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9:ゆるやかな変化

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バーバラの街に本格的な夏が訪れた。
小学校は夏休みの真っ最中である。フィガロは夏休み中はアンジェリーナの家の喫茶店でアルバイトをしている。日中はどうしてもフィガロが家に1人になるので、児童預かり所を利用するかと考えていたのだが、アンジェリーナと祖父のシュルツが『喫茶店を手伝ってよ』と誘ってくれた。ガイナはありがたく彼らの厚意に甘えることにした。アルバイトと言っても、本格的なものではない。朝に喫茶店に行き、アンジェリーナと宿題をしてから、午前のお茶の時間からアンジェリーナと一緒に喫茶店の手伝いをして、午後のお茶を飲んでから家に帰ってくる。貰う給料も子供のお小遣い程度のものだ。家に帰るフィガロにアンジェリーナも一緒に着いてきて、保育所から帰ったニーズと3人で遊ぶのが日課になった。ガイナとしては、フィガロが1人で過ごす時間が少なくてすむので、本当に助かっている。

朝から暑い日が続いている。
ガイナはしっかりと軍帽を被ってから、フィガロと共に玄関から外に出た。フィガロには麦わら帽子を被せており、タンクトップの上に薄い長袖シャツも着せている。バーバラの街は中央の街よりも暑さがキツい気がする。玄関先でフィガロが水筒と塩飴をちゃんと持っているかを確認していると、ニーズの元気な声が聞こえた。
ラウト達の家の方を見れば、些か草臥れた感じの帽子を被ったラウトと麦わら帽子を被ったニーズが外に出ていた。これから保育所に行くのだろう。
ガイナは彼らに向かって、ひらひらと軽く手を振った。


「おはようさん。先生。ニーズ坊」

「おはよ」

「おっはよー!」

「おはようございます。ガイナさん。フィガロ君。今日も暑いですねぇ」

「朝から堪えるよなぁ」

「お仕事中は特に熱中症に気をつけてくださいね。巡回もされるのでしょう?」

「おう。ありがとな。一応水筒は持ち歩いてんだわ。途中で買ったりもするけどよ」

「軍人さんは大変ですね。この暑い中、外を歩き回るだなんて。本当に無理はしないでくださいね」

「おう。心配ありがとな」

「いえ」


ラウトがゆるく笑った。ガイナもニッと笑う。家族以外にも、心配してくれる誰かがいることに、小さな幸せを感じる。胸の辺りがぽかぽかと温かく、同時に少しだけ擽ったい。
フィガロが朝から元気なニーズと手を繋いだので、皆で歩き始めた。ニーズが通う保育所は領軍詰所へ向かう道の途中にある。ガイナの勤務次第で変わるが、朝の出勤の時間が被った日は、いつも途中まで一緒に行く。なんてことない世間話をしながらラウトと並んで歩く時間を、ガイナは気に入っている。
アンジェリーナの喫茶店に行くフィガロと分かれ、保育所に着いたので、ラウトとニーズとも分かれる。


「ガイナさん」

「んー?」

「お仕事、頑張ってくださいね。領軍に勤める貴方達のお陰で、僕達は安心して暮らせています。大事なお仕事です。でも、無理だけはしちゃだめですよ。貴方が倒れたら悲しむ人が何人もいるんですから」

「お、おう」

「よかったら、これも持っていってください。塩飴なんですけど、桃の味なんです。美味しいですよ。僕のお気に入りなんです」

「……ありがとな。先生も今日も仕事だろう?空調はちゃんと使えよ?じいさんにも気をつけるように伝えといてくれよ」

「ありがとうございます。そうします」

「じゃあ、俺行くわ」

「はい。お気をつけて。ガイナさん」

「ん?」

「いってらっしゃい」

「……いってきます」


ガイナは深く軍帽を被り直してから、その場を離れ、領軍詰所へとずんずんと足早に向かい始めた。なんとも顔が熱い。真剣に気遣われて、「いってらっしゃい」と見送られるのはいつぶりだろうか。ラウトとニーズと一緒に朝歩くようになってから、ラウトは必ず分かれ際に「いってらっしゃい」と言って、ガイナを見送ってくれる。なんとも面映い。ラウトは単なる仲がいいご近所さんだ。ラウトに特別な想いなどないと分かっていても、いつもの柔らかい笑顔とガイナを優しく気遣ってくれることに、勘違いをしそうになってしまう。
ガイナはそもそも男が好きな訳じゃない。なのに、時折くれるラウトの小さな優しさが胸に染みて、心臓が激しく動くようになった。ラウトのゆるい笑顔を見ているだけで、なんだか嬉しくなり、もっとずっと側にいたくなってしまう。これはもしや『恋』と呼ばれるものなんじゃないだろうか。

