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2:楽しい時間と隙間風
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モーリスは可愛い姪っ子トレイシーとジャックが楽しそうにクッキーの型抜きをしている様子を眺め、小さく笑みを浮かべた。トレイシーがとても楽しそうに笑っている。先週、モーリスの家に1人で来た時には、かなり沈んだ顔をしていた。久しぶりにトレイシーの笑顔を見ることができて嬉しい。
モーリスの兄は、去年トレイシーの母親と離婚をして、割と最近再婚した。トレイシーはモーリスの兄が引き取ったが、トレイシーと新しい母親は相性が悪かったらしく、上手くいっていない。兄は仕事が忙しいから、トレイシーの相手を全くしてやれない。新しい母親が妊娠したこともあって、トレイシーは家の中でどんどん居場所が無くなっていき、モーリスがたまたま実家に帰った時には、自分の部屋に引き篭もって外に出ようとはしなくなっていた。食事も中々取らなくなっていて、前に会った時よりも随分と痩せてしまっていた。
新しい母親に殴る蹴るなどの暴行をされている訳でないが、存在を無視されたり、トレイシーにも聞こえるようにトレイシーやトレイシーの母親の悪口を言われたりと、虐待ともとれることをされていた。何も話したがらないトレイシーから聞けるだけ話を聞いて、モーリスはトレイシーを引き取ることを決めた。
モーリスの兄にその事を話せば、兄は渋い顔をした。『トレイシーは俺の娘だし、外聞が悪い』と。それでもトレイシーの現状を訴えると、渋々ではあるが、一時的にモーリスがトレイシーを預かることに同意した。『今は妻もトレイシーもお互いに慣れていないだけだ。少しの間離れたら、関係はよくなるだろう』と言う兄の脳みそお花畑ぶりに正直呆れたが、モーリスは何も言わなかった。
本当はその日のうちにトレイシーを自分の家に連れて帰りたかったが、モーリスの家は荒れ放題で子供が過ごせる環境ではなかったし、家政婦兼子守りの手配や自分の仕事もある。タイミングが悪いことに、どうしてもやらなくてはいけない責任の重い任務の予定も入っていた。モーリスは仕方がなく、あと2ヶ月だけトレイシーに耐えてもらうことにした。トレイシーと、あと2ヶ月したら一緒に暮らそうと約束をしたら、トレイシーがほっとしたように泣いた。
モーリスの家に来ても、トレイシーの顔は晴れなかった。モーリスが覚えたばかりの手料理を振る舞うと、きょとんと驚いた顔をして、いつもより少しだけ多く食べてくれたが、笑うことはなかった。
それが今は楽しそうに無邪気に笑っている。ジャックがいつものように料理を教え始め、初めてのことでオロオロするトレイシーを然りげ無く手伝い、上手く褒めて、とても楽しそうに笑っている。最初は戸惑っていたトレイシーも、そうしないうちに、ジャックが笑うと小さく笑うようになり、本当に楽しくなってきたみたいで、早くもジャックに懐いて、一緒に初めてのクッキー作りに笑顔で挑戦している。
ジャックに料理教室を頼んだ自分を褒めてやりたくなるくらい、トレイシーが楽しそうだ。
ジャックに料理を教えてくれるように頼んだのは、一昨年くらい前にあった軍の祝賀会か何かで、たまたまジャックと少しだけ話すことがあり、その時に料理が趣味だと聞いていたからだ。事務手続きをする為に昼時に事務室を覗いた折、手製だと思われる弁当を食べているところも見たことがある。モーリスの身近には、自分で料理をする者がいなかった。チラッと見たことがあるジャックの弁当は、素朴な家庭料理といった感じで、モーリスにはあまり縁がなかった雰囲気のものだった。素直に、美味そうだなと思った。
トレイシーを引き取ると決めた時、トレイシーの為に自分が何をしてやれるだろうかと考えた。その時に、ふと、ジャックの弁当が頭に思い浮かんだ。素朴で温かい雰囲気の美味しい手料理を作ってやれたら、トレイシーが喜んでくれるのではないかと思った。
