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第六話
確認と出会い
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「ヒラリ鉱山、諦めたようには思えないわねぇ」
三十代も終わりを間近に迎え、色気がピークに入りつつある。そう、自分では思っている。林古桃香は、淹れたての熱い紅茶をものともせずに口に運んだ。
アーデルはふむ、と頷く。
「恐らく何かしら、また仕掛けてくるはずだ。その場合、恐らくあちらは総力を挙げてくる。ならば、打てる手は二つ。まずはこちらが先にかの鉱山の石を急ピッチで回収しきるか。もしくは完全に名義をこちらのものにさせるか」
「前者はともかく、後者は反乱必至でしょうねぇ。そういう強硬手段をとる『neo-J』から助けた組織が同じ事をすれば、それこそという感じよ」
「だな。まあ、そこまで急を要する案件ではなかろう。後に回して構わん」
猫舌を自称するアーデルは、未だ紅茶に口を付けていなかった。常に暗殺を懸念しているのはやはり本人だが、信頼を最も寄せている男……一号の淹れた茶を疑っているという事は無いだろう。
穏やかな昼下がり。夏が始まった。
「そちらはどうだ、何か研究は進捗あるのか」
「ええ、一つ有力な手掛かりを見つけたわ。そもそも時間を作ってもらったのはその事についてなのよねぇ」
茶封筒を手渡す。アーデルはそれを受け取り、中にある書類を取り出した。一号に音読させ、聞き終えてから桃香に顔の位置を戻す。
「……なるほど、これは確かに……ふむ、現地調査に行かせた方がいいな、ここまで掴んだなら」
「作戦部に話を通しておきましょう、ここで何か掴めればかなりの躍進になるわ」
アーデルは頷くと、茶封筒を一号に預けた。彼はいつもと変わらず猫の瞳を持って、周囲を油断無く見渡している。その視線がかなり癇に障ったが、それを敢えて口にする程桃香は愚かではなかった。
そもそも、この男が何故『卍』に居るのか。桃香も古株と言えど、最古参というわけではない。その事情は未だに読めない。
「それにしても、どうも最近研究が滞り気味ではないか」
かなり、単刀直入に言葉が入り込んできた。内心どきりとしたが、すぐに苛立ちに変わる。
「現在は、どちらかと言えば『旧』時代の文献漁りでうちの部署は忙しいの。手掛かり無くして前進はありえないわ」
「言うようになったな。『neo-J』の企みが把握しきれぬ以上、こちらも急がねばならんというのに。奴らが現在最大の障壁だ」
ようやく、アーデルは紅茶に口を付けた。目も見えないくせに器用な事だが、ずっと抱いていた疑念がどんどん加速されていく。本当に彼は、盲目なのか。一つの組織を運営するのにとんでもないハンディキャップだというのに、その苦労を一切彼は感じさせない。正直、かなり疑わしい。
「『neo-J』の壊滅、そして『革命』の再来。どちらからでもいい、何せ早くに着手する必要がある」
『neo-J』の壊滅は、現状不可能だ。国家元首に値する組織を潰すには、未だ力が足りなすぎる。そして『革命』も……こちらに至っては、未だ手掛かりすら見えてこない。だからこそ、桃香達神秘研究課が必要以上に圧力をかけられている。その現状に、盛大な苛立ち。
「まあ、やれるものなら早い内がいいわねぇ。作戦部と話してきましょう」
「頼んだ」
足音荒く、桃香は出て行った。その内心を察せない程馬鹿では無いつもりだが、それでも急を要する。
『neo-J』の壊滅は勿論望ましい。しかし本当の願いは壊滅ではなく、あくまで吸収だ。『neo-J』を傘下に丸ごと置き、奴らが掴んでいるであろう『革命』の手掛かりを丸ごと擁する。
そして、あの女を。その息子を、手中に収める。既に『鍵』はもうこちらの身の内だ。
『君に人殺しは、まだ早い』
それを聞いたあの時の子どもは、涙を止めた。そこから強く、歩んだ。完全に自分の理想に近付きつつある。何度も狙われたが、それをあの子は呪いの力を以てしてすべて弾き飛ばしてきた。
あの子が、『鍵』だ。『neo-J』を挫き、アーデルが世界を手に入れるための。
「一号」
「はい」
『neo-J』の戦利品である猫目の男は、アーデルの手にそっと触れた。温かい、人のぬくもり。あの女にも、これが在った。すべて奪い、無駄にしたのは自分だ。その事を彼女自身、そしてその息子に恨まれても仕方が無い。
進むしか、無いのだ。
最近自分はどうも負け通しというか、あまり戦闘において活躍出来ていない気がする。その場に居合わせた人間や地の利、『種』の効力などが色々噛みあい奇跡が起こる割合が多い。
「そういう悪運も、生き延びる為には必須よ」
アキラの言葉は恐らく慰めではあるのだろうが、どこか総吾郎の気は晴れない。
ヒラリ鉱山から戻ってきて早十日。漸く適正な手術を受け現在は術後観察中だ。病室に自身がこもるのは、『卍』に来て以来になる。しかしそれでも、退院は今日出来るそうだ。実際苦痛はもう無くなっている。
重体の総吾郎が戻って早々、やはり栄佑は大パニックに陥った。大声で泣き喚き『neo-J』に乗り込みにかかろうとするのを数人がかりで押さえ込み、最終的には吹き矢麻酔で大人しくさせていた。一度麻酔が覚めてからも暴れかねなかったので常に鎮静剤を点滴している状態らしく、現在はアレッタが傍についているそうだがこれではもはやどちらが年上か分からない。
「私も作戦部に配属されてから、何度も死にかけた。戦闘でも訓練でも」
「く、訓練で?」
「あの時の私の様子を見れば、いかに私が君に施した訓練が優しいものだったかよく分かると思うわ」