ガイナは早歩きで領軍の詰所に着いた。空調がきいた室内に入って、軍帽を脱ぐ。
所属する部署の部屋に行けば、先に来ていた先輩から、声をかけられた。


「おい。ガイナ。熱中症じゃねぇのか。顔が真っ赤だぞ」

「え!?そ、そうか?」

「念の為、医務室に行ってこい。巡回まで時間あるしよ。医務室の先生の診断次第ではシフト変えるから」

「あ、はい。じゃあ、行ってくるわ」


ガイナはパタパタと廊下を走りながら、ごしごしと熱い自分の両頬を擦った。







ーーーーーー
ラウトは書き終えた原稿を読み返し、端をキチンと整えてから封筒に原稿を入れた。最近調子がいい。本職ではなく副業の方がだが。
今回書いたエロ小説は、男同士の恋愛を描いたものだ。シリーズ化してもらえて、今作で2巻目になる。意外なことに、男の読者よりも女の読者の方が多いらしい。
今回の作品の主人公はガイナをモデルにしている。逞しくて顔は厳ついのに、笑うと愛嬌があって可愛い軍人という設定だ。ガイナモデルの主人公の相手は、たまたま見かけたガイナの先輩をモデルにした。ガイナよりも背は低かったが、羨ましいくらい甘く整った顔立ちで、スタイルがよかった。
美形な先輩と厳ついのに可愛い後輩の恋物語である。話の7割はエロシーンだが。
男同士のエロを書くのは初めてだったが、実際に書いてみると、意外と書けちゃうものである。ガイナモデルの主人公がネコだ。厳つく逞しい男がよがる姿など、想像するだけで気持ちが悪いと思っていたが、今作の主人公については逆である。執筆しながら、すごく興奮した。誰にも言えないが、主人公をガイナに重ねて、甘々イチャイチャなエロを書いている最中に、ラウトは我慢できずにオナニーをした。右手でペンを夢中で動かしながら、左手で自分のペニスを激しくしごく。ガイナ、いや、主人公がアナルでイッて射精するシーンで、ラウトも射精した。ガイナに対する罪悪感が半端ない。

男に性的興奮する趣味などない。……ない筈だ。それなのに、ガイナがいやらしく喘ぐ様子を妄想するだけでペニスが勃起してしまう。ガイナは恩人だし、仲がいいご近所さんである。不埒な目で見てはいけない人だ。
ガイナと話すのは楽しい。ガイナのちょっと愛嬌がある笑顔を見るだけで、胸がざわめく。
ラウトはふと、自分の初恋を思い出した。近所の10歳も年上のお姉さんがラウトの初恋の相手だ。優しくて、小さな頃から陰気なラウトにも、よく話しかけてくれていた。ラウトが小学校を卒業する前に結婚をして、結婚相手の元に引っ越してしまった時はこっそり泣いた。

それからずっと恋をするような相手に巡り会えず、別れた妻と流されるように結婚をして、ニーズが生まれた。ニーズは本当に可愛い我が子だ。子育ては大変で、父の力を借りなければ、やっていけないくらいだ。どんなに愛していても、子育てに疲れる時は疲れる。子育てに休みなんてない。重い疲れを感じていた頃に、離婚をすることになった。別れた妻は子育ての手伝いは全然していなかった。何も変わりはしない。そう思っていた頃にガイナと出会った。
ガイナは不思議な人だ。ラウトの心の中にするっと入ってきて、その愛嬌のある笑顔で、どんどん疲れを吹き飛ばしてくれる。

ラウトは原稿用紙が入った封筒を抱きしめた。この作品はきっと間違いなくラウトの願望で生まれてしまった。恥ずかしいが、不思議と満たされている。
1つの作品が書き上がったばかりなのに、もう次の作品のことが頭に思い浮かぶ。プロットを書く時間も惜しい。ラウトは再びペンを手に取った。

ラウトは担当が来るまで、ずっと黙々とガイナモデルの主人公の恥態を書き続けた。






ーーーーーー
ガイナは悩みつつも、ラウトをバーに誘うことを決めた。フィガロとニーズはバスクが見てくれる。1度でいいから、ラウトとデートがしてみたい。ただ、普通に酒を飲むだけでいい。手を繋いだり、キスをしたりなんて、高望みはしない。ラウトは女と離婚して間がない。きっと女専門なのだろう。仮にそうじゃなくても、ガイナみたいな可愛げがない男を好きになってくれる訳がない。ガイナはもう誰かと結婚する気がない。フィガロを立派に育てられれば、それでいい。しかし、ほんの少しでいいから、思い出が欲しい。
最初で最後のデートがしたい。胸の中に湧きおこってしまった淡い恋心をすぐに消し去ることはできないだろうが、1度でいいからデートができれば、ある程度満足して、最近特に騒がしくなっていく心の内が落ち着くかもしれない。

夕食の買い物を済ませ、足早に自宅へと向かいながら、ガイナは期待で膨らむ自分の胸を押さえた。
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