モーリスはゲイだ。その事は軍内で広く噂になっている。事実なので、わざわざ否定もしなかった。時折、男の恋人がいたし、もう少し若い頃は一晩だけの遊びもよくしていた。軍内ではモーリスを露骨に避ける者もいる。ゲイは気持ち悪くて近寄りたくもない存在らしい。ジャックもそうだったら少し嫌だな、と思いながら、モーリスはジャックに声をかけた。
ジャックは毎回真剣かつ丁寧に、なによりとても楽しそうに料理を教えてくれる。手書きの料理ノートは分かりやすく、妙に上手いイラスト付きで細かいことまで書いてあり、後からノートを見ながら復習することもできる。教え方も分かりやすいし、褒めて伸ばすタイプなのか、本当にささいなことで然りげ無く褒めてくれる。モーリスは今年で39歳になる。この歳で人から褒めてもらえることなんて殆どない。上っ面だけのおべっかはあるが、純粋に少しの成長を褒めてもらえることなんてない。子供の頃から、モーリスはあまり人に褒められることが無かった。どれだけ勉強を頑張っても、どれだけ鍛錬を頑張っても、できて当然のことだし、できなかったら努力が足りない怠け者だと言われていた。ジャックに褒めてもらえると、どうにも胸の奥がむずむずして落ち着かない。
型抜きを終えて、魔導オーブンの前でクッキーが焼きあがるのを楽しそうにトレイシーと眺めているジャックを見て、モーリスはふと思った。自分があと10歳若かったらよかったのに。そうしたら、きっと躊躇いもなくジャックのことを好きになっていた。モーリスが大事に思っているトレイシーを笑わせてくれて、モーリスのことも嬉しくさせてくれて、一緒に笑ってくれる。きっと、ジャックともっと一緒に過ごせたら、もっと楽しくて、もっと笑っていられる筈だ。
モーリスは楽しそうにお喋りをしているジャックの後ろ姿をじっと見つめて、小さく苦く笑った。
------
ジャックはトレイシーと一緒にシチューを作っていた。モーリスの姪トレイシー初参加の料理教室で、どうやらとても懐かれたらしく、『また一緒にお料理がしたい!』と強くねだられた。モーリスに頼まれたし、ジャックもモーリスとトレイシーと一緒に料理をするのが本当に楽しかったので、喜んで快諾した。
モーリスから、『申し訳ないが、自分がいない時にも来てもらえると嬉しい』と言われたので、モーリスが仕事で不在の日も、自分が休みの日にはモーリスの家にお邪魔している。
トレイシーは小柄で痩せた女の子だ。鮮やかな赤い髪が可愛らしく、利発そうな緑色の瞳はモーリスとよく似ている。とても真面目で、いつも楽しそうにジャックと一緒に料理をしてくれるし、手先が器用で飲み込みが早いので、大変教え甲斐があって、ジャックもすごく楽しい。トレイシーは、モーリスが溺愛するのがとてもよく理解できる可愛い女の子だ。
シチューを煮込んでいる間に、胡桃入りのパンケーキを焼く。胡桃入りのパンケーキは、モーリスの好物らしい。トレイシーに作りたいとねだられたので、ジャックは笑顔で頷いた。
胡桃割りで胡桃を割るのは流石にトレイシーでは無理なので、ジャックがやる。その間に、トレイシーには小麦粉などの計量をしてもらった。真剣な顔できっちり丁寧に計量し終えたトレイシーが、ジャックを見上げて、にぱっと笑った。
「できたわ!」
「ありがとう。こっちももう少しで終わるよ」
「胡桃、1個だけ食べていい?」
「いいよ」
「んふっ。美味しいわ。おじ様、喜んでくれるかしら」
「絶対に大喜びするよ。抱っこしてぐるぐるは居間でやってもらわなきゃ。こないだみたいに台所でされるのはちょっとね」
「私、もうちっちゃい子じゃないのに、おじ様ってば、いつも抱っこでぐるぐるするのよ」
「モーリス部隊長はトレイシーちゃんが大好きだから、しょうがないね」
「私はもうレディーなのに」
「ははっ。可愛いレディー。胡桃が割れたから、混ぜて焼いていこうか」
「えぇ!ふふっ。今夜の晩ご飯も素敵だわ!」
「ははっ。レディー。デザートにケーキを持ってきてるよ」
「本当!?ドライフルーツのやつ?」
「正解」
