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196.幸せな想い出はかすまない

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 唯と別れてからも、俺は変わらずに電車で通勤をしていた。

 二人で通った改札。
 タッチ不十分で通過できず、後ろを歩く唯に頭突きをされた、温もり。

 二人で耐えた満員電車。
 雨の日に曇る窓ガラスをみて、こういうの不潔な感じがして無理、と言った俺に対し、ウェットティッシュを取り出してさっと拭き取ってくれた、タフさ。

 二人で駅のホームに並び、仕事の事、家の事、色んな事を話した。何でもない、かけがえのない時間。

 それを毎日思い出し、大切に抱きしめながら生きて行きたくて。

 つまり、今や朝晩の通勤は、俺が唯に想いを馳せる大事な癒しの時間になっている。なのに……。



 「……久しぶり」


 なんで一番俺の心を乱すあんたが……終業後の駅前で、待ち伏せとかしてるんですか。

 それが、声をかけて来た蓮さんに抱いた……率直な感想だった。



 「いらっしゃいませっ。ご注文はお決まりですか?」

 「ブレンドを一つ」

 「……カフェオレ、ミルク砂糖多めで」

 立ち話もなんだからと言われて入った、喫茶店。カフェじゃなく、喫茶店。ファミレスのようにソファー席が充実した、レトロなお店。で、とりあえず、糖分接種を試みる。
 糖分の取り過ぎはキレやすくなるというが、俺にとって、甘々コーヒーは精神安定剤のようなものだから。

 「悪いな、待ち伏せなんてして。考えてみれば……仁の連絡先とか、知らないから」

 「……いえ。で、なんですか、聞きたい事って」

 「俺なんかと長々顔を合わせていたくないだろうから、単刀直入に聞く。仁、唯と肉体関係はあったか?」

 ブ!!!

 とりあえず、と、口に運んだお冷を拭き零してしまう。
 『大丈夫か』と言ってハンカチを差し出してくれる蓮さんは、相変わらず神だ。多分……いや絶対、蓮さんの顔にもかかっちゃったのに。
 しかし、敵の情けは受けん。俺は自分のハンカチを取り出して、口元を拭った。

 「す、すいませ……。あの、なんでそんな事聞くんですか?」

 「……俺は、無いって聞いてた。でもそれが嘘かもしれない可能性が出て来た。唯が俺の所に来ると決めてからも、お前と関係を持ってたなら……心中穏やかではいられない」

 複雑な表情を浮かべる蓮さんの言葉に、心臓を鷲掴みにされたような痛みが、走る。

 別れの時の……俺の最悪の行い。
 あの事を、唯は蓮さんに隠しているんだ。

 そりゃあ言えないよな。
 俺だって、誰にも言えなかった。
 男として、人として、最低最悪の行為。

 誰かに知られたら、俺は終わる。唯はそれを心配してくれたんだろう。

 でもそのせいで今、蓮さんに疑われている。
 それなら……俺に出来る事は……

 「俺が、襲ったんです。一方的に」

 「……仁ならそう言うと思ってた」

 「いや、マジで。唯を庇ってるとかじゃ無くて、いきなり離婚届出されて、逆上して」

 「仁はそんな事する男じゃないだろう。俺は小さい頃からお前を知ってるんだぞ」

 微塵の迷いもなく、そう言ってくれる蓮さん。

 有難い。申し訳ない。
 でもそういう感情以上に、俺の中で爆発したのは……

 「ふざけんなよ……っ。あんたがそこまで信じてやるべきは唯だろ?」

 テーブルに置いた拳が、震える。

 「唯を信じてない訳じゃない。でも、唯はお前の事を本気で好きだったから」

 「好きだったから? なんですか? その気持ちを押し殺してまで、自分のとこに来てくれた唯を疑う理由がそれですか? 勝手が過ぎるわ! 自分の不安位、自分でコントロールしろ! そんなもんの為に、唯を疑ってんじゃねえよ!」

