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80.人間も猫も後から来たほうが強くなりがち

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 「唯さん?」

 「あ……っ! 斎藤さん!」

 仁ちゃんのお勤め先。アスカセレスチャルグループ人材派遣会社の本社。の、とてつもなく広いロビーにて。
 上京したての若者のように、キョロキョロオドオドしている私を見つけてくれた、美しい人。

 「すいません、お忙しい時間にお電話しちゃって……っ」

 「いえ、仁さんと連絡が取れない以上、やむを得ません」

 息を弾ませながら、頭を下げ、仁ちゃんの鞄を託す。
 
 「確かにお預かりしました」

 「あの、仁ちゃんは……?」

 「まだ出社されていないので、ご自宅に引き返したのかと……」

 「ええ!?」

 入れ違いになる可能性は考えなかった。
 
 仁ちゃんの出発後、さほど時差なく私も家を出たから……。本当は道中で、バス停から引き返す仁ちゃんと会えると思ってたんだ。だって、鞄にはお財布も入ってたし。仁ちゃんがパスケースを持ってた記憶はないから。交通系ICはきっとお財布の中かな、だったらバスに乗ろうとした時点で気付いて、引き返すかな、と。
 でも……

 「私がここに来るまでに会えなかったって事は、誰か知り合いの人とかに会えて、電車賃借りて出勤できたのかなって。それで……ここから自宅までは1時間位かかりますし。遅刻しちゃう事を考えると、出社した後に引き返すなんて、思いもしなくて……」

 「……仁さんは電車やバスの運賃はスマートウォッチでお支払いされています。ですから、時計はつけた状態で家を出られた、という事でしょうか」

 「あ! そうなんですか!?」

 「それに、仁さん程の身体能力の持ち主ならば、ビルからビルへと飛び移るなどして、短時間で会社とご自宅を往復できると思いますが」

 「へ……? ビルからビルへと……?」

 このタイミングでなんの冗談? ……じゃ、ないか。斎藤さんはいたって真面目な顔をしているし。

 「唯さんはご覧になった事はありませんか? 遅刻しそうな血統種が、あちこちを飛び回っているのを」

 「……すいません、ありません……」

 困った顔で首をかしげる私に、呆れたようにため息を吐く斎藤さん。

 「そうですか。唯さんは専業主婦で、オフィス街にいらっしゃる事自体ありませんものね。学生時代は、公共の場で不用意に能力を晒さないよう厳しく指導されていますから、遅刻しそうになってもそんな事をする生徒はいないでしょうし」

 あ~、あ~……言われてみれば、高校の時に先生が口酸っぱく言ってたかも。『能力を使う位なら大人しく遅刻しろ』って。

 「けれど、社会人になるとチラホラいるんですよ。私が入社間もない頃、使い魔に乗って始業間際に窓から出社した同期もいました。大半の血統種は、悪目立ちしないようそういった行動は控えるのですが、法規制されているわけではありませんので。ああでも、今後は運送等でドローンの運用が拡大して行くでしょうし、ルールやペナルティーは設定される可能性はありますね」

 「そう……なんですね」

 なんだか、別世界の話をされている感覚。空っぽの相槌しか打てない。改めて考えると、血統種ってすごいんだな。
 私にそういう類の力は無いし、通常種の中で普通に生きてきたし、血統種に囲まれて働いた事も無いから……彼らの常識や普通が、イマイチ理解できていなくて。

 「という事は……仁ちゃんは電車を降りた後に忘れ物に気付いて……その、ビルからビルへと? の手段で帰宅した、んでしょうか?」

 「可能性は高いです。……それにしても……唯さんは仁さんの奥様なのに。その程度の推測も困難でしたか?」

 う……っ!
 弓の名手、斎藤さんの放った矢が、鋭く胸を貫く。

 「すいません……」

 「あなたが大人しく自宅マンション前等で鞄を持って待機していれば……入れ違い、などという果てしなく時間と手間の無駄になる事態は、回避できた筈ですが」

 「お、おっしゃるとおりです。私、非常に残念な脳みそでして……申し訳ない……」

 「私に申し訳なく思う必要はありません。あなたが自分の無能を詫びるべきは夫である仁さんでは?」

 「はい、すいません……」

 突然始まった乱打に、身を縮めてしまう。おっしゃる通り過ぎて、返す言葉もない。
 
 考えてみれば、斎藤さんを連絡をしたのも間違いだったかもしれない。
 仲たがいしている一輝さんは頼れない。だからって……斎藤さんは仁ちゃんを好きなんだって、聞いたばかりだったのに。

 好きな人の奥さんが無能すぎて、好きな人が困ってる。そりゃあ面白くないに決まってるよね。
 なんでこんなのが妻の座に収まってるの? とか、怒りも湧いてくるだろうし。
 
 考えてみれば、借り物の特訓中にも色々言われたのも……そういう感情がベースにあったから、なんだ。
 だとしたら……ああ~、私、本当に頭悪すぎる。無神経な事言って、して、斎藤さんの神経逆撫でしまくって。

 ここは早めに退散しよう。無事、鞄も託せた事だし。これ以上斎藤さんの心を乱すのは申し訳無い。

 「あの、本当に申し訳ありませんでした! 鞄、よろしくお願い致します! それでは!」

 「私、仁さんが好きです」

 改めて一礼し、その場を立ち去ろうとしたのだけれど……。背中にぶつけられた言葉に、反射的に足が止まる。

 「私はやはり、あなたが仁さんにふさわしいとは思えません。現時点では仁さんに応じて頂けていませんが……あなたから仁さんを奪う為に、一層励もうと決意しました」

 「……それは、困ります」

 ゆっくりと振り返って、斎藤さんの目を真っ直ぐに見る。

 斎藤さんが誰を好きになろうが、それは自由であって、私には関係ない。関与しちゃいけない。たとえ相手が仁ちゃんであっても。

 でも、想うだけじゃなく、私達の夫婦関係を壊そうとするなら、許す事は出来ない。
 アシスタントと不倫、離婚、略奪愛……そんなスキャンダルは、飛鳥の頂点を目指す仁ちゃんの足を盛大に引っ張る。

 「唯さんでも、そんな顔をされるんですね」

 「好きになるのは自由です。でも、奪うとか、やめて下さい」

 「……そうですね。あなたが仁さんの妻に相応しい人間だと証明して頂けるなら、手を引きます」

 「証明……?」

 「借り物競争で、仁さんに一等を取らせて下さい。競技の勝敗は、パートナーの力量にも大きく左右されます。妻ならば、夫に花を持たせるのは当然の義務ですよね? ああ……既にお聞き及びでしょうが、私も他の参加者の借り物として出場しますので」

 成程……それなら、私と半直接的に戦えるってこと、なのかな。

 斎藤さんの圧が強すぎて、恐ろしい。愛人さん(じゃないけど)の闘争心がこれほどのものとは。
 彼女は私のコンプレックスをビンビンに刺激してくる超絶美人だから、尚更ひるんでしまうのかもしれないけれど。

 でも……仁ちゃんの為に、ここは立ち向かうべき局面だ。

 「のぞむところです」

 こんな台詞、私の人生で実際に使う事になろうとは――。

 私は小刻みに震える手足を、渾身の強がりで動かして……美貌の愛人(じゃないけど)に再び背を向けたのだった。
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