「やったわ!私ジャックお兄ちゃんのケーキ大好き!!最高の晩ご飯ね!おじ様、早く帰ってこないかしら」
「早く帰ってくるといいね」
うきうきとしているトレイシーが可愛くて、思わず頬がゆるむ。ジャックはトレイシーの頭をやんわりと撫でた。
踏み台に乗ったトレイシーと一緒にパンケーキを焼き、夕食として作った料理が全て完成したら、2人で紅茶を飲みながらモーリスの帰りを待つ。
モーリスはトレイシーが一緒に住み始めてから、できるだけ早く帰るようにしているらしい。忙しい隊長職なので、持ち帰ることができる仕事は家に持ち帰り、トレイシーが寝た後にやっているのだとか。トレイシーがモーリスと一緒に暮らし始めて、そろそろ1ヶ月半くらいである。最近、ちょっとモーリスが疲れているような気がする。トレイシーといる時は輝くような笑顔だが、職場で見かけると、なんだか草臥れた雰囲気である。トレイシーはそんなに手がかかる歳ではないが、それでも子供がいる生活は気を使うのだろうし、仕事もきっと大変なのだろう。なんだかちょっとモーリスが心配になる。
今日はトレイシーと一緒に、モーリスが好きな胡桃入りのパンケーキと、栄養価が高い野菜たっぷりのシチューを作った。モーリスが喜んで、少しでも元気になってくれるといい。
ジャックはトレイシーと次に作る料理の話をしながら、モーリスの帰りを待った。
日が暮れた頃にモーリスが帰ってきた。モーリスは帰ってくると真っ先にトレイシーを抱っこして、トレイシーの頬にキスをする。頬擦りをした時にトレイシーが嫌がるからと、最近は毎日髭を剃っている。初めて無精髭がないモーリスを見た時は、素で『どなたですか?』と言ってしまったくらい、髭がないだけで印象が変わる。素直に格好いい男前だ。いつ見てもボサボサだった髪もきちんと整髪剤を使って後ろに撫でつけて整えており、本当に誰だよ状態なくらい男前である。こういう大人の男になりたいなぁと思っちゃうくらい格好いい。
トレイシーが嫌がるくらい頬にキスをしまくったモーリスが、トレイシーを抱っこしたままジャックの方を見た。ニッと笑って、モーリスが口を開いた。
「ありがとな。ジャック」
「いえ。トレイシーちゃんが今日もすっごく頑張って美味しいご飯を作ってくれましたよ」
「本当か!ありがとう!トレイシー!俺の天使!!」
「おじ様。ちゅーはもういいわ。ジャックお兄ちゃんとご飯を温めてくる」
「お。そうか。じゃあ、すぐに着替えてくる」
「えぇ」
嬉しそうな満面の笑みで、モーリスがトレイシーを下ろし、いそいそと自室がある2階へと向かった。それを見送り、ジャックはトレイシーと一緒に台所へと移動した。
モーリスがそれはそれは美味しそうにジャックとトレイシーが作った料理を平らげ、ご機嫌な様子でワインのボトルを開けた。明日は休日なので、少しだけ飲むらしい。ジャックも勧められたので、少しだけワインを飲むことにした。先に夕食の後片付けは3人で済ませており、今はデザートの時間である。大人2人はワインで、トレイシーはホットミルクである。2日前に焼いて寝かせておいたドライフルーツ入りのケーキはとても好評で、ジャックは2人の笑顔が嬉しくて、だらしなく笑った。
居間のソファーにジャックと並んで座っているトレイシーが、ちょんちょんとジャックのシャツを軽く引っ張った。
「ねぇねぇ。ジャックお兄ちゃん」
「ん?」
「明日はジャックお兄ちゃんもお休みなんでしょ?お泊りしてよ。明日の朝ご飯も一緒に作りたいわ」
ジャックはきょとんとして、チラッとモーリスの方を見た。モーリスが両手を合わせて、拝むようにしている。まぁいいか、と思い、ジャックは笑って頷いて、トレイシーの頭をやんわりと撫でた。パァッと笑顔になったトレイシーにねだられて、トレイシーがお風呂に入って寝る時間まで、3人でボードゲームをして遊んだ。こんな風に遊ぶのは久しぶりだ。ジャックは楽しくて、ご機嫌にずっと笑っていた。
トレイシーが寝る時間になり、自分の部屋に引き上げた。明日の朝食は、ふわふわのオムレツとチーズたっぷりのサンドイッチを一緒に作ると約束した。モーリスがトレイシーを部屋まで送っている間に、ジャックはチビチビとワインを飲んだ。