 次第に大きくなる声。他の客や店員の視線を感じる。でも、そんなもんはどうでもいい。

 「じゃあ……本当に?」

 「……俺のとこから出てった日……唯はそのまま蓮さんとこに行ったんですよね? なんか小綺麗なワンピース着てた時……」

 「あ、ああ……」

 「足、素足じゃなかったですか?」

 「……そうだった。冬なのに素足? って思ったから、覚えてる」

 「ストッキング履いてたんですけど、破けたんです、ビリッビリに。俺が無理矢理、脱がせたんで」

 生々しく、ショッキングな暴露話。
 愕然とした様子で、口元に手を当てる蓮さん。

 「唯は、俺を庇って言わなかったんだと思います」

 「……おま……それ……クソ野郎じゃないか……」

 「そうです。そんなクソ野郎すら、庇う、それが唯です。アホかよって位底抜けに優しいのが、唯です。だから、どうして仁を庇ったんだ、まだ好きなのか、とか。好きだから全力で抵抗しなかったんじゃないか。とか。間違っても言わないで下さいね」

 「言うわけ無い……そんな事……お前……よくも……っ」

 怒りに歪む美顔を前に、俺はテーブルを叩きつけ勢いよく立ち上がった。

 「よくもじゃねぇよ!! 唯に言われるのは仕方ねぇけど、あんたに言われるとイラっとするわ! せっかく両想いになったのに、あっさり横取りしやがって!  第一やり口が卑怯なんだよ! 過去の献身をちらつかせるとか……そんなんしたら、唯の性格上、あんたを選ぶに違い無いってわかってただろうが!」

 「俺が言ったわけじゃない! あれは凜が」

 「知るか! あのブラコン弟ならそうしてくれるだろうなって計算してたんじゃねえの!? つーか、自分を殺そうとした女の看病をしてたとか、こえーわ! 善人すぎてこえー! でもそれも、全部全部唯に恩を着せる為の策略だったって考えれば納得ですけど!」

 「ちが……っ、俺はそんなつもりじゃ……!」

 「つーかいっそ羨ましいですよ! あの女に刺されーの、三途の川に片足ツッコみーの、地獄のリハビリ乗り越えーのしたから、唯に選んでもらえたんだもんな! 唯を自分のものに出来るなら、俺だってそれ位喜んで耐えたわ!」

 俺の言葉に、もう我慢ならんという感じで、蓮さんも立ち上がった。

 「おま……っ! それは言い過ぎだろう!? 俺がどんな想いで車いす生活送ってたか……どんな想いで、唯を諦めようとしたか、何も知らないくせに!」

 「ああ、知らないっすよ! でもすげーしんどくて、それでも唯の為に歯ぁ食いしばって乗り切ったんなら、今のこの生活は、ご褒美って事じゃないっすか!?」

 「……は?」

 「そうまでして、守ろうとした大好きな女の子が……あんなに可愛くて優しくて料理が上手で嘘がド下手クソな良い子が……蓮さんを選んでくれたんですよ? 全力で信じて、全力で幸せにしてあげて下さいよ……」

 やばい。目頭が熱くなってきた。

 「……仁……」

 「……帰ります。俺のカフェオレも飲んじゃって下さい。こんな時間にコーヒー2杯も飲んだら、寝れなくて辛いでしょうけど。サレた男からのささやかな嫌がらせです」

 「……ごめん。唯と暮らし始めてから、カフェイン摂っても熟睡出来るようになったんだ」

 「すげー精神安定してんじゃねぇか羨ましい!!」

 俺は千円札をテーブルに叩きつけ、その喫茶店を後にした。


 大好きな女の子を奪った男への怒りと嫉妬と。
 自分の悪業に対する後悔とそれを知られてしまった羞恥心と。

 色んな感情がぐるぐるぐるぐる……。

 でも……唯を失ってから、自分の中に必死に押さえ込んできたものを、吐き出せた。

 何回も出かけては不発に終わってたクシャミが、ようやく出た時のよう。
 鼻水もツバも、まるで霧吹きで噴射したかのように飛び散って、腹筋に刺すような痛みが走る位に、勢い良く。

 「なんか……すっきりした」

 不思議な爽快感に包まれながら、俺は泣いた。

 ボロボロ泣いて、唯と2人で笑い合った駅までの道を……1人で歩いた。
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