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悪い女ができるまで
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大好きだと心から思える人に出会いたい。好きで好きでたまらなくて、その人のことを考えると居ても立っても居られなくなるような気持ちを味わいたい。その気持ちは決して一時的なものではなくって、何か月、何年、何十年経っても変わらないでいて欲しい。そんな風に思える人との子どもを授かれたらどんなに幸せだろう。私は、そんな運命の人とこの先出会えるのだろうか。
わたし、吉崎 市子は25歳の会社員である。都内にある国立大学を卒業した後に、以前からやりたいと思っていた営業の仕事をするため、今の会社に入社した。色んな職業を選べる今の時代に、営業の仕事を第一志望にする女性はもしかしたら少ないのかもしれない。でも私は、営業職一本で就活を乗り切ったほど、営業以外の仕事には目もくれなかった。なぜそんなに営業に拘っていたかというと、テレビっ子だった私がドラマの中でなんども目にした、壁にでかでかと張られた営業職の人たちの名前と売り上げの件数が書かれたグラフに憧れていたからだ。そんな理由でと思われるかもしれないが、私はあれほど具体的に自分の能力をはっきりと周囲に示すシステムを他に知らなかった。あの棒グラフで常に1位を取り続けたらどんなに気持ちいいだろうか。きっと皆に憧れと羨望の眼差しで見つめられるのだろうなと思うと、子供心にわくわくしたものだ。まあつまり、私は自信家だったのである。妄想の中では常に私の棒グラフは一番長く伸びていたし、現実でもそれは変わらないと思っていた。そして今、社会人4年目に突入している私から過去の私に一言。
「グラフとかないから!」
いや、有る所もあるのかもしれない。しかし私の会社にはなかった。それでも自分の実績も他の人の売り上げ件数もパソコンで見れるようになっているから、紙で張り出されるかパソコンの中にあるかだけの違いなので、そこは実際どうでもいい。(まあ今どき紙で張り出すとかないよね。書くの大変だしね。いいのいいの、そんなこと。)
問題はそこじゃなくて、本当に言いたいのは、私ふつうに1番なんて取れてないよってこと。そりゃあドラマみたいに何でも上手くいくわけはないのだ。それは分かっていながらも、やはり私は自信家だったのだ。
その自信の源の一つが、市子の整った容姿にあった。客観的に見て、市子はかなり美人な部類に入った。もちろん主観的にも確実に入っていると思っている。謙遜せずにいってしまえば、今まで出会った中で自分より可愛いと思える人に出会ったことがない。(安心して下さい、こんなこと口に出したことは今まで一度もありません。)顔がいいことで、今までの人生得をしたことはいっぱいあったし、生きていく上でいい武器になるなと実感している。それに加えて、市子は世渡りの上手い女だった。
何年か前にKYという言葉が流行ったが、私は自分がその真逆だと思っている。従来の気にしいな性格のせいで、小さいころから周りの反応を伺うことが自然に出来ていた。小学生くらいまでは、その性格が裏目に出て周りのことばかり気にしている大人しい子どもだった。しかし中学生に上がった頃から私は、どうすれば人に好かれるかということを理解しだした。思春期だった私が同じく思春期真っ只中の同級生を見て感じたのは、皆自分のことを認めてもらいたがっているのだということだ。相手のいい所を見つけて褒め、理解を示せば大抵の人は気分が良くなる。そしてニコニコと愛想よくしていれば大体の人からは好感を持たれた。しかし、たとえどんなに気を付けていても、万人に好かれることは難しい。相性が悪い、なんとなく好きじゃない、さっき目が合ったはずなのに無視された気がする、等々人が人を嫌いになる理由なんて無数に存在するし理屈じゃないことも多い。特に思春期の女子なんて、「なんかムカつく」で簡単に人を嫌いになれる。
