何気ない幸せを貴方と

丸井まー(旧:まー)

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1:はじまりはじまり

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就業時間が終わり、ジャックが帰り支度をして職場から出ると、門を出た所で、第三部隊隊長のモーリスに声をかけられた。
ジャックは軍で事務員をしている。茶髪茶目で、不細工ではないが地味な顔立ち、中背中肉の身体、洒落っけのない黒縁の眼鏡をかけていることも相まって、非常に地味な見た目の26歳である。ちなみにゲイだ。カミングアウトをしていない全力隠れのゲイだ。恋人なんていたことがないし、全力隠れなのでゲイ向けのエロ本すら買ったことがないチキンである。出会いを求めてゲイが集まるというバーやゲイ向け風俗に行くのも無理である。
ゲイだとカミングアウトするつもりはない。ゲイに対する風当たりは強いし、特に職場に知られたら面倒なことになる。軍は基本的に男所帯だ。罵倒語として「ゲイ」や「ホモ」という言葉が使われている時点で察してほしい。それに、男なら誰でもいい訳ではない。ジャックにだって好みがある。それなのに、男なら誰でもいいんだろうみたいな風に言われるのは非常に不快だし、今親しくしている人達に避けられるのは心底嫌だ。

声をかけてきたモーリスは、無精髭が標準装備のオッサンである。歳は多分40前後だろう。飄々とした感じの人で、顔立ちはそこそこ整っている方だと思う。だらしなくて小汚い無精髭が無ければ、それなりにモテそうな顔をしている。バリバリの軍人だから、身体は逞しく鍛えられていて、軍服がよく似合っている。赤茶色の髪はボサボサで、正直整えろよと思うが、鮮やかな緑色の瞳はキレイだなと思う。噂では、ゲイらしい。

モーリスとは仕事で普通に話すだけの関係だ。何故、勤務時間外に声をかけてきたのだろうか。ジャックが心の中で首を傾げていると、モーリスが、パンッと両手を打ち合わせて、拝むような仕草をした。


「ジャック。突然で悪いが、俺に料理を教えてくれねぇか」

「はい?」

「ジャックは料理が趣味なんだろ?確か、前にデカい飲み会かなんかの時に話してたよな」

「あ、はい。そうです」

「色々と事情があって、料理を覚えてぇんだ。とはいえ、街の料理教室には通いにくい。俺は勤務が不規則だから、定期的に行われる授業に出るのは無理だ」

「はぁ……」

「タイミングが合った時だけで構わないから、俺に料理を教えてくれねぇか?勿論、謝礼はする」

「えーと……」


ジャックは少し困った。確かにジャックは料理が趣味だが、人に教えられる程上手い訳ではない。それに、ゲイと噂があるモーリスと頻繁に会うとなると、どうしても人目が気になる。
どう断ろうかとジャックが考えていると、モーリスが制服の胸ポケットから小切手を取り出して、サラサラとその場で書き、ジャックに手渡した。ジャックは小切手に書かれた金額を見て、思わず吹き出した。


「50万!?」

「あ、トータルじゃねぇよ。1回の授業料な」

「はぁ!?いくらなんでも多過ぎますよ!!」

「あ?そうか?まぁいいだろ」

「いやいやいやいや!!せ、せめて、5000くらいにしましょう!?それでも多いと思いますけども!!」

「じゃあ、5万。これ以上は下げん」

「え、えぇ……」

「マジで料理を覚えたいんだよ。別にプロ級になりてぇ訳じゃねぇ。普通にそこそこ美味い家庭料理が作れるだけの腕になりてぇんだよ」

「は、はぁ……」

「頼むよ。俺が知ってる奴で料理ができそうなのってジャックくらいなんだわ」

「………わ、わかりました」

「おっ!マジか!!ありがてぇ!助かるぜ!」


モーリスが顔を輝かせて、嬉しそうにニッと笑った。


「ジャックは明後日が休みだろ?俺もその日は休みだからよ。早速頼んでいいか?」

「あ、はい。あの、ちなみに、料理はどのくらいできますか?」

「お湯を沸かして、珈琲は淹れられる」

「はい」

「以上だ」

「…………はい?」

「全くやったことがないと言ってもいい。俺の実家は金持ちだったから料理は使用人がしてたし。軍に入ってからは、食堂で食うか外食しかしてねぇ。任務の時は、基本的に携帯食料ばっかだし」