なんだか本当に楽しい。こうして賑やかに誰かと過ごす楽しさを久しく感じていなかった。こういう日がずっと続けば嬉しいのだが、トレイシーがモーリスの家にいるのは期間限定だと聞いている。あとどれ位こんな素敵な時間を過ごせるのだろうか。
ジャックは全力隠れのゲイだから、自分の家族をもつことを完全に諦めている。それでも、こうして楽しい時間を過ごすと、自分の家族が欲しいなぁと思ってしまう。一緒に食事をして、一緒に笑いあって、たまに喧嘩をしたとしても仲直りをして、また笑って。そんな小さな幸せを共有してくれる誰かがいてほしいと、ついつい思ってしまう。
ジャックはワイングラスに口をつけたまま、小さく溜め息を吐いた。叶うことのない夢だ。今はきっと、夢の片隅にいるのだろう。今だけの幸せを楽しむことしか、ジャックにはできない。
好きな人を好きだと言えない自分が悪いのだ。
モーリスは全然ジャックの好みじゃないけど、一緒にいると本当に楽しい。特別な何かがあった訳じゃない。ただ、一緒に料理を作ったり、一緒に食べて『美味しい』って笑っているだけだ。多くの人にとっては当たり前の何でもないことだが、ジャックにとっては、なんだか心が温かくなる大事な時間だ。
ぼんやーり自覚しているような気がするが、多分、ジャックはモーリスのことが好きなのだろう。飄々としていて、身なりに頓着してなかった癖に真面目なところとか、トレイシーの為に頑張ってるところとか、面白みのない男であるジャックと一緒に本当に楽しそうに笑ってくれるところとか。モーリスと過ごす時間が増えれば増える程、じわじわと少しずつジャックの心の中にモーリスが入ってくる。
マズいなー、と思う。ゲイだという噂はあるが、モーリスが本当にゲイだとは限らないし、何より、仮にゲイだとしても、ジャックみたいな地味で料理くらいしか取り柄のない男をモーリスが選ぶ筈が無い。どうあっても失恋確定である。モーリスはジャックよりも10歳以上年上だから、尚更ジャックみたいな青二才は選ばないと思う。
飲み慣れないワインを飲んで酔いが回ってきたジャックは、隙間風が吹き始めた心を庇うように、靴を脱いでソファーの上でお山座りをした。
モーリスの兄は、去年トレイシーの母親と離婚をして、割と最近再婚した。トレイシーはモーリスの兄が引き取ったが、トレイシーと新しい母親は相性が悪かったらしく、上手くいっていない。兄は仕事が忙しいから、トレイシーの相手を全くしてやれない。新しい母親が妊娠したこともあって、トレイシーは家の中でどんどん居場所が無くなっていき、モーリスがたまたま実家に帰った時には、自分の部屋に引き篭もって外に出ようとはしなくなっていた。食事も中々取らなくなっていて、前に会った時よりも随分と痩せてしまっていた。
新しい母親に殴る蹴るなどの暴行をされている訳でないが、存在を無視されたり、トレイシーにも聞こえるようにトレイシーやトレイシーの母親の悪口を言われたりと、虐待ともとれることをされていた。何も話したがらないトレイシーから聞けるだけ話を聞いて、モーリスはトレイシーを引き取ることを決めた。
モーリスの兄にその事を話せば、兄は渋い顔をした。『トレイシーは俺の娘だし、外聞が悪い』と。それでもトレイシーの現状を訴えると、渋々ではあるが、一時的にモーリスがトレイシーを預かることに同意した。『今は妻もトレイシーもお互いに慣れていないだけだ。少しの間離れたら、関係はよくなるだろう』と言う兄の脳みそお花畑ぶりに正直呆れたが、モーリスは何も言わなかった。
本当はその日のうちにトレイシーを自分の家に連れて帰りたかったが、モーリスの家は荒れ放題で子供が過ごせる環境ではなかったし、家政婦兼子守りの手配や自分の仕事もある。タイミングが悪いことに、どうしてもやらなくてはいけない責任の重い任務の予定も入っていた。モーリスは仕方がなく、あと2ヶ月だけトレイシーに耐えてもらうことにした。トレイシーと、あと2ヶ月したら一緒に暮らそうと約束をしたら、トレイシーがほっとしたように泣いた。