私が可愛いことで僻みや妬みもあったのだろう。何も心当たりはないけれど、嫌われている気がするなと思うことは何度かあった。思春期の頃というのは皆一様に、自意識過剰と被害妄想を併発する時期だが、市子も例にもれずその症状が現れていた。だが市子はその頃にはすでに、もう一つの武器である諦め力を身につけていた。諦めが肝心は、市子の座右の銘である。多くを望みすぎないというのは、幸せな人生を送るうえで必要不可欠な心掛けだと市子は思っている。だからこそ、自分のことを嫌っている子が数人居たとしても、しょうがないことと、さほど気にせずに過ごすことができた。
そんな感じで中学を境に、私の人生は軌道に乗っていったと言える。高校も大学もそれなりに楽しく幸せな日々を過ごせた。持ち前の器用さと整った顔立ちのおかげで上手く世渡りしてきたことが、市子に実力以上の自信を付けさせていたのだ。
就活でも周りから大幅に遅れるようなこともなく、第二志望の会社に採用された。ちなみに第一志望の会社に落ちた原因は、最終面接の際、自分を物に例えるならなんですかという質問に「ドアです。」と答えたことだと思う。なぜ自分をドアに例えたかったのか自分でも分からない。そこから何か面白い理由でも言えたら良かったのだろうが、なにせ緊張していたものだから、「私は情報の出入りが激しい人間なんです。」と答えた。緊張とは恐ろしいもので、その時は何か上手いこと言った気になっていたが、後から考えるといっぱい情報を集めてすぐに忘れるアホです、と言っているようなものだ。もちろんこの面接で落とされたことには何の不満もない。
それでも私は今の会社を気に入っていた。大手ではないが、そこそこの規模の会社であり、給料も悪くない。そして気に入っているもう一つの理由として、恋人である渉の存在は大きい。森野 渉(もりの わたる)27歳、同じく営業として働いている市子の二つ上の先輩だ。年上ということもあって、渉は仕事でもプライベートでも市子を支えてくれた。そんな優しい渉に猛アプローチをかけられ、職場恋愛はしない主義だった市子も渉の告白を受け入れた。付き合って半年ほど経つが、二人の関係は良好だった。そう、良好だったのだ。あの新人が入ってくるまでは。
あの新人とは、渡辺 かえで22歳。一言でいえば、きゃぴきゃぴしたブスだ。まあ特徴はそれくらいかな。もう少し詳しく言うと、仕事できないくせに男に媚びうるのには忙しいきゃぴきゃぴしたブスかな。こいつのせいで私の日常は脅かされ始めたのだ。
「おはようございます。」
週の初めの月曜日、8時に出社した市子は同僚に挨拶をしながら自分のデスクに座った。
「おはよう」
斜め前の席に座る渉が、爽やかな笑顔で挨拶を返してくる。市子もにこっと笑ってもう一度「おはようございます。」と返す。心の中でこの浮気野郎が!!!と思いながら。表面上は笑顔を保ちながらも、ついタイピングの音が大きくなるのを止めることができなかった。
そう。この無駄に爽やかな笑顔の持ち主は、私という彼女がありながら同じ会社の新人とも寝てしまったゲス野郎なのだ。
先週の金曜日、課長の「飲み行くか~」の一言から仕事終わりに皆で飲みに行くことになった。毎週ではないがこの会社では飲み会が頻繁に行われていて、飲み会好きな私もほとんど出席していた。
「いいですね~、もう仕事なんてどうでもいいから早くビールが飲みたいですよ~」
同期の田山が合いの手を入れ、用事のない人たちだけで飲みに行くことになった。会社近くの行きつけの居酒屋に入ると、奥のテーブル席に通された。私が席に着くと隣に田山が座ってきた。
「なんか今日めっちゃ疲れた~」
「え、田山君今日そんな疲れるほど仕事してたっけ?」
「おおーい、していましたよー。僕だってそれなりに頑張って仕事していましたよー。」
真顔で言う市子に対し、田山が大げさに突っ込んでくる。
「うそうそ。今日新規入ってたよね。やったじゃん。さっすが田山君。」
笑いながら市子にそう褒められた田山は、すでに酔っているかのように顔を赤らめながら「まあね~。」と返した。田山が市子に好意を寄せているのは誰が見ても明らかだった。飲み会の度に隙あらば市子の隣を確保してくる田山だが、市子はそんな田山が嫌ではなかった。恋愛として好きかと言われれば全くそんなことはなかったが、同期で気を使う必要もなく話しやすい田山に対して、市子も友達のように接することができた。
「生の人ー?」
皆が揃ったところで、田山が注文を聞いた。ほとんどの人が生ビールを頼む中、甲高い声で違うものを頼むやつがいた。
「あ、わたしカシオレで~」
(ちっ、なーにがカシオレだ、この平面顔が!)