「えっと、では、お家には鍋とかは……」

「ねぇな。ヤカンとカップと珈琲淹れる道具しかねぇ」

「マジですか」

「おぅ。だから、料理に必要なもんを揃えるのも手伝ってくれ」

「……分かりました。では、午前中に買い物に行きましょう。最低限必要なものを揃えないといけませんから」

「おぅ。当然支払いは俺だ。悪いが付き合ってくれ」

「はい。調理器具の使い方を覚えられるような、ものすごく簡単な料理から始めましょう」

「頼んだ。じゃあ、明後日な。そうだな。ジャックは単身用の官舎住まいだろ?朝の9時に迎えに行く」

「あ、はい」

「じゃあな。『先生』」


ニッと笑って、モーリスが手をひらひらと振って、軍の建物の中に入って行った。これからまた仕事なのだろうか。もしかして、わざわざ門の所でジャックを待っていたのだろうか。事情とは一体何だろう。モーリスは部隊長だから高収入だが、それにしたって1回の授業料に50万を気軽にポンと出そうとするなんて、余程の理由があるのだろう。事情とやらを聞いても大丈夫なのか、悩ましいところだ。
モーリスの勢いに押されて料理を教えることになってしまった。ジャックは小さな子供の頃から母の手伝いをして自然と料理の基礎を覚えたので、全く料理をやったことがない人がどこから分からないのかが分からない。
ジャックは眉間に皺を寄せて考えながら歩き、住まいである独身用軍官舎の途中にある本屋に立ち寄って、その店で一番初心者向けの料理本を購入した。




------
第一回料理教室の日がやって来た。ジャックは調理器具の名称や使い方から載っている初心者向けの料理本を参考に、必要な調理器具や調味料、今日挑戦するメニューに必要な食材をリストにして、真っさらなノートに書き出した。ついでに、今日のメニューの作り方やポイントも書いてみた。今日のメニューは、目玉焼き、レタスとトマトのサラダ、ハムとチーズのサンドイッチである。とにかく子供でも作れるような簡単なもので、尚且つ一応火や調理器具を使うものを選んだ。そして、できるだけ失敗しにくいものを。初回で派手に失敗してしまったら、その後のモチベーションの低下に繋がる。ちょこっと失敗したけど、概ね上手くいった、くらいの結果にしたい。ジャックはやると決めたら何でも真面目に取り組む方である。5万という高い報酬を貰う以上、しっかりとモーリスが料理を作れるようにしなければいけない。
ほぼ徹夜で完全に資料のような書き込みびっしりのノートを作り、ジャックはやる気満々でモーリスが訪れるのを待った。
モーリスは別にジャックの好みではない。ジャックの好みは、線の細い優しくておっとりした感じの一緒にいて落ち着くような雰囲気の人だ。更に言えば、少し年下の方がいい。笑顔が和むおっとり美人が理想である。モーリスはジャックの好みとは全然違う。ゲイだという噂があるが、あくまで噂は噂だ。あんまり当てにならない。モーリスは出世が早い方だったらしいから、やっかみもあるのだろう。モーリスはジャックがうっかり好きになってしまう要因が全然ない人だから、安心して料理を教えられる。そういえば、誰かと一緒に料理をするなんて、母が亡くなって以来かもしれない。
ジャックはなんだか少しテンションが上がって、玄関の呼び鈴が鳴るまでに、更にノートの書き込みを増やした。