モーリスの家に来ても、トレイシーの顔は晴れなかった。モーリスが覚えたばかりの手料理を振る舞うと、きょとんと驚いた顔をして、いつもより少しだけ多く食べてくれたが、笑うことはなかった。
それが今は楽しそうに無邪気に笑っている。ジャックがいつものように料理を教え始め、初めてのことでオロオロするトレイシーを然りげ無く手伝い、上手く褒めて、とても楽しそうに笑っている。最初は戸惑っていたトレイシーも、そうしないうちに、ジャックが笑うと小さく笑うようになり、本当に楽しくなってきたみたいで、早くもジャックに懐いて、一緒に初めてのクッキー作りに笑顔で挑戦している。
ジャックに料理教室を頼んだ自分を褒めてやりたくなるくらい、トレイシーが楽しそうだ。
ジャックに料理を教えてくれるように頼んだのは、一昨年くらい前にあった軍の祝賀会か何かで、たまたまジャックと少しだけ話すことがあり、その時に料理が趣味だと聞いていたからだ。事務手続きをする為に昼時に事務室を覗いた折、手製だと思われる弁当を食べているところも見たことがある。モーリスの身近には、自分で料理をする者がいなかった。チラッと見たことがあるジャックの弁当は、素朴な家庭料理といった感じで、モーリスにはあまり縁がなかった雰囲気のものだった。素直に、美味そうだなと思った。
トレイシーを引き取ると決めた時、トレイシーの為に自分が何をしてやれるだろうかと考えた。その時に、ふと、ジャックの弁当が頭に思い浮かんだ。素朴で温かい雰囲気の美味しい手料理を作ってやれたら、トレイシーが喜んでくれるのではないかと思った。
モーリスはゲイだ。その事は軍内で広く噂になっている。事実なので、わざわざ否定もしなかった。時折、男の恋人がいたし、もう少し若い頃は一晩だけの遊びもよくしていた。軍内ではモーリスを露骨に避ける者もいる。ゲイは気持ち悪くて近寄りたくもない存在らしい。ジャックもそうだったら少し嫌だな、と思いながら、モーリスはジャックに声をかけた。
ジャックは毎回真剣かつ丁寧に、なによりとても楽しそうに料理を教えてくれる。手書きの料理ノートは分かりやすく、妙に上手いイラスト付きで細かいことまで書いてあり、後からノートを見ながら復習することもできる。教え方も分かりやすいし、褒めて伸ばすタイプなのか、本当にささいなことで然りげ無く褒めてくれる。モーリスは今年で39歳になる。この歳で人から褒めてもらえることなんて殆どない。上っ面だけのおべっかはあるが、純粋に少しの成長を褒めてもらえることなんてない。子供の頃から、モーリスはあまり人に褒められることが無かった。どれだけ勉強を頑張っても、どれだけ鍛錬を頑張っても、できて当然のことだし、できなかったら努力が足りない怠け者だと言われていた。ジャックに褒めてもらえると、どうにも胸の奥がむずむずして落ち着かない。
型抜きを終えて、魔導オーブンの前でクッキーが焼きあがるのを楽しそうにトレイシーと眺めているジャックを見て、モーリスはふと思った。自分があと10歳若かったらよかったのに。そうしたら、きっと躊躇いもなくジャックのことを好きになっていた。モーリスが大事に思っているトレイシーを笑わせてくれて、モーリスのことも嬉しくさせてくれて、一緒に笑ってくれる。きっと、ジャックともっと一緒に過ごせたら、もっと楽しくて、もっと笑っていられる筈だ。
モーリスは楽しそうにお喋りをしているジャックの後ろ姿をじっと見つめて、小さく苦く笑った。
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ジャックはトレイシーと一緒にシチューを作っていた。モーリスの姪トレイシー初参加の料理教室で、どうやらとても懐かれたらしく、『また一緒にお料理がしたい!』と強くねだられた。モーリスに頼まれたし、ジャックもモーリスとトレイシーと一緒に料理をするのが本当に楽しかったので、喜んで快諾した。