もちろんこの声の主は渡辺かえでだ。別に全員1杯目は生ビールでなければいけないと思っているわけでは無い。そんな昭和オヤジのようなアルハラをしたいわけではない。カシオレでもカルアミルクでも、自分の飲みたいものを好きに頼めばいいのだ。まああれですね、嫌いな奴がやることは何でも気に入らないってやつですよ。あ、全国の平面顔さんごめんなさい。
「渡辺さんはお酒弱いんだもんね。吉崎とは違ってか弱い感じあるもんな~。」
課長が笑いながらこっちを見てくる。
「課長~、そんなこと言ってると今日潰しちゃいますよ。」
「うはははは、こえーなー。」
「ふふふ。」
私が入社した時から課長は課長なので、もう3年以上の付き合いで随分と可愛がってもらっている。可愛いのにお酒が好きで、冗談も言える市子のことを課長はとても気に入っていて、外回りの後はたまに2人で飲みにも行っていた。多少下心を感じることもあったが、上司だからと偉ぶることもなく、仕事の悩みも真剣に聞いてくれるので、良い上司を持ったと思う。
話の矛先が自分から私に移ったことが気に入らなかったのか、かえでがすかさず自分に興味を引き戻そうとする。
「ふふ、皆さんのお話聞いてると楽しくて元気になります。嫌なことも忘れられそう。」
「えっ、なになに、何か嫌なことあったの?」
「あ、いえ全然大丈夫なんですけど・・」
「何か悩んでるんなら言ってよ。俺相談乗っちゃうよ~」
課長が冗談ぽく、だが本当に心配しているように言った。
「・・・有難うございます。じゃあ今度聞いてもらっていいですか?」
(いや、今言わんのかーい。だったらわざわざそんな心配させるようなこと言いだすんじゃないよ。)
心の中でひとしきり突っ込みながら、市子はかえでと課長のやり取りを聞いていた。こういうかまってちゃん嫌いなんだよなぁと思いながらも、そんな気持ちは微塵も顔には出さず、市子は市子で田山達と楽しく話し始めた。そして、あっという間に2時間が過ぎていた。その後全員が2次会に行き、さらにひとしきり飲んで食べると、ほとんどの人がいい感じに酔っぱらっていた。市子はというと、飲み会の終盤になると必ずと言っていいほど市子の隣に来る課長の愚痴を聞かされていた。人の愚痴を聞くこと自体は嫌いではない市子だが、その時は他に気になることがあった。対角線上に座るかえでと渉である。カシオレしか飲んでないくせに明らかに酔っぱらったふりをして渉にもたれ掛かるかえでに、市子は気が気ではなかった。もはや課長のグチには、「あー、大変ですね。」と「そうですね、分かります。」を交互に繰り返すのみとなっていた。
(あいつ、近いんだよ~。チーク濃くして酔った感じ演出してるんじゃないよ。)
酔っぱらった男共は気付かないだろうが、一次会よりも粉っぽくなったかえでの頬を見て、女同士にしか分からない苛立ちを覚えた。
そして年下女の得意技「すご~い」「さすが!」「知らなかった~」を駆使したかえでの話術に、渉も満更でもない顔で話しているのがさらに市子の不安を煽ると共に、イライラを増幅させていった。漏れ聞こえる話からして、渉が大した話をしていないのは明白なのによくやるものだ。
終電も近くなったので、そろそろお開きにしようという頃になり、お金を田山に渡した者から店の外に出て行きだした。市子もトイレを済ませてから外に出たのだが、そこには渉とかえでの姿はなかった。
(え、なんで?あの二人どこいったの?)
最後に会計を終えた田山が店から出てきた。
「ねえ、森野さんと渡辺さんは?」
「えー、もう中には誰もいなかったよ?終電やばいし先に帰ったのかな?」
(いやいや、あいつら線違うでしょうが!)
「そっかあ。」
笑いながらも市子の心の中はざわめき立っていた。
皆と駅の改札で別れた後、市子は一人改札を抜けてもう一度街の方に戻っていった。もしかしたら二人で飲みなおそうとかえでが誘ったのではないかと思ったからだ。嫌な予感を感じながら二人の姿を探していると、道の先の方に女に支えられた男が歩いているのが見えた。その女の格好がかえでと似ていたので、市子は急いでその後を追った。角を曲がって二人を探すと、なんと二人はラブホテルに入って行くところだった。渉の様子からして、もうベロベロになっているのは遠目からも明らかだった。
渉は普段から飲みすぎると眠くなって、職場での飲み会でも2次会からは、座りながらウトウトしているということが度々あった。今日も飲みすぎているなと心配はしていたが、いつも以上にしつこい課長の話を聞くのに気を取られ、最後の方は渉の様子を気に掛けることができなかった。
(あいつ~、渉のことお持ち帰りするとはいい度胸じゃない。)
二人を見つけたのはまさにホテルに入るところだったので、追いかければ止めることもできた。しかし市子はそうはしなかった。酔っぱらっているとはいえ、渉は自分でかえでに付いて行きホテルに入ったのだ。私だって酔っぱらってふらふらになり、思考力が低下して好きでもない男といちゃいちゃしてしまうことくらいある。だがそのままホテルに入ったりはしない。どんなに酔っぱらっても、渉と付き合っているという自覚があるからだ。酔っぱらっていたから仕方ないなんて言い訳は通用しない。ましてや相手は同じ会社の後輩だ。欠片ほどでも理性が残っていれば、同じ会社に彼女がいるのに後輩に手を出すなんてこと絶対にしてはいけない。めんどくさいことになるのが目に見えているだろうが。
