味に落ちた。
翌日、ラルネスに起こされるよりも先にジェリアは目を覚ました。素早く身支度を整え、迎えにきたラルネスに連れられ馬車の前に来た。
ラルネスは相変わらず微笑みながら、ジェリアの頭を撫でた。
「次に会うのはいつだろう。新年の前には多分もう一度南部へ行くよ」
「そう。また待っているわ」
「ジェリアもまた都市部においで。部屋はいつでもあるからね」
その言葉に少しぞくりとしたが、顔には出さずに済んだ。
ジェリアは馬車に乗る。そのまま、御者の手によって馬車は駆けだした。それを見送ると、ラルネスの口から勝手にため息が漏れた。
「やっぱり僕は、意気地なしだなあ」
ミネグブの事はもうどうとも思わない。追いかける気も沸かない。どうせなら幸せにこの先も生きていればいいとは思うが、それは所詮博愛精神からくる他人事だ。
彼女が何故自分から逃げ出したかは十二分に分かっている。けれど、結局そこは価値観の差異によるものだ。どうしようもない。だからこそ、そこが自分の汚点であるという事も自覚している。
……ジェリアに知られる事だけは、避けなければならない。
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