過去の訓練を思い返してみる。確かに筋肉痛だったり『種』の副作用だったりで動けなくなる事は多々あったが、それより上があったというのか。確かに訓練時は同じメニューをアキラもこなしていたが、ケロッとしていた記憶はある。
そういえばアキラの過去の事は、全然知らない。以前アマイルスからダイヤモンド製の『種』の話を聞いただけだ。ここにはかなり昔から居ると聞いているが、一体どう過ごしてきたのだろう。少なくとも『卍』の重要任務を任されるくらいなのだから、それなりに立場は確立しているはずだ。
「そういえば、アキラさんは今は任務無いんですか?」
「今は本部の基地内小間使い状態ね、今はお手洗いという事にして抜け出してきてるの」
それは早く戻った方が身の為ではないのか、とは思ったが口にはしなかった。内心、抜け出してでも見舞いに来てくれるのが嬉しかったのだ。
ふと、思い浮かぶ。
「……マトキさんとアレクセイさんは、どうしてるんでしょうか」
アキラは一瞬ぴくり、と眉を動かした。何か悪い事を聞いたか、と思ってひやりとしたが雰囲気に棘は感じられなかった。
「あんな形で引き渡した以上、こちらからの干渉は不可だと思った方がいいわ」
考えれば、当たり前だ。しかし、どうしても気にはなる。最後に二人を見たのは、光精一行に運び込まれる気絶した状態でだった。正直、無事に生きているのかも分からない。しかし光精の事だ、きっと手荒にはしていないだろう。なぜかそういう信頼はあった。もっとも、彼の全ての面を見たわけではないからこそだが。
アキラの表情が、先程から少し曇りだしている。少し気になって覗き込むと、彼女は口を開いた。
「ソウくん、あの男の事なんだけど」
「あの男?」
恐らく、光精の事だろう。アキラは頷いた。
「どうも、頭にあいつの事がこびりついて離れないの。あの日会ってから、ずっと」
あんな……あんな事があったからだろうか。それについては口に出さずとも、きっと違うという事は分かる。アキラはそんな事程度で靡くような人間ではないともう分かっている。そんな彼女ですら謎として抱くからには恐らく、もっと別の……得体のしれない何かだろう。
白魚のような細く尖った自身の指で額に触れたアキラの目は、明らかにどこか焦りのような色。
「初めて会ったはずなのに、何故か……とても、懐かしかった。記憶が無いっていうのはきっとハッタリだろうけれど」
「そうなんですか?」
「流石に乳児の頃は自信が無いけれど、それなら記憶を失うも何も無いでしょう。それに、ボスが絡んでるって……いえ、もう忘れましょう。悪かったわ、変な話して」
首を振る。
病室からアキラが出て行く。その背中を眺めながら、総吾郎は改めて天井を眺めた。
本当に、これでいいのだろうか。いくら重傷を負っていたと言え、もう退院も出来るしとくに注意も受けていない。これなら、次の任務に向けて特訓した方がいいかもしれない。
もっと、強くなるために。
「……よし」
立ち上がる。体はだいぶ軽くなっていた。内臓は全て奇跡的に補完出来ているそうで、手を加えたと言えば縫合くらいらしい。これも、杏介のオニキスの効果なのか。
主治医に退院すると告げると、案外あっさりと「お大事に」と言われた。その足で、特訓場へ向かう。ここまでくると、一秒も無駄にしたくなかった。
普段アキラと特訓している特訓場に到着し、ID入力し中へと踏み込む。誰もいなかった。照明をつけ、エネミーモデルを設置する。そして元々用意されてあった『種』のバスケットを広げた。改めて、中を確認してみる。
「雷……炎……氷……風……」
何の石が使用されているかまでは、正直把握しきれていない。今のところ、雷と氷の能力は問題無く使えている。炎は未だ使う勇気が出ないし、アマイルスの話を聞いているとどこか暴走しそうで使用を憚られた。
となると、今まで試した事の無いものを使ってみるか。鮮やかな紫色の『種』を摘みあげる。風の能力が組み込まれたものらしい。右手の中で、強く握りこむ。
しかし、違和感。
「……あれ?」
手を開く。その中には、未だ『種』が残っていた。普段なら十秒もあれば吸収しきれるのに。よく見ると一回り近く小さくなってはいるが、それを踏まえてもかなり吸収スピードが遅い。
「アメジストとは相性が悪いって予想はしてたけど、どんぴしゃね」
聞き慣れた声がして振り返ると、アキラが居た。呆れたような顔をしてこちらを見ている。
「ゆっくり休めと言ったのに」
「す、すみません……でも、居ても立ってもいられなくて」
軽い、溜息。その表情はどこか柔らかくなっていた。
「分かるわ、その気持ち。私も経験した事あるもの」
「……アキラさん」
「それ、貸して頂戴」
戸惑いながらも、渡す。アキラは右手で強く握り込むと、十五秒程目を閉じた。開かれた手の平に、先程の『種』は無かった。恐らく、総吾郎がこれを吸収しきるよりかは断然早い。
「言っておくけど、あなたの『種』の吸収スピードが本来はおかしいのよ。私は比較的アメジストと相性がいいからこれくらいで済んでいるけれど、普通ならもう少しかかる」
「そ、そうなんですか」
「吸収スピードが速ければその分すぐに攻撃に移れるから、最大のメリットよね。だからそこに関しては、私はうらやましい」
まさか、そう言われるとは思っておらず顔が熱くなる。しかし、どこか安心もした。自分にも、どこか……人より、それもアキラより秀でた部分がある。それは、嬉しかった。
アキラは続ける。
「ただ、その分消化も早い。ならば新しい『種』をすぐ吸収すればいいかと言えばそうとも言えないわ。吸収だけでも、本当はかなりダメージを負う。つまり連続吸収は危険。これは前にも言ったわね」