つまり、そんな信じられない行動をした渉に対して、市子は完全に心が冷えていた。そしてかえでへの怒りはもはや言い表せないほどだった。もう一通り思いつく限りの悪口を心の中で言い終えていたが、それでも言い足りなかった。
そんな二人と同レベルだと思われたくないという気持ちが、市子を踏み留めたのだ。ここで出て行って二人を責めたら、市子は完全に三角関係の当事者になってしまう。浮気した男と恋人がいる男を寝取ろうとする女、そして浮気された女。そんな立ち位置絶対に嫌だった。
市子は踵を返し、来た道を戻った。すでに終電はなくなっていたため、タクシーで家まで帰った。
その後の週末は、最悪な気分のまま過ごすことになったのは言うまでもない。どこにも出かける気分にもなれず、土日はずっと部屋に引きこもっていた。市子は学生の頃からモテてはいたが、理想が高いこともあり彼氏と呼べるのは高校の時に一人付き合って以来、渉で二人目だった。浮気をされたのは初めての経験である。市子は自分が浮気をされたこと、例え一時でも愛してた人から他の女より大切に思われなかったという事実に打ちのめされた。しかしそれと同時に、自分は本当に渉のことが好きだったのかと疑問も抱いていた。渉の浮気を目撃してから市子が抱いた感情といえば、怒りと悔しさだけだった。裏切られ軽んじられたことによる怒り、そしてあんなクソビッチに一瞬でも負けたという悔しさだ。そんな強い思いとは裏腹に、愛する人の心が自分から離れてしまったのではと心配する気持ちや、別れることになるかもしれない悲しみといった気持ちは少しも湧き上がってこなかったのだ。この引き籠って過ごした土日で市子が気付いたことは、自分はプライドを傷つけられたことに怒っているのであり、渉のことを想っているわけでは無いということだった。だとしても、だとしても、へこむものはへこむ。
「はあ~、とりあえず簡単なご飯でも作るか。」
市子は、横になり過ぎたことでズキズキと痛む腰を摩りながら台所に向かった。
どんなに気持ちが向かなくとも、月曜日になればいつも通り出社しなければならない。浮気されたから今日は会社を休みますなどど言えるはずもない。
市子は何もなかったように会社に出社し同僚に挨拶をしたが、渉が何もなかったように挨拶を返してくることなど許せないことだった。こいつはこんなにも強かな男だっただろうか。毎日のように市子に猛烈なアピールをし続けていた姿は、誠実で一途な印象を市子に与えていた。そう思ったからこそ、市子も彼を好きになり付き合ったのだ。だが現実はどうだ。同じ会社の後輩と浮気したにも関わらず、その後市子にフォローを入れることもなければ、酒のせいでの過ちだと謝ってくることもしない。バレていなければ大丈夫だと思っているのだ。市子は自分の見る目のなさを悲観した。きっと世の中の多くの浮気者達は、一時の性欲でsexしただけで、気持ちがあるわけじゃないし、いいじゃないか!と思っているのではないだろうか。これはよく男が言いがちだが、言葉にしていないだけで女も同様に思っていることだろう。ただ女の方が好感度を気にして、舌触りのいい色んな理由を付けたがるというだけだと思う。浮気は1人ではできないのだから、つまり似た者同士なのだ。市子だって、その考えを理解することはできた。だが共感は全くというほどできなかった。
わたしは唯一の恋がしたいの。ただ一人のかけがえのない人と人生を送りたい。そして相手にもそう思ってほしい。これは市子の中で揺るぎようのない想いだった。
では渉とは別れるのか。いや、物事はそう単純ではない。渉は会社の先輩だ。部署も同じだし当分転勤や移動もないだろう。今別れたら確実に気まずくなり仕事に支障がでる。実際、渉が彼氏であることでの仕事上のメリットは少なからずあった。ミスをしても優しくカバーしてくれたし、上司に言わずに処理してくれたこともあった。浮気をしたのは渉なのだから、別れても市子が非難されることはないだろうが、今までのように軽くイジったりはできなくなるだろうし、飲み会でも市子と渉、そしてかえでの三人が揃えば周りの同僚の心境は複雑だろう。多少の気まずさと少しのわくわく。そんな周りの目を気にしながら生活していくなど考えただけで憂鬱になる。
渉は市子に浮気がバレているとは思っていない。ならば市子が知らないふりをしていれば、これまで通りの生活が送れる。
(うん。渉と別れるのは先送りだな。話し合いも面倒だし。)
渉と別れるという選択肢は市子の中で消去された。しかし、市子の渉への気持ちも同時に消去されていた。そう、市子は決して渉が好きだから浮気を許すのではなく、会社での立場や渉と付き合っていることのメリットを考えて別れないという結論を出したのだ。
別れないという結論を出した以上、渉の過ちについて追及するのは得策ではない。このまま私が浮気に気付いていないふりをすれば、二人が今後も関係を続ける可能性はある。だが市子はそれでいいと思っていた。すでに市子の渉への気持ちは焼き上がってから10分以上経過したトーストくらい冷めていたし、渉がかえでと関係を続けることで市子と会う頻度が減ることは市子にとってむしろ好都合なことだった。好きでもない男のために貴重な休日を浪費することは避けたかったし、市子にはやらなければいけないことができていた。
それは、早急に渉の代わりになる誠実で爽やかで頼りになる男を探すこと。そう、私はやらなければならない、結婚活動、婚活を!