まずは、私服のモーリスと一緒に調理器具など必要なものを買いに行く。重いものも沢山買わなければいけないが、筋肉だるまと称してもいい程逞しいモーリスと、一応成人男性としては人並みに力があるジャックの2人なので、多分大丈夫だろう。2人でモーリスの家まで運べない場合は、店の者に配達を頼めばいい。
モーリスは今日も安定のぼさぼさ頭とだらしない無精髭だった。ピッタリとした黒い襟なしのシャツに、ポケットがいくつもあるカーキ色のゆるめのズボンと軍用ブーツを履いている。太い首にチラッと見えているのはドッグタグだろう。お洒落をしたら、きっとかなり男前になりそうなのに。なんだか勿体無い気がする。
頭半分背が高いモーリスを見上げながら、ジャックは思い切って、気になっていたことをモーリスに聞いた。


「モーリス部隊長。差し支えなければ、料理を覚える事情を聞かせてもらってもいいですか?」

「あ?あぁ。再来月から暫く姪っ子を預かることになったんだわ。まぁ、家庭の事情ってやつ。長くても多分半年くらいだろうが。その間だけ家政婦兼子守りを雇う予定なんだが、どうせなら姪っ子に良い所見せてぇだろ。俺の姪っ子はマジで天使だし。『おじ様格好いい!』って言われてぇ」

「はぁ……姪っ子さんはおいくつですか?」

「今年で8歳。めちゃくちゃ可愛いんだぞ。嫁にはやらん」

「メロメロじゃないですか」

「メロメロだな。トレイシーを預かる間は、遠征や長期任務には出ない。どうせ期間限定だしな」

「なるほど。それなら、いっそ姪っ子さんが来られたら姪っ子さんと一緒に料理をされてはどうですか?誰かと一緒に料理をするのって楽しいですし、姪っ子さんも喜ばれるんじゃないでしょうか」

「採用。素晴らしいぞ。ジャック」

「ありがとうございます?」

「兄貴は実家を継いでて、まぁ金持ちだ。使用人がいるから、トレイシーも台所に入ったことすらない。新鮮で楽しんでもらえるかもな」

「モーリス部隊長のご実家って、ガチのお金持ちなんですか?」

「シャンデラ商会って知ってるか?」

「はい。あの色んな事業を手広くやってる国有数の大きな商会ですよね」

「俺はそこの次男だ」

「…………は?え?え?モーリス部隊長って、家名は確かダランディーオじゃなかったですか?」

「それは母親の実家の家名。軍に入る時に色々あってな。ずっとダランディーオで通してる。シャンデラ商会の家の人間って知られると、ちと面倒でな。まぁ、上層部は流石に知っているが、一応隠してはいる」

「………それ、僕が知ったらマズいやつじゃないんですか?」

「はっはっは」

「ちょっとマジで勘弁してくださいよぉ!!知っちゃヤバいこと知っちゃったじゃないですかぁ!!」

「まぁ、口外はしないでくれよ」

「絶対しません!!墓まで持っていきます!!」

「いや、そこまでしなくてもいいぞ」

「いえいえいえいえ!誰にも絶対死んでも言いませんっ!!言ったら何かヤバいことになりそうな気がしますっ!!」

「ははっ」


サラッと心臓に悪いことを言うのはやめてほしい。ジャックは普通にチキンな小市民なのだ。
若干痛みだした胃のあたりを押さえて、ジャックはモーリスをリーズナブルだけどしっかりとした調理器具を扱っている店へと案内した。

店をハシゴして必要なものを買い揃え、ジャックは大荷物を抱えてひぃひぃ言いながらモーリスの家へと向かった。ジャックよりも重いものを沢山持っているのに、モーリスは平然とした顔をしている。筋肉か。筋肉の力か。自分がムキムキマッチョになりたいと思ったことはないが、ちょっとだけ筋肉が羨ましくなる。
モーリスの家は高級住宅街と一般住宅街のちょうど境目辺りにあった。ギリギリ一般住宅街になる。そこそこ大きな2階建ての家で、結構広い庭がある。庭は雑草だらけで、なんだか勿体無い気がする。広さ的に家庭菜園が楽しめそうな庭なのに。
玄関から家の中に入ったモーリスに続き、ジャックもモーリスの家に入った。本人が小汚い格好をいつもしているから、正直家も小汚いんだろうなぁと思っていたが、そんなことは無かった。家具は必要最低限といった感じで、キチンと掃除がされているのか、埃臭さは全然ないし、床や棚の上などを見ても埃がある様子はない。
モーリスの家の台所は広くてキレイで、使っている様子が無かった。ジャックは台所に入るなり、ぎゅーんっとテンションが上がった。大きな魔導冷蔵庫に、3口もある魔導コンロ、シンクは広く、まな板などを使うスペースも広い。店頭で見たことしかない最新式の魔導オーブンまである。収納スペースもしっかりとあり、今日買った調理器具や調味料類だけでは余裕でスペースが余るくらいだ。なんて素敵な台所なんだろう。こんなに広々として機能的な台所は初めて見た。
ジャックが住んでいる軍官舎の台所はとても狭くて、魔導コンロは1口しかないし、魔導冷蔵庫は小さいものしか置けず、魔導オーブンもだいぶ型が古いものを使っている。実家もそんなに大きくない集合住宅だったので、モーリスの家の台所は、ジャックにとってはまさに夢見ていたような素晴らしい台所だ。