「……短期決戦じゃないと駄目、って事ですか」
アキラは頷いた。
「ただ、そうなると攻撃手段は一度に多数を選べない。どういう敵が相手なのか瞬時把握し的確な攻撃を行う必要があるわ。そしてそれが確実に命運を分ける」
その判断力を身に付けるには、相当な場数が要るだろう。自分に一番足りない部分はそこだ。自分ひとりで戦局を切り開く判断力と、実力。すべてが足りない。
ふわり、と風が頬を撫でた。ふとアキラを見ると、彼女の髪がせわしなく揺れていた。
「どうせ、私が居なくなったところでがむしゃらに修行するんでしょう。手伝うわ」
「え、でもアキラさんの用事は」
「それよりも今は、後進の育成が大事でしょう」
その言葉を終えた瞬間、唐突な圧が腹を強く押した。驚きのあまりバランスを崩し、尻餅をつく。見上げた先には、風を味方につけたアキラがいつもの顔で見下していた。
「何でもいいわ。今から十分間、ひたすら私はあなたの敵役として立ち回る。傷一つでも付けてごらんなさい、そこで終了」
立ち上がる。胃を直撃したのか、吐き気が込み上げてきた。口元を押さえ体内に閉じ込めると、アキラを強く睨めつける。それを見、一瞬彼女は笑った。
「……そう、その意気よ」
ド、と可聴出来る程の勢いの風。今度は予測出来た為、バランスを崩さずに済んだ。うまくバックステップで着地すると、バスケットに手を突っ込み氷の『種』を掴む。強く握り込むと、さっきの風の『種』と比べ物にならないスピードで体内に吸収されていくのが分かる。悪寒とは違う、心地よい冷気が体内を巡っていった。
アキラを見据える。彼女は右腕を総吾郎の方に伸ばし、それを合図にして猛スピードで蔦が伸ばした。まるで毒蛇の勢いで総吾郎に巻きついてきた草を、全身から冷気を放出させ瞬時に冷凍させる。あの時の海と、同じ感覚だった。
バリン、と派手な音を立てて蔦が割れた。粉々になって床に落ちる。それを確認するよりも先に、アキラに向かって駆けた。
「そんな走りじゃ、押し返されるわよ」
再び、強大な圧。暴風が総吾郎の全身を吹き飛ばそうと襲いかかるが、それこそが狙いだった。
「っはあ!」
全身の毛穴から、冷気を放つ。風とぶつかり、ミシミシと軋んだ音を立てて風の中の僅かな水分を瞬時に凍らせる。まるで一瞬だけ、巨大な氷の壁がアキラと総吾郎を隔てたように見えた。
あまりの暴風だった。その分、氷の壁自体が重く――厚い。瞬時にアキラは、総吾郎の発想を理解した。しかしもう遅い。
「らぁっ!!」
全身の力を込め、壁を蹴飛ばす。先程の軽い蔦のように割れる事なく、壁は猛スピードでアキラへと向かった。それはアキラが飛び退くよりも先に。
「ぐっは!」
アキラの、女とは思えないような呻き声。感触からするに、まともに直撃した。慌てて様子を見に行くと、アキラは居なかった。代わりに、緑色の……厳重に編み込まれた、蔦の盾だった。そこから一本、総吾郎を捕らえようと槍のように飛び出してくる。反応が、追いつかなかった。
「くっ……」
足を取られる。弾みで転んだが、同時に蔦の盾がするすると解け出した。そこに居たのは、頭から流血しているアキラだった。
「アキラさ、傷が……」
「間に合わなかったのよ」
総吾郎の足に巻きついていた蔦が力なく解けた。そのまま、盾を構成していた蔦ごと彼女の体内に戻っていく。かなり息が荒い。
アキラは腕時計を見ながら、深い溜息を吐いた。
「……八分。ぎりぎりね」
「あー……すみません」
「いいわ、私もこのままじゃガス欠になるところだったし」
アマイルスの言葉を思い出す。そうだ、アキラのあの蔦は彼女の体力消耗に直結している。『種』を取り込むだけでその力を引き出せるシステムとは違うのだ。それを思い出し、急に申し訳ない気になる。
ひとまず、アキラの頭部を消毒し包帯を巻く。出血の見た目にしては傷はどうやら浅いらしく、安心した。
「これからもこういう、実戦形式の特訓を増やした方がいいわね。今までは『種』の扱い方の基礎応用がメインだったし」
かつての記憶を元に、今回の戦術を組んだ。確かに、こういう様々な機転は過去の経験から来るところも多い気がする。頷くと、アキラの周りでそよいでいた風が落ち着いた。
「そういえば、アキラさんが『種』を使うところ初めて見ました」
今までの特訓は、アキラはあくまで指南役だった。こういう実戦形式を取ったのは初めてだし、そもそも蔦以外に戦術を持つ事すら正直想像がついていなかった。アキラは「ああ」と無表情で総吾郎を見る。
「私の武器はこれで基本的にどうにかなるから。本当に対応しきれなくなった時だけにしてるの、『種』を使うのは」
「そんなに、負担になるんですか」
「ええ、ソウくんは恐らく体内消滅が早いからあまり気にならないでしょうけど。私は平均くらいの処理能力だけれど、普通はこんなものよ」
意外だった。よくよく考えたら、自分やアキラ以外の戦闘員と仕事をあまり共にした事が無いからかそれすらも知らずにいた。
……自分には、このスタイルが合っている。これが、皆の役に立つのなら。
「もっと、頑張ります。だから、またお願いしていいですか」
アキラは頷いた。その瞬間だった。アキラの中に、一人の男の影が上った。
――黒髪の、強い瞳を持った男。よく似た、その顔。表情。目。甘い声。自分に向けられる、慈愛。いや、自愛?
突如として浮かぶ、頭痛。
「アキラさん?」
「っ……だい、じょうぶ」
額を押さえる。傷の痛みか。否、これは内側からだ。あの男の、声。しかし、彼の事は知らない。何故、こんなにもアキラを支配するのか。何故。あの再会以来、彼の事が頭から離れない。
再会? 何故、『かつて会った事を自分は知っている』?