私ももう25歳だ。まだ焦る歳ではないが、決して悠長に構えていられるような歳でもない。渉が結婚候補から退いた今、それと同等、いやそれ以上の男を探す必要がある。
自分のデスクに座った市子は、早速パソコンを立ち上げ婚活パーティーのサイトを開いた。思い返せばこの時が、純粋な愛を追いかけていた市子が、出口の見えない迷宮に迷い混んだ瞬間だったのだ。
これは、心から愛せる人との結婚を夢見て奔走する、ちょっぴり自信家で器用だけど不器用な、そんな一人の女の恋愛ストーリーの序章である。
わたし、吉崎 市子は25歳の会社員である。都内にある国立大学を卒業した後に、以前からやりたいと思っていた営業の仕事をするため、今の会社に入社した。色んな職業を選べる今の時代に、営業の仕事を第一志望にする女性はもしかしたら少ないのかもしれない。でも私は、営業職一本で就活を乗り切ったほど、営業以外の仕事には目もくれなかった。なぜそんなに営業に拘っていたかというと、テレビっ子だった私がドラマの中でなんども目にした、壁にでかでかと張られた営業職の人たちの名前と売り上げの件数が書かれたグラフに憧れていたからだ。そんな理由でと思われるかもしれないが、私はあれほど具体的に自分の能力をはっきりと周囲に示すシステムを他に知らなかった。あの棒グラフで常に1位を取り続けたらどんなに気持ちいいだろうか。きっと皆に憧れと羨望の眼差しで見つめられるのだろうなと思うと、子供心にわくわくしたものだ。まあつまり、私は自信家だったのである。妄想の中では常に私の棒グラフは一番長く伸びていたし、現実でもそれは変わらないと思っていた。そして今、社会人4年目に突入している私から過去の私に一言。
「グラフとかないから!」
いや、有る所もあるのかもしれない。しかし私の会社にはなかった。それでも自分の実績も他の人の売り上げ件数もパソコンで見れるようになっているから、紙で張り出されるかパソコンの中にあるかだけの違いなので、そこは実際どうでもいい。(まあ今どき紙で張り出すとかないよね。書くの大変だしね。いいのいいの、そんなこと。)
問題はそこじゃなくて、本当に言いたいのは、私ふつうに1番なんて取れてないよってこと。そりゃあドラマみたいに何でも上手くいくわけはないのだ。それは分かっていながらも、やはり私は自信家だったのだ。
その自信の源の一つが、市子の整った容姿にあった。客観的に見て、市子はかなり美人な部類に入った。もちろん主観的にも確実に入っていると思っている。謙遜せずにいってしまえば、今まで出会った中で自分より可愛いと思える人に出会ったことがない。(安心して下さい、こんなこと口に出したことは今まで一度もありません。)顔がいいことで、今までの人生得をしたことはいっぱいあったし、生きていく上でいい武器になるなと実感している。それに加えて、市子は世渡りの上手い女だった。
何年か前にKYという言葉が流行ったが、私は自分がその真逆だと思っている。従来の気にしいな性格のせいで、小さいころから周りの反応を伺うことが自然に出来ていた。小学生くらいまでは、その性格が裏目に出て周りのことばかり気にしている大人しい子どもだった。しかし中学生に上がった頃から私は、どうすれば人に好かれるかということを理解しだした。思春期だった私が同じく思春期真っ只中の同級生を見て感じたのは、皆自分のことを認めてもらいたがっているのだということだ。相手のいい所を見つけて褒め、理解を示せば大抵の人は気分が良くなる。そしてニコニコと愛想よくしていれば大体の人からは好感を持たれた。しかし、たとえどんなに気を付けていても、万人に好かれることは難しい。相性が悪い、なんとなく好きじゃない、さっき目が合ったはずなのに無視された気がする、等々人が人を嫌いになる理由なんて無数に存在するし理屈じゃないことも多い。特に思春期の女子なんて、「なんかムカつく」で簡単に人を嫌いになれる。
私が可愛いことで僻みや妬みもあったのだろう。何も心当たりはないけれど、嫌われている気がするなと思うことは何度かあった。思春期の頃というのは皆一様に、自意識過剰と被害妄想を併発する時期だが、市子も例にもれずその症状が現れていた。だが市子はその頃にはすでに、もう一つの武器である諦め力を身につけていた。諦めが肝心は、市子の座右の銘である。多くを望みすぎないというのは、幸せな人生を送るうえで必要不可欠な心掛けだと市子は思っている。だからこそ、自分のことを嫌っている子が数人居たとしても、しょうがないことと、さほど気にせずに過ごすことができた。
そんな感じで中学を境に、私の人生は軌道に乗っていったと言える。高校も大学もそれなりに楽しく幸せな日々を過ごせた。持ち前の器用さと整った顔立ちのおかげで上手く世渡りしてきたことが、市子に実力以上の自信を付けさせていたのだ。