モーリスから、『申し訳ないが、自分がいない時にも来てもらえると嬉しい』と言われたので、モーリスが仕事で不在の日も、自分が休みの日にはモーリスの家にお邪魔している。
トレイシーは小柄で痩せた女の子だ。鮮やかな赤い髪が可愛らしく、利発そうな緑色の瞳はモーリスとよく似ている。とても真面目で、いつも楽しそうにジャックと一緒に料理をしてくれるし、手先が器用で飲み込みが早いので、大変教え甲斐があって、ジャックもすごく楽しい。トレイシーは、モーリスが溺愛するのがとてもよく理解できる可愛い女の子だ。
シチューを煮込んでいる間に、胡桃入りのパンケーキを焼く。胡桃入りのパンケーキは、モーリスの好物らしい。トレイシーに作りたいとねだられたので、ジャックは笑顔で頷いた。
胡桃割りで胡桃を割るのは流石にトレイシーでは無理なので、ジャックがやる。その間に、トレイシーには小麦粉などの計量をしてもらった。真剣な顔できっちり丁寧に計量し終えたトレイシーが、ジャックを見上げて、にぱっと笑った。
「できたわ!」
「ありがとう。こっちももう少しで終わるよ」
「胡桃、1個だけ食べていい?」
「いいよ」
「んふっ。美味しいわ。おじ様、喜んでくれるかしら」
「絶対に大喜びするよ。抱っこしてぐるぐるは居間でやってもらわなきゃ。こないだみたいに台所でされるのはちょっとね」
「私、もうちっちゃい子じゃないのに、おじ様ってば、いつも抱っこでぐるぐるするのよ」
「モーリス部隊長はトレイシーちゃんが大好きだから、しょうがないね」
「私はもうレディーなのに」
「ははっ。可愛いレディー。胡桃が割れたから、混ぜて焼いていこうか」
「えぇ!ふふっ。今夜の晩ご飯も素敵だわ!」
「ははっ。レディー。デザートにケーキを持ってきてるよ」
「本当!?ドライフルーツのやつ?」
「正解」
「やったわ!私ジャックお兄ちゃんのケーキ大好き!!最高の晩ご飯ね!おじ様、早く帰ってこないかしら」
「早く帰ってくるといいね」
うきうきとしているトレイシーが可愛くて、思わず頬がゆるむ。ジャックはトレイシーの頭をやんわりと撫でた。
踏み台に乗ったトレイシーと一緒にパンケーキを焼き、夕食として作った料理が全て完成したら、2人で紅茶を飲みながらモーリスの帰りを待つ。
モーリスはトレイシーが一緒に住み始めてから、できるだけ早く帰るようにしているらしい。忙しい隊長職なので、持ち帰ることができる仕事は家に持ち帰り、トレイシーが寝た後にやっているのだとか。トレイシーがモーリスと一緒に暮らし始めて、そろそろ1ヶ月半くらいである。最近、ちょっとモーリスが疲れているような気がする。トレイシーといる時は輝くような笑顔だが、職場で見かけると、なんだか草臥れた雰囲気である。トレイシーはそんなに手がかかる歳ではないが、それでも子供がいる生活は気を使うのだろうし、仕事もきっと大変なのだろう。なんだかちょっとモーリスが心配になる。
今日はトレイシーと一緒に、モーリスが好きな胡桃入りのパンケーキと、栄養価が高い野菜たっぷりのシチューを作った。モーリスが喜んで、少しでも元気になってくれるといい。
ジャックはトレイシーと次に作る料理の話をしながら、モーリスの帰りを待った。
日が暮れた頃にモーリスが帰ってきた。モーリスは帰ってくると真っ先にトレイシーを抱っこして、トレイシーの頬にキスをする。頬擦りをした時にトレイシーが嫌がるからと、最近は毎日髭を剃っている。初めて無精髭がないモーリスを見た時は、素で『どなたですか?』と言ってしまったくらい、髭がないだけで印象が変わる。素直に格好いい男前だ。いつ見てもボサボサだった髪もきちんと整髪剤を使って後ろに撫でつけて整えており、本当に誰だよ状態なくらい男前である。こういう大人の男になりたいなぁと思っちゃうくらい格好いい。
トレイシーが嫌がるくらい頬にキスをしまくったモーリスが、トレイシーを抱っこしたままジャックの方を見た。ニッと笑って、モーリスが口を開いた。
「ありがとな。ジャック」
「いえ。トレイシーちゃんが今日もすっごく頑張って美味しいご飯を作ってくれましたよ」