「誰……」
須藻々光精。分からない。彼を知らない。しかし、何故かずっと居る。それは、果たしていつからだ?
扉の開く音。二人して振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。三十代か、四十代かきわどい妙齢の女だ。派手な髪色と知的な眼鏡は、どこか杏介を彷彿とさせる。彼女は官能的な唇をそっと開いた。
「あら、お取り込み中かしらねぇ」
「……林古委員長っ……」
アキラの口から、苦し紛れの声が上がる。女は怪訝な顔をして、駆け寄ってきた。
「どうしたのあなた、その傷も」
「あ、これは……俺が、やりました。特訓を付けてもらってて」
女の視線が総吾郎の方を向く。彼女は薄く、笑った。
「ああ、そうなの。それなら大丈夫かしらねぇ、あなた昔から散々強化されてるからその程度何てこと無いでしょう」
「強化?」
女は一瞬アキラを見るが、構わず続けた。
「この子の体は既にあちこち弄られてるのよ。あらゆる実験にも、怪我にも、あの『種』にも耐えうるように」
「余計な事を、言わないでくださいっ……!」
女は「ごめんなさいねぇ」とだけ言うと、改めて総吾郎に向き直る。
「私は林古桃香。弟達の方とは何度も会っているんでしょう、聞いてるわ」
「あなたが……」
「杏介からどう聞いているかは分からないけど、研究委員会の委員長をしているわ。挨拶が遅くなってごめんなさいねぇ」
桃香はアキラの頭を撫でた。露骨に嫌な顔をする彼女を見、くすりと笑う。
「あらあら、昔はこうすると泣き止んだのに」
「泣いていません……」
まるで母と娘のようなやり取りだ。
アキラは持ち直したのか、桃香の手を払いのけた。それに僅かに傷ついたような仕草を見せるも、すぐににこやかに桃香は笑う。どこか、妙な色気を感じた。
そんな彼女に、アキラは尖った声を放つ。
「わざわざこんな所に来るなんて、何か御用ですか」
「勿論よ。アキラちゃん、あなたを探していたの」
嫌な予感がする、と言わんばかりの表情だ。それを無視するように、桃香は告げる。
「貴女に新しい任務が入ったわ。そして、田中くん。あなたにも同行してもらおうかしら」
ハッとして桃香を見る。彼女はその笑みの奥深くにほんのわずかな圧を滲ませて、二人を交互に見る。どこか、ぞっとした。
「決行は一週間後。とある遺産の調査をしてもらいたいの」
「遺産……?」
「詳しいレジュメは今夜上げるわ。待っていて頂戴」
アキラと顔を見合わせる。彼女も予想外だったらしく、怪訝な顔をしていた。そんな二人に対し、桃香はあくまで穏やかに問うた。
「なに、不満?」
慌てて首を振る。しかしどこか気まずくて、そっと口を開いた。
「ただ、アキラさんと任務としてちゃんと組むのは、その……初めてだなと思って」
栄佑の時は、あくまで総吾郎がメインで行っていた。アキラはあくまでサポートだ。マトキの時もあれは例外任務で、正規ではない。「そういえばそうね」とアキラも呟く。
さして機嫌を損ねたわけでは無さそうでホッとする中、桃香は続けた。
「あともう一人、安西栄佑も同行させるわ」
「え、そうなんですか」
正直、少し意外だった。桃香は頷く。
「今回の任務は、彼の嗅覚が必須なの。それ以上に、彼の担当医からの要望よ。『田中くんとの時間が一番メンタルケアに適している』ってね」
それを聞き、アキラの顔がまた少しげんなりとしていく。絶対まだ誤解しているだろうとは思ったが、さすがに口に出せる空気ではなかった。
「まあ何せ、彼のメンタル的に貴方との時間も増やした方がいいっていう判断も込みよ。彼自身望んでいたとは言え敵陣で暮らしていると、やっぱりどこか弱るところもあるんでしょう」
それについては、かねてから思っていた。実際総吾郎自身も時間は経ってきていると言えどまだ新参の部類で、似たような環境の栄佑が良くしてくれるのは確かにありがたかった。子どものようではあるが、やはり年長者である彼は頼りになる。それに一度交戦したからこそ分かるが、彼は強い。
「栄佑さんは知ってるんですか」
「まだよ。でも断る事は無いでしょうし、断れないわよねぇ」
その意味と圧は、なんとなく察した。だとしたら、自分からは彼に対して何も言わない方がいいだろう。
桃香はそっと笑うと、手を振った。
「必ずこの任務は成功させて頂戴ねぇ。ボスがまたうるさくなるから」
そのまま、振り返る事なく出て行った。取り残された総吾郎とアキラは、ただぽかんと彼女の背を隠した自動ドアを眺めた。
……正直、今までの任務とは比べ物にならない圧を感じる。それだけ重要任務という事なのだろうか。それならそれで、アキラと栄佑が居る事に関してはまだ心強い。どうやらアキラがメインで立ち回る事になりそうだが。
アキラを見ると、すっかり普段の顔に戻っていた。
「……まあ、やるしかないわね」
「ですね」
彼女は立ち上がると、少し血の滲み始めた包帯を改めて固定する。
「もう一回やるわよ」
「……え? いやもうアキラさんお疲れじゃ」
「色々吹っ切りたいのよ。あいつの事も」
あの、よく分からない記憶の中の男。そうだ、恐らく……浮かび始めている。
かつて自らの記憶を他人が無理やり掘り起こせない、と須藻々光精は言っていた。しかし自主的に思い出す分にはきっと問題ないし、そしてそれを彼も望んでいる。それに従うのは、どこか癪だ。
「……私は、私。今生きている私が、私」
そう、言い聞かせるしかない。そうやって、この数十年間生きてきた。大丈夫だ。
「……一週間後の出発まで、詰められる所は詰めましょう。やるわよ」
総吾郎は一つだけ溜息を吐くと、アキラと向かい合った。