就活でも周りから大幅に遅れるようなこともなく、第二志望の会社に採用された。ちなみに第一志望の会社に落ちた原因は、最終面接の際、自分を物に例えるならなんですかという質問に「ドアです。」と答えたことだと思う。なぜ自分をドアに例えたかったのか自分でも分からない。そこから何か面白い理由でも言えたら良かったのだろうが、なにせ緊張していたものだから、「私は情報の出入りが激しい人間なんです。」と答えた。緊張とは恐ろしいもので、その時は何か上手いこと言った気になっていたが、後から考えるといっぱい情報を集めてすぐに忘れるアホです、と言っているようなものだ。もちろんこの面接で落とされたことには何の不満もない。
それでも私は今の会社を気に入っていた。大手ではないが、そこそこの規模の会社であり、給料も悪くない。そして気に入っているもう一つの理由として、恋人である渉の存在は大きい。森野 渉(もりの わたる)27歳、同じく営業として働いている市子の二つ上の先輩だ。年上ということもあって、渉は仕事でもプライベートでも市子を支えてくれた。そんな優しい渉に猛アプローチをかけられ、職場恋愛はしない主義だった市子も渉の告白を受け入れた。付き合って半年ほど経つが、二人の関係は良好だった。そう、良好だったのだ。あの新人が入ってくるまでは。
あの新人とは、渡辺 かえで22歳。一言でいえば、きゃぴきゃぴしたブスだ。まあ特徴はそれくらいかな。もう少し詳しく言うと、仕事できないくせに男に媚びうるのには忙しいきゃぴきゃぴしたブスかな。こいつのせいで私の日常は脅かされ始めたのだ。
「おはようございます。」
週の初めの月曜日、8時に出社した市子は同僚に挨拶をしながら自分のデスクに座った。
「おはよう」
斜め前の席に座る渉が、爽やかな笑顔で挨拶を返してくる。市子もにこっと笑ってもう一度「おはようございます。」と返す。心の中でこの浮気野郎が!!!と思いながら。表面上は笑顔を保ちながらも、ついタイピングの音が大きくなるのを止めることができなかった。
そう。この無駄に爽やかな笑顔の持ち主は、私という彼女がありながら同じ会社の新人とも寝てしまったゲス野郎なのだ。
先週の金曜日、課長の「飲み行くか~」の一言から仕事終わりに皆で飲みに行くことになった。毎週ではないがこの会社では飲み会が頻繁に行われていて、飲み会好きな私もほとんど出席していた。
「いいですね~、もう仕事なんてどうでもいいから早くビールが飲みたいですよ~」
同期の田山が合いの手を入れ、用事のない人たちだけで飲みに行くことになった。会社近くの行きつけの居酒屋に入ると、奥のテーブル席に通された。私が席に着くと隣に田山が座ってきた。
「なんか今日めっちゃ疲れた~」
「え、田山君今日そんな疲れるほど仕事してたっけ?」
「おおーい、していましたよー。僕だってそれなりに頑張って仕事していましたよー。」
真顔で言う市子に対し、田山が大げさに突っ込んでくる。
「うそうそ。今日新規入ってたよね。やったじゃん。さっすが田山君。」
笑いながら市子にそう褒められた田山は、すでに酔っているかのように顔を赤らめながら「まあね~。」と返した。田山が市子に好意を寄せているのは誰が見ても明らかだった。飲み会の度に隙あらば市子の隣を確保してくる田山だが、市子はそんな田山が嫌ではなかった。恋愛として好きかと言われれば全くそんなことはなかったが、同期で気を使う必要もなく話しやすい田山に対して、市子も友達のように接することができた。
「生の人ー?」
皆が揃ったところで、田山が注文を聞いた。ほとんどの人が生ビールを頼む中、甲高い声で違うものを頼むやつがいた。
「あ、わたしカシオレで~」
(ちっ、なーにがカシオレだ、この平面顔が!)
もちろんこの声の主は渡辺かえでだ。別に全員1杯目は生ビールでなければいけないと思っているわけでは無い。そんな昭和オヤジのようなアルハラをしたいわけではない。カシオレでもカルアミルクでも、自分の飲みたいものを好きに頼めばいいのだ。まああれですね、嫌いな奴がやることは何でも気に入らないってやつですよ。あ、全国の平面顔さんごめんなさい。
「渡辺さんはお酒弱いんだもんね。吉崎とは違ってか弱い感じあるもんな~。」
課長が笑いながらこっちを見てくる。
「課長~、そんなこと言ってると今日潰しちゃいますよ。」
「うはははは、こえーなー。」
「ふふふ。」
私が入社した時から課長は課長なので、もう3年以上の付き合いで随分と可愛がってもらっている。可愛いのにお酒が好きで、冗談も言える市子のことを課長はとても気に入っていて、外回りの後はたまに2人で飲みにも行っていた。多少下心を感じることもあったが、上司だからと偉ぶることもなく、仕事の悩みも真剣に聞いてくれるので、良い上司を持ったと思う。
話の矛先が自分から私に移ったことが気に入らなかったのか、かえでがすかさず自分に興味を引き戻そうとする。
「ふふ、皆さんのお話聞いてると楽しくて元気になります。嫌なことも忘れられそう。」
「えっ、なになに、何か嫌なことあったの?」
「あ、いえ全然大丈夫なんですけど・・」
「何か悩んでるんなら言ってよ。俺相談乗っちゃうよ~」
課長が冗談ぽく、だが本当に心配しているように言った。