「本当か!ありがとう!トレイシー!俺の天使!!」
「おじ様。ちゅーはもういいわ。ジャックお兄ちゃんとご飯を温めてくる」
「お。そうか。じゃあ、すぐに着替えてくる」
「えぇ」
嬉しそうな満面の笑みで、モーリスがトレイシーを下ろし、いそいそと自室がある2階へと向かった。それを見送り、ジャックはトレイシーと一緒に台所へと移動した。
モーリスがそれはそれは美味しそうにジャックとトレイシーが作った料理を平らげ、ご機嫌な様子でワインのボトルを開けた。明日は休日なので、少しだけ飲むらしい。ジャックも勧められたので、少しだけワインを飲むことにした。先に夕食の後片付けは3人で済ませており、今はデザートの時間である。大人2人はワインで、トレイシーはホットミルクである。2日前に焼いて寝かせておいたドライフルーツ入りのケーキはとても好評で、ジャックは2人の笑顔が嬉しくて、だらしなく笑った。
居間のソファーにジャックと並んで座っているトレイシーが、ちょんちょんとジャックのシャツを軽く引っ張った。
「ねぇねぇ。ジャックお兄ちゃん」
「ん?」
「明日はジャックお兄ちゃんもお休みなんでしょ?お泊りしてよ。明日の朝ご飯も一緒に作りたいわ」
ジャックはきょとんとして、チラッとモーリスの方を見た。モーリスが両手を合わせて、拝むようにしている。まぁいいか、と思い、ジャックは笑って頷いて、トレイシーの頭をやんわりと撫でた。パァッと笑顔になったトレイシーにねだられて、トレイシーがお風呂に入って寝る時間まで、3人でボードゲームをして遊んだ。こんな風に遊ぶのは久しぶりだ。ジャックは楽しくて、ご機嫌にずっと笑っていた。
トレイシーが寝る時間になり、自分の部屋に引き上げた。明日の朝食は、ふわふわのオムレツとチーズたっぷりのサンドイッチを一緒に作ると約束した。モーリスがトレイシーを部屋まで送っている間に、ジャックはチビチビとワインを飲んだ。
なんだか本当に楽しい。こうして賑やかに誰かと過ごす楽しさを久しく感じていなかった。こういう日がずっと続けば嬉しいのだが、トレイシーがモーリスの家にいるのは期間限定だと聞いている。あとどれ位こんな素敵な時間を過ごせるのだろうか。
ジャックは全力隠れのゲイだから、自分の家族をもつことを完全に諦めている。それでも、こうして楽しい時間を過ごすと、自分の家族が欲しいなぁと思ってしまう。一緒に食事をして、一緒に笑いあって、たまに喧嘩をしたとしても仲直りをして、また笑って。そんな小さな幸せを共有してくれる誰かがいてほしいと、ついつい思ってしまう。
ジャックはワイングラスに口をつけたまま、小さく溜め息を吐いた。叶うことのない夢だ。今はきっと、夢の片隅にいるのだろう。今だけの幸せを楽しむことしか、ジャックにはできない。
好きな人を好きだと言えない自分が悪いのだ。
モーリスは全然ジャックの好みじゃないけど、一緒にいると本当に楽しい。特別な何かがあった訳じゃない。ただ、一緒に料理を作ったり、一緒に食べて『美味しい』って笑っているだけだ。多くの人にとっては当たり前の何でもないことだが、ジャックにとっては、なんだか心が温かくなる大事な時間だ。
ぼんやーり自覚しているような気がするが、多分、ジャックはモーリスのことが好きなのだろう。飄々としていて、身なりに頓着してなかった癖に真面目なところとか、トレイシーの為に頑張ってるところとか、面白みのない男であるジャックと一緒に本当に楽しそうに笑ってくれるところとか。モーリスと過ごす時間が増えれば増える程、じわじわと少しずつジャックの心の中にモーリスが入ってくる。
マズいなー、と思う。ゲイだという噂はあるが、モーリスが本当にゲイだとは限らないし、何より、仮にゲイだとしても、ジャックみたいな地味で料理くらいしか取り柄のない男をモーリスが選ぶ筈が無い。どうあっても失恋確定である。モーリスはジャックよりも10歳以上年上だから、尚更ジャックみたいな青二才は選ばないと思う。
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