そうだ、やるしかない。最後が見えない以上、ただ進むしかない。
三十代も終わりを間近に迎え、色気がピークに入りつつある。そう、自分では思っている。林古桃香は、淹れたての熱い紅茶をものともせずに口に運んだ。
アーデルはふむ、と頷く。
「恐らく何かしら、また仕掛けてくるはずだ。その場合、恐らくあちらは総力を挙げてくる。ならば、打てる手は二つ。まずはこちらが先にかの鉱山の石を急ピッチで回収しきるか。もしくは完全に名義をこちらのものにさせるか」
「前者はともかく、後者は反乱必至でしょうねぇ。そういう強硬手段をとる『neo-J』から助けた組織が同じ事をすれば、それこそという感じよ」
「だな。まあ、そこまで急を要する案件ではなかろう。後に回して構わん」
猫舌を自称するアーデルは、未だ紅茶に口を付けていなかった。常に暗殺を懸念しているのはやはり本人だが、信頼を最も寄せている男……一号の淹れた茶を疑っているという事は無いだろう。
穏やかな昼下がり。夏が始まった。
「そちらはどうだ、何か研究は進捗あるのか」
「ええ、一つ有力な手掛かりを見つけたわ。そもそも時間を作ってもらったのはその事についてなのよねぇ」
茶封筒を手渡す。アーデルはそれを受け取り、中にある書類を取り出した。一号に音読させ、聞き終えてから桃香に顔の位置を戻す。
「……なるほど、これは確かに……ふむ、現地調査に行かせた方がいいな、ここまで掴んだなら」
「作戦部に話を通しておきましょう、ここで何か掴めればかなりの躍進になるわ」
アーデルは頷くと、茶封筒を一号に預けた。彼はいつもと変わらず猫の瞳を持って、周囲を油断無く見渡している。その視線がかなり癇に障ったが、それを敢えて口にする程桃香は愚かではなかった。
そもそも、この男が何故『卍』に居るのか。桃香も古株と言えど、最古参というわけではない。その事情は未だに読めない。
「それにしても、どうも最近研究が滞り気味ではないか」
かなり、単刀直入に言葉が入り込んできた。内心どきりとしたが、すぐに苛立ちに変わる。
「現在は、どちらかと言えば『旧』時代の文献漁りでうちの部署は忙しいの。手掛かり無くして前進はありえないわ」
「言うようになったな。『neo-J』の企みが把握しきれぬ以上、こちらも急がねばならんというのに。奴らが現在最大の障壁だ」
ようやく、アーデルは紅茶に口を付けた。目も見えないくせに器用な事だが、ずっと抱いていた疑念がどんどん加速されていく。本当に彼は、盲目なのか。一つの組織を運営するのにとんでもないハンディキャップだというのに、その苦労を一切彼は感じさせない。正直、かなり疑わしい。
「『neo-J』の壊滅、そして『革命』の再来。どちらからでもいい、何せ早くに着手する必要がある」
『neo-J』の壊滅は、現状不可能だ。国家元首に値する組織を潰すには、未だ力が足りなすぎる。そして『革命』も……こちらに至っては、未だ手掛かりすら見えてこない。だからこそ、桃香達神秘研究課が必要以上に圧力をかけられている。その現状に、盛大な苛立ち。
「まあ、やれるものなら早い内がいいわねぇ。作戦部と話してきましょう」
「頼んだ」
足音荒く、桃香は出て行った。その内心を察せない程馬鹿では無いつもりだが、それでも急を要する。
『neo-J』の壊滅は勿論望ましい。しかし本当の願いは壊滅ではなく、あくまで吸収だ。『neo-J』を傘下に丸ごと置き、奴らが掴んでいるであろう『革命』の手掛かりを丸ごと擁する。
そして、あの女を。その息子を、手中に収める。既に『鍵』はもうこちらの身の内だ。
『君に人殺しは、まだ早い』
それを聞いたあの時の子どもは、涙を止めた。そこから強く、歩んだ。完全に自分の理想に近付きつつある。何度も狙われたが、それをあの子は呪いの力を以てしてすべて弾き飛ばしてきた。
あの子が、『鍵』だ。『neo-J』を挫き、アーデルが世界を手に入れるための。
「一号」
「はい」
『neo-J』の戦利品である猫目の男は、アーデルの手にそっと触れた。温かい、人のぬくもり。あの女にも、これが在った。すべて奪い、無駄にしたのは自分だ。その事を彼女自身、そしてその息子に恨まれても仕方が無い。
進むしか、無いのだ。
最近自分はどうも負け通しというか、あまり戦闘において活躍出来ていない気がする。その場に居合わせた人間や地の利、『種』の効力などが色々噛みあい奇跡が起こる割合が多い。
「そういう悪運も、生き延びる為には必須よ」
アキラの言葉は恐らく慰めではあるのだろうが、どこか総吾郎の気は晴れない。
ヒラリ鉱山から戻ってきて早十日。漸く適正な手術を受け現在は術後観察中だ。病室に自身がこもるのは、『卍』に来て以来になる。しかしそれでも、退院は今日出来るそうだ。実際苦痛はもう無くなっている。
重体の総吾郎が戻って早々、やはり栄佑は大パニックに陥った。大声で泣き喚き『neo-J』に乗り込みにかかろうとするのを数人がかりで押さえ込み、最終的には吹き矢麻酔で大人しくさせていた。一度麻酔が覚めてからも暴れかねなかったので常に鎮静剤を点滴している状態らしく、現在はアレッタが傍についているそうだがこれではもはやどちらが年上か分からない。
「私も作戦部に配属されてから、何度も死にかけた。戦闘でも訓練でも」
「く、訓練で?」
「あの時の私の様子を見れば、いかに私が君に施した訓練が優しいものだったかよく分かると思うわ」
過去の訓練を思い返してみる。確かに筋肉痛だったり『種』の副作用だったりで動けなくなる事は多々あったが、それより上があったというのか。確かに訓練時は同じメニューをアキラもこなしていたが、ケロッとしていた記憶はある。