「・・・有難うございます。じゃあ今度聞いてもらっていいですか?」
(いや、今言わんのかーい。だったらわざわざそんな心配させるようなこと言いだすんじゃないよ。)
心の中でひとしきり突っ込みながら、市子はかえでと課長のやり取りを聞いていた。こういうかまってちゃん嫌いなんだよなぁと思いながらも、そんな気持ちは微塵も顔には出さず、市子は市子で田山達と楽しく話し始めた。そして、あっという間に2時間が過ぎていた。その後全員が2次会に行き、さらにひとしきり飲んで食べると、ほとんどの人がいい感じに酔っぱらっていた。市子はというと、飲み会の終盤になると必ずと言っていいほど市子の隣に来る課長の愚痴を聞かされていた。人の愚痴を聞くこと自体は嫌いではない市子だが、その時は他に気になることがあった。対角線上に座るかえでと渉である。カシオレしか飲んでないくせに明らかに酔っぱらったふりをして渉にもたれ掛かるかえでに、市子は気が気ではなかった。もはや課長のグチには、「あー、大変ですね。」と「そうですね、分かります。」を交互に繰り返すのみとなっていた。
(あいつ、近いんだよ~。チーク濃くして酔った感じ演出してるんじゃないよ。)
酔っぱらった男共は気付かないだろうが、一次会よりも粉っぽくなったかえでの頬を見て、女同士にしか分からない苛立ちを覚えた。
そして年下女の得意技「すご~い」「さすが!」「知らなかった~」を駆使したかえでの話術に、渉も満更でもない顔で話しているのがさらに市子の不安を煽ると共に、イライラを増幅させていった。漏れ聞こえる話からして、渉が大した話をしていないのは明白なのによくやるものだ。
終電も近くなったので、そろそろお開きにしようという頃になり、お金を田山に渡した者から店の外に出て行きだした。市子もトイレを済ませてから外に出たのだが、そこには渉とかえでの姿はなかった。
(え、なんで?あの二人どこいったの?)
最後に会計を終えた田山が店から出てきた。
「ねえ、森野さんと渡辺さんは?」
「えー、もう中には誰もいなかったよ?終電やばいし先に帰ったのかな?」
(いやいや、あいつら線違うでしょうが!)
「そっかあ。」
笑いながらも市子の心の中はざわめき立っていた。
皆と駅の改札で別れた後、市子は一人改札を抜けてもう一度街の方に戻っていった。もしかしたら二人で飲みなおそうとかえでが誘ったのではないかと思ったからだ。嫌な予感を感じながら二人の姿を探していると、道の先の方に女に支えられた男が歩いているのが見えた。その女の格好がかえでと似ていたので、市子は急いでその後を追った。角を曲がって二人を探すと、なんと二人はラブホテルに入って行くところだった。渉の様子からして、もうベロベロになっているのは遠目からも明らかだった。
渉は普段から飲みすぎると眠くなって、職場での飲み会でも2次会からは、座りながらウトウトしているということが度々あった。今日も飲みすぎているなと心配はしていたが、いつも以上にしつこい課長の話を聞くのに気を取られ、最後の方は渉の様子を気に掛けることができなかった。
(あいつ~、渉のことお持ち帰りするとはいい度胸じゃない。)
二人を見つけたのはまさにホテルに入るところだったので、追いかければ止めることもできた。しかし市子はそうはしなかった。酔っぱらっているとはいえ、渉は自分でかえでに付いて行きホテルに入ったのだ。私だって酔っぱらってふらふらになり、思考力が低下して好きでもない男といちゃいちゃしてしまうことくらいある。だがそのままホテルに入ったりはしない。どんなに酔っぱらっても、渉と付き合っているという自覚があるからだ。酔っぱらっていたから仕方ないなんて言い訳は通用しない。ましてや相手は同じ会社の後輩だ。欠片ほどでも理性が残っていれば、同じ会社に彼女がいるのに後輩に手を出すなんてこと絶対にしてはいけない。めんどくさいことになるのが目に見えているだろうが。
つまり、そんな信じられない行動をした渉に対して、市子は完全に心が冷えていた。そしてかえでへの怒りはもはや言い表せないほどだった。もう一通り思いつく限りの悪口を心の中で言い終えていたが、それでも言い足りなかった。
そんな二人と同レベルだと思われたくないという気持ちが、市子を踏み留めたのだ。ここで出て行って二人を責めたら、市子は完全に三角関係の当事者になってしまう。浮気した男と恋人がいる男を寝取ろうとする女、そして浮気された女。そんな立ち位置絶対に嫌だった。
市子は踵を返し、来た道を戻った。すでに終電はなくなっていたため、タクシーで家まで帰った。