ジャックはいそいそと台所中を全て見て回り、モーリスと相談しながら、今日は使わない調理器具などを収納した。既にかなり楽しい。ジャックは片付けが終わると、今日使うものを台所のテーブルの上に置いた。そう。台所にテーブルがあるのである。それもそこそこ大きなものが。食卓ではない。食卓は別の部屋にあるらしい。どんだけ広いんだ。一軒家だとこれが普通なのだろうか。

買ったばかりのエプロンを着けたモーリスを見上げ、ジャックは拳を握った。


「それでは始めましょう!!モーリス部隊長!」

「おう。よろしく頼むわ」

「はいっ!」


楽しい料理教室の始まりである。





------
ジャックはご機嫌に鼻歌を歌いながら、軽やかな足取りでモーリスの家に向かっていた。今日で4回目の料理教室である。初回はとことん簡単なメニューにしたお陰で、そこそこ成功した。モーリスが卵を握り潰したり、軍用ナイフでハムやパンを切ろうとするのを止めて包丁を使わせたり、と細々としたことはあったが、モーリスは真剣に料理ができるようになりたいらしく、基本的にすごく真面目にジャックの説明を聞いて、実践してくれた。その後の料理教室でも、毎回すごく真剣に取り組んでくれているので、非常に教え甲斐があって楽しい。先週、いよいよモーリスの姪がやって来た。今回は、モーリスの姪が大好きだという鶏肉のクリーム煮とクッキーを作る予定である。

ジャックはここ最近とても浮かれている。3年前に母が亡くなって以来、誰かと一緒に料理を作って、一緒に食べるということが無かった。友達は普通にいるが、友達と遊ぶ時は基本的に外食で、ジャックが手料理を振る舞うことはない。それに、友達は皆もう結婚している。独り身なのはジャックだけになってしまった。皆それぞれ家庭があるので、友達同士で集まって遊ぶことも殆ど無くなっている。極々たまに酒を飲みに行くくらいのものだ。
父は15年前に母と離婚をしており、ジャックは父とも2つ下の妹とも、離婚の時以来会っていない。

誰かと一緒に料理を作って、『美味しい』って言いながら笑って食べるなんて、本当に久しぶり過ぎて、浮かれるなという方が無理な話である。ただ単にモーリスに料理を教えてほしいと頼まれたからやっていることだが、モーリスはとても熱心な生徒だし、ジャックと一緒に作る料理を毎回『美味い』と笑って食べてくれる。それが嬉しくて堪らない。『これを作ってやったら、トレイシーが喜びそうだ』と嬉しそうに笑うモーリスを見るのも、なんだか嬉しい。
ジャックとモーリスの休みは中々合わないが、ジャックは毎回次の料理教室を心待ちにしている。コツコツ書き溜めていた手書きのレシピ集を引っ張り出してきたり、本屋で良さそうな料理本を見つけたら買って熟読して、実際に作ってみたりしている。

ジャックは今日も書き込みびっしりのメニューノートを作ってきた。絵も書いているからだろうが、ノートはこれで2冊目になる。
ジャックはいそいそとモーリスの家の玄関の呼び鈴を押した。


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