そういえばアキラの過去の事は、全然知らない。以前アマイルスからダイヤモンド製の『種』の話を聞いただけだ。ここにはかなり昔から居ると聞いているが、一体どう過ごしてきたのだろう。少なくとも『卍』の重要任務を任されるくらいなのだから、それなりに立場は確立しているはずだ。
「そういえば、アキラさんは今は任務無いんですか?」
「今は本部の基地内小間使い状態ね、今はお手洗いという事にして抜け出してきてるの」
それは早く戻った方が身の為ではないのか、とは思ったが口にはしなかった。内心、抜け出してでも見舞いに来てくれるのが嬉しかったのだ。
ふと、思い浮かぶ。
「……マトキさんとアレクセイさんは、どうしてるんでしょうか」
アキラは一瞬ぴくり、と眉を動かした。何か悪い事を聞いたか、と思ってひやりとしたが雰囲気に棘は感じられなかった。
「あんな形で引き渡した以上、こちらからの干渉は不可だと思った方がいいわ」
考えれば、当たり前だ。しかし、どうしても気にはなる。最後に二人を見たのは、光精一行に運び込まれる気絶した状態でだった。正直、無事に生きているのかも分からない。しかし光精の事だ、きっと手荒にはしていないだろう。なぜかそういう信頼はあった。もっとも、彼の全ての面を見たわけではないからこそだが。
アキラの表情が、先程から少し曇りだしている。少し気になって覗き込むと、彼女は口を開いた。
「ソウくん、あの男の事なんだけど」
「あの男?」
恐らく、光精の事だろう。アキラは頷いた。
「どうも、頭にあいつの事がこびりついて離れないの。あの日会ってから、ずっと」
あんな……あんな事があったからだろうか。それについては口に出さずとも、きっと違うという事は分かる。アキラはそんな事程度で靡くような人間ではないともう分かっている。そんな彼女ですら謎として抱くからには恐らく、もっと別の……得体のしれない何かだろう。
白魚のような細く尖った自身の指で額に触れたアキラの目は、明らかにどこか焦りのような色。
「初めて会ったはずなのに、何故か……とても、懐かしかった。記憶が無いっていうのはきっとハッタリだろうけれど」
「そうなんですか?」
「流石に乳児の頃は自信が無いけれど、それなら記憶を失うも何も無いでしょう。それに、ボスが絡んでるって……いえ、もう忘れましょう。悪かったわ、変な話して」
首を振る。
病室からアキラが出て行く。その背中を眺めながら、総吾郎は改めて天井を眺めた。
本当に、これでいいのだろうか。いくら重傷を負っていたと言え、もう退院も出来るしとくに注意も受けていない。これなら、次の任務に向けて特訓した方がいいかもしれない。
もっと、強くなるために。
「……よし」
立ち上がる。体はだいぶ軽くなっていた。内臓は全て奇跡的に補完出来ているそうで、手を加えたと言えば縫合くらいらしい。これも、杏介のオニキスの効果なのか。
主治医に退院すると告げると、案外あっさりと「お大事に」と言われた。その足で、特訓場へ向かう。ここまでくると、一秒も無駄にしたくなかった。
普段アキラと特訓している特訓場に到着し、ID入力し中へと踏み込む。誰もいなかった。照明をつけ、エネミーモデルを設置する。そして元々用意されてあった『種』のバスケットを広げた。改めて、中を確認してみる。
「雷……炎……氷……風……」
何の石が使用されているかまでは、正直把握しきれていない。今のところ、雷と氷の能力は問題無く使えている。炎は未だ使う勇気が出ないし、アマイルスの話を聞いているとどこか暴走しそうで使用を憚られた。
となると、今まで試した事の無いものを使ってみるか。鮮やかな紫色の『種』を摘みあげる。風の能力が組み込まれたものらしい。右手の中で、強く握りこむ。
しかし、違和感。
「……あれ?」
手を開く。その中には、未だ『種』が残っていた。普段なら十秒もあれば吸収しきれるのに。よく見ると一回り近く小さくなってはいるが、それを踏まえてもかなり吸収スピードが遅い。
「アメジストとは相性が悪いって予想はしてたけど、どんぴしゃね」
聞き慣れた声がして振り返ると、アキラが居た。呆れたような顔をしてこちらを見ている。
「ゆっくり休めと言ったのに」
「す、すみません……でも、居ても立ってもいられなくて」
軽い、溜息。その表情はどこか柔らかくなっていた。
「分かるわ、その気持ち。私も経験した事あるもの」
「……アキラさん」
「それ、貸して頂戴」
戸惑いながらも、渡す。アキラは右手で強く握り込むと、十五秒程目を閉じた。開かれた手の平に、先程の『種』は無かった。恐らく、総吾郎がこれを吸収しきるよりかは断然早い。
「言っておくけど、あなたの『種』の吸収スピードが本来はおかしいのよ。私は比較的アメジストと相性がいいからこれくらいで済んでいるけれど、普通ならもう少しかかる」
「そ、そうなんですか」
「吸収スピードが速ければその分すぐに攻撃に移れるから、最大のメリットよね。だからそこに関しては、私はうらやましい」
まさか、そう言われるとは思っておらず顔が熱くなる。しかし、どこか安心もした。自分にも、どこか……人より、それもアキラより秀でた部分がある。それは、嬉しかった。
アキラは続ける。
「ただ、その分消化も早い。ならば新しい『種』をすぐ吸収すればいいかと言えばそうとも言えないわ。吸収だけでも、本当はかなりダメージを負う。つまり連続吸収は危険。これは前にも言ったわね」
「……短期決戦じゃないと駄目、って事ですか」
アキラは頷いた。
「ただ、そうなると攻撃手段は一度に多数を選べない。どういう敵が相手なのか瞬時把握し的確な攻撃を行う必要があるわ。そしてそれが確実に命運を分ける」