その後の週末は、最悪な気分のまま過ごすことになったのは言うまでもない。どこにも出かける気分にもなれず、土日はずっと部屋に引きこもっていた。市子は学生の頃からモテてはいたが、理想が高いこともあり彼氏と呼べるのは高校の時に一人付き合って以来、渉で二人目だった。浮気をされたのは初めての経験である。市子は自分が浮気をされたこと、例え一時でも愛してた人から他の女より大切に思われなかったという事実に打ちのめされた。しかしそれと同時に、自分は本当に渉のことが好きだったのかと疑問も抱いていた。渉の浮気を目撃してから市子が抱いた感情といえば、怒りと悔しさだけだった。裏切られ軽んじられたことによる怒り、そしてあんなクソビッチに一瞬でも負けたという悔しさだ。そんな強い思いとは裏腹に、愛する人の心が自分から離れてしまったのではと心配する気持ちや、別れることになるかもしれない悲しみといった気持ちは少しも湧き上がってこなかったのだ。この引き籠って過ごした土日で市子が気付いたことは、自分はプライドを傷つけられたことに怒っているのであり、渉のことを想っているわけでは無いということだった。だとしても、だとしても、へこむものはへこむ。
「はあ~、とりあえず簡単なご飯でも作るか。」
市子は、横になり過ぎたことでズキズキと痛む腰を摩りながら台所に向かった。
どんなに気持ちが向かなくとも、月曜日になればいつも通り出社しなければならない。浮気されたから今日は会社を休みますなどど言えるはずもない。
市子は何もなかったように会社に出社し同僚に挨拶をしたが、渉が何もなかったように挨拶を返してくることなど許せないことだった。こいつはこんなにも強かな男だっただろうか。毎日のように市子に猛烈なアピールをし続けていた姿は、誠実で一途な印象を市子に与えていた。そう思ったからこそ、市子も彼を好きになり付き合ったのだ。だが現実はどうだ。同じ会社の後輩と浮気したにも関わらず、その後市子にフォローを入れることもなければ、酒のせいでの過ちだと謝ってくることもしない。バレていなければ大丈夫だと思っているのだ。市子は自分の見る目のなさを悲観した。きっと世の中の多くの浮気者達は、一時の性欲でsexしただけで、気持ちがあるわけじゃないし、いいじゃないか!と思っているのではないだろうか。これはよく男が言いがちだが、言葉にしていないだけで女も同様に思っていることだろう。ただ女の方が好感度を気にして、舌触りのいい色んな理由を付けたがるというだけだと思う。浮気は1人ではできないのだから、つまり似た者同士なのだ。市子だって、その考えを理解することはできた。だが共感は全くというほどできなかった。
わたしは唯一の恋がしたいの。ただ一人のかけがえのない人と人生を送りたい。そして相手にもそう思ってほしい。これは市子の中で揺るぎようのない想いだった。
では渉とは別れるのか。いや、物事はそう単純ではない。渉は会社の先輩だ。部署も同じだし当分転勤や移動もないだろう。今別れたら確実に気まずくなり仕事に支障がでる。実際、渉が彼氏であることでの仕事上のメリットは少なからずあった。ミスをしても優しくカバーしてくれたし、上司に言わずに処理してくれたこともあった。浮気をしたのは渉なのだから、別れても市子が非難されることはないだろうが、今までのように軽くイジったりはできなくなるだろうし、飲み会でも市子と渉、そしてかえでの三人が揃えば周りの同僚の心境は複雑だろう。多少の気まずさと少しのわくわく。そんな周りの目を気にしながら生活していくなど考えただけで憂鬱になる。
渉は市子に浮気がバレているとは思っていない。ならば市子が知らないふりをしていれば、これまで通りの生活が送れる。
(うん。渉と別れるのは先送りだな。話し合いも面倒だし。)
渉と別れるという選択肢は市子の中で消去された。しかし、市子の渉への気持ちも同時に消去されていた。そう、市子は決して渉が好きだから浮気を許すのではなく、会社での立場や渉と付き合っていることのメリットを考えて別れないという結論を出したのだ。
別れないという結論を出した以上、渉の過ちについて追及するのは得策ではない。このまま私が浮気に気付いていないふりをすれば、二人が今後も関係を続ける可能性はある。だが市子はそれでいいと思っていた。すでに市子の渉への気持ちは焼き上がってから10分以上経過したトーストくらい冷めていたし、渉がかえでと関係を続けることで市子と会う頻度が減ることは市子にとってむしろ好都合なことだった。好きでもない男のために貴重な休日を浪費することは避けたかったし、市子にはやらなければいけないことができていた。
それは、早急に渉の代わりになる誠実で爽やかで頼りになる男を探すこと。そう、私はやらなければならない、結婚活動、婚活を!
私ももう25歳だ。まだ焦る歳ではないが、決して悠長に構えていられるような歳でもない。渉が結婚候補から退いた今、それと同等、いやそれ以上の男を探す必要がある。
自分のデスクに座った市子は、早速パソコンを立ち上げ婚活パーティーのサイトを開いた。思い返せばこの時が、純粋な愛を追いかけていた市子が、出口の見えない迷宮に迷い混んだ瞬間だったのだ。
これは、心から愛せる人との結婚を夢見て奔走する、ちょっぴり自信家で器用だけど不器用な、そんな一人の女の恋愛ストーリーの序章である。
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