その判断力を身に付けるには、相当な場数が要るだろう。自分に一番足りない部分はそこだ。自分ひとりで戦局を切り開く判断力と、実力。すべてが足りない。
ふわり、と風が頬を撫でた。ふとアキラを見ると、彼女の髪がせわしなく揺れていた。
「どうせ、私が居なくなったところでがむしゃらに修行するんでしょう。手伝うわ」
「え、でもアキラさんの用事は」
「それよりも今は、後進の育成が大事でしょう」
その言葉を終えた瞬間、唐突な圧が腹を強く押した。驚きのあまりバランスを崩し、尻餅をつく。見上げた先には、風を味方につけたアキラがいつもの顔で見下していた。
「何でもいいわ。今から十分間、ひたすら私はあなたの敵役として立ち回る。傷一つでも付けてごらんなさい、そこで終了」
立ち上がる。胃を直撃したのか、吐き気が込み上げてきた。口元を押さえ体内に閉じ込めると、アキラを強く睨めつける。それを見、一瞬彼女は笑った。
「……そう、その意気よ」
ド、と可聴出来る程の勢いの風。今度は予測出来た為、バランスを崩さずに済んだ。うまくバックステップで着地すると、バスケットに手を突っ込み氷の『種』を掴む。強く握り込むと、さっきの風の『種』と比べ物にならないスピードで体内に吸収されていくのが分かる。悪寒とは違う、心地よい冷気が体内を巡っていった。
アキラを見据える。彼女は右腕を総吾郎の方に伸ばし、それを合図にして猛スピードで蔦が伸ばした。まるで毒蛇の勢いで総吾郎に巻きついてきた草を、全身から冷気を放出させ瞬時に冷凍させる。あの時の海と、同じ感覚だった。
バリン、と派手な音を立てて蔦が割れた。粉々になって床に落ちる。それを確認するよりも先に、アキラに向かって駆けた。
「そんな走りじゃ、押し返されるわよ」
再び、強大な圧。暴風が総吾郎の全身を吹き飛ばそうと襲いかかるが、それこそが狙いだった。
「っはあ!」
全身の毛穴から、冷気を放つ。風とぶつかり、ミシミシと軋んだ音を立てて風の中の僅かな水分を瞬時に凍らせる。まるで一瞬だけ、巨大な氷の壁がアキラと総吾郎を隔てたように見えた。
あまりの暴風だった。その分、氷の壁自体が重く――厚い。瞬時にアキラは、総吾郎の発想を理解した。しかしもう遅い。
「らぁっ!!」
全身の力を込め、壁を蹴飛ばす。先程の軽い蔦のように割れる事なく、壁は猛スピードでアキラへと向かった。それはアキラが飛び退くよりも先に。
「ぐっは!」
アキラの、女とは思えないような呻き声。感触からするに、まともに直撃した。慌てて様子を見に行くと、アキラは居なかった。代わりに、緑色の……厳重に編み込まれた、蔦の盾だった。そこから一本、総吾郎を捕らえようと槍のように飛び出してくる。反応が、追いつかなかった。
「くっ……」
足を取られる。弾みで転んだが、同時に蔦の盾がするすると解け出した。そこに居たのは、頭から流血しているアキラだった。
「アキラさ、傷が……」
「間に合わなかったのよ」
総吾郎の足に巻きついていた蔦が力なく解けた。そのまま、盾を構成していた蔦ごと彼女の体内に戻っていく。かなり息が荒い。
アキラは腕時計を見ながら、深い溜息を吐いた。
「……八分。ぎりぎりね」
「あー……すみません」
「いいわ、私もこのままじゃガス欠になるところだったし」
アマイルスの言葉を思い出す。そうだ、アキラのあの蔦は彼女の体力消耗に直結している。『種』を取り込むだけでその力を引き出せるシステムとは違うのだ。それを思い出し、急に申し訳ない気になる。
ひとまず、アキラの頭部を消毒し包帯を巻く。出血の見た目にしては傷はどうやら浅いらしく、安心した。
「これからもこういう、実戦形式の特訓を増やした方がいいわね。今までは『種』の扱い方の基礎応用がメインだったし」
かつての記憶を元に、今回の戦術を組んだ。確かに、こういう様々な機転は過去の経験から来るところも多い気がする。頷くと、アキラの周りでそよいでいた風が落ち着いた。
「そういえば、アキラさんが『種』を使うところ初めて見ました」
今までの特訓は、アキラはあくまで指南役だった。こういう実戦形式を取ったのは初めてだし、そもそも蔦以外に戦術を持つ事すら正直想像がついていなかった。アキラは「ああ」と無表情で総吾郎を見る。
「私の武器はこれで基本的にどうにかなるから。本当に対応しきれなくなった時だけにしてるの、『種』を使うのは」
「そんなに、負担になるんですか」
「ええ、ソウくんは恐らく体内消滅が早いからあまり気にならないでしょうけど。私は平均くらいの処理能力だけれど、普通はこんなものよ」
意外だった。よくよく考えたら、自分やアキラ以外の戦闘員と仕事をあまり共にした事が無いからかそれすらも知らずにいた。
……自分には、このスタイルが合っている。これが、皆の役に立つのなら。
「もっと、頑張ります。だから、またお願いしていいですか」
アキラは頷いた。その瞬間だった。アキラの中に、一人の男の影が上った。
――黒髪の、強い瞳を持った男。よく似た、その顔。表情。目。甘い声。自分に向けられる、慈愛。いや、自愛?
突如として浮かぶ、頭痛。
「アキラさん?」
「っ……だい、じょうぶ」
額を押さえる。傷の痛みか。否、これは内側からだ。あの男の、声。しかし、彼の事は知らない。何故、こんなにもアキラを支配するのか。何故。あの再会以来、彼の事が頭から離れない。
再会? 何故、『かつて会った事を自分は知っている』?
「誰……」
須藻々光精。分からない。彼を知らない。しかし、何故かずっと居る。それは、果たしていつからだ?
扉の開く音。二人して振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。三十代か、四十代かきわどい妙齢の女だ。派手な髪色と知的な眼鏡は、どこか杏介を彷彿とさせる。彼女は官能的な唇をそっと開いた。
「あら、お取り込み中かしらねぇ」
「……林古委員長っ……」
アキラの口から、苦し紛れの声が上がる。女は怪訝な顔をして、駆け寄ってきた。
「どうしたのあなた、その傷も」
「あ、これは……俺が、やりました。特訓を付けてもらってて」
女の視線が総吾郎の方を向く。彼女は薄く、笑った。
「ああ、そうなの。それなら大丈夫かしらねぇ、あなた昔から散々強化されてるからその程度何てこと無いでしょう」
「強化?」
女は一瞬アキラを見るが、構わず続けた。
「この子の体は既にあちこち弄られてるのよ。あらゆる実験にも、怪我にも、あの『種』にも耐えうるように」
「余計な事を、言わないでくださいっ……!」
女は「ごめんなさいねぇ」とだけ言うと、改めて総吾郎に向き直る。
「私は林古桃香。弟達の方とは何度も会っているんでしょう、聞いてるわ」
「あなたが……」
「杏介からどう聞いているかは分からないけど、研究委員会の委員長をしているわ。挨拶が遅くなってごめんなさいねぇ」
桃香はアキラの頭を撫でた。露骨に嫌な顔をする彼女を見、くすりと笑う。
「あらあら、昔はこうすると泣き止んだのに」
「泣いていません……」
まるで母と娘のようなやり取りだ。
アキラは持ち直したのか、桃香の手を払いのけた。それに僅かに傷ついたような仕草を見せるも、すぐににこやかに桃香は笑う。どこか、妙な色気を感じた。
そんな彼女に、アキラは尖った声を放つ。
「わざわざこんな所に来るなんて、何か御用ですか」
「勿論よ。アキラちゃん、あなたを探していたの」
嫌な予感がする、と言わんばかりの表情だ。それを無視するように、桃香は告げる。
「貴女に新しい任務が入ったわ。そして、田中くん。あなたにも同行してもらおうかしら」
ハッとして桃香を見る。彼女はその笑みの奥深くにほんのわずかな圧を滲ませて、二人を交互に見る。どこか、ぞっとした。
「決行は一週間後。とある遺産の調査をしてもらいたいの」
「遺産……?」
「詳しいレジュメは今夜上げるわ。待っていて頂戴」
アキラと顔を見合わせる。彼女も予想外だったらしく、怪訝な顔をしていた。そんな二人に対し、桃香はあくまで穏やかに問うた。
「なに、不満?」
慌てて首を振る。しかしどこか気まずくて、そっと口を開いた。
「ただ、アキラさんと任務としてちゃんと組むのは、その……初めてだなと思って」
栄佑の時は、あくまで総吾郎がメインで行っていた。アキラはあくまでサポートだ。マトキの時もあれは例外任務で、正規ではない。「そういえばそうね」とアキラも呟く。
さして機嫌を損ねたわけでは無さそうでホッとする中、桃香は続けた。
「あともう一人、安西栄佑も同行させるわ」
「え、そうなんですか」
正直、少し意外だった。桃香は頷く。
「今回の任務は、彼の嗅覚が必須なの。それ以上に、彼の担当医からの要望よ。『田中くんとの時間が一番メンタルケアに適している』ってね」
それを聞き、アキラの顔がまた少しげんなりとしていく。絶対まだ誤解しているだろうとは思ったが、さすがに口に出せる空気ではなかった。
「まあ何せ、彼のメンタル的に貴方との時間も増やした方がいいっていう判断も込みよ。彼自身望んでいたとは言え敵陣で暮らしていると、やっぱりどこか弱るところもあるんでしょう」
それについては、かねてから思っていた。実際総吾郎自身も時間は経ってきていると言えどまだ新参の部類で、似たような環境の栄佑が良くしてくれるのは確かにありがたかった。子どものようではあるが、やはり年長者である彼は頼りになる。それに一度交戦したからこそ分かるが、彼は強い。
「栄佑さんは知ってるんですか」
「まだよ。でも断る事は無いでしょうし、断れないわよねぇ」
その意味と圧は、なんとなく察した。だとしたら、自分からは彼に対して何も言わない方がいいだろう。
桃香はそっと笑うと、手を振った。
「必ずこの任務は成功させて頂戴ねぇ。ボスがまたうるさくなるから」
そのまま、振り返る事なく出て行った。取り残された総吾郎とアキラは、ただぽかんと彼女の背を隠した自動ドアを眺めた。
……正直、今までの任務とは比べ物にならない圧を感じる。それだけ重要任務という事なのだろうか。それならそれで、アキラと栄佑が居る事に関してはまだ心強い。どうやらアキラがメインで立ち回る事になりそうだが。
アキラを見ると、すっかり普段の顔に戻っていた。
「……まあ、やるしかないわね」
「ですね」
彼女は立ち上がると、少し血の滲み始めた包帯を改めて固定する。
「もう一回やるわよ」
「……え? いやもうアキラさんお疲れじゃ」
「色々吹っ切りたいのよ。あいつの事も」
あの、よく分からない記憶の中の男。そうだ、恐らく……浮かび始めている。
かつて自らの記憶を他人が無理やり掘り起こせない、と須藻々光精は言っていた。しかし自主的に思い出す分にはきっと問題ないし、そしてそれを彼も望んでいる。それに従うのは、どこか癪だ。
「……私は、私。今生きている私が、私」
そう、言い聞かせるしかない。そうやって、この数十年間生きてきた。大丈夫だ。
「……一週間後の出発まで、詰められる所は詰めましょう。やるわよ」
総吾郎は一つだけ溜息を吐くと、アキラと向かい合った。
そうだ、やるしかない。最後が見えない以上、ただ進むしかない。
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