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第一部
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がさがさがさがさっ
それすらも幻想的空間を作り上げる要素の一つであった静寂を壊すような音が響き渡った。
ハッと現実に引き戻される。
どれほど立ちつくしていたのだろうか。
時間の確認のために空を見上げる。中天にあった月はその場所を少しだけ変えていた。
思ったより時間はた経っていないようだ。
しかし、明日(いや、もう今日か)も仕事であるから、もう戻らなくては不味いし、何より今の物音が気になる。
生き物が草をかき分けて進むような、そんな音だ。
そこまで音が大きく聞こえないため、おそらくまだ離れたところにいるのだろう。
しかし音は未だ続いているし、少しずつ、確実にこちらに近づいてきている。
獣か、人か
どちらにせよ不味い。
獣の対処の仕方などろくに知らないし、はぐれ魔獣だった場合は最悪食われて死ぬ結果になる。
はぐれ魔獣が恐れられているのは、人を喰らうからだ。
食われて死ぬのは勘弁してもらいたいし、仮に獣でなく人であっても厄介だ。
こんな時間に一人で森にいる篤美が言えたものじゃないが、この時期にこんな真夜中に森の中にいるなんて普通じゃない。
近隣の住民は基本的に農耕を主たる生業としているため、狩りを行うのは冬間近の時期からだ。
今はもうすぐ夏に入ろうという季節。狩りの季節ではない。
しかも、森ははぐれ魔獣が出る山と近接しているため、実は昼間でも近隣の人間は近寄らない場所であったりする。
ということは、今この森にいるであろう人間は厄介な存在である可能性が極めて高いことになる。
今さらながら、こんな所にほいほい入ってしまった自分の抜け作っぷりに後悔しか湧き起こらない。
できるだけ物音を立てぬよう、慎重にそろそろとその場を離れる。
美しい幻想的な空間に後ろ髪を引かれる思いはするが、それ以上に面倒な状況に陥りたくはない。
篤美は穏やかな余生を過ごすために、この街へと来たのだ。
この世界に召喚されたことだけでもう一生分の面倒を抱えてしまったようなものなのだから、これ以上、危険とも面倒事とも関わりたくないのだ。
月の角度が変わったからか、来る時よりあきらかに視界が悪くなってはいたが、幸い方向感覚はしっかりしているし、歩きやすいよう下草を踏み分けて歩いてきたので、なんとか帰りの道は分かる。
音は確実に先ほどまでいた場所に近づいてきている。
焦り駆けたくなる気持ちを押し殺し、慎重に歩みを進める。
焦りのあまり走って、道を間違えた挙げくに森の中で迷う羽目にだけはなりたくない。
(冷静になるのよ、私。クールよ、クール)
自分に言い聞かせながら、下草をかき分け、枝や蔓を手で除けて進む。
後ろから小さく聞こえる、がさがさっという音以外は自分の呼吸音しか耳に入らない。
自分の呼吸音がやけに大きく感じ、もしかしたら後ろのナニカに気づかれるのではないか、と意識的に呼吸を細くする。
そうこうしているうちに、木々の間からちらちらと開けた空間が見えた。
道だ。
少しだけ歩くスピードを早め、最終的に飛び込むようにして道に躍り出る。
目の前に広がる畑と月明かりに照らされた家々の様子に、ほっと息をつく。
後ろで聞こえていた音はもうほとんど聞こえなくなっていた。
ただ、木々が風で揺れ、葉どうしが擦れ合うさわさわという音しか聞こえない。
ナニがいたのかは定かではないが、とりあえずは回避できたのだろう。
しかし、油断はできない。あの幻想的な場所は、道からそう離れてはいなかった。
森からナニカが出てくる可能性も捨てきれない。
篤美は急ぎ足で帰路についた。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐
暑苦しい熱気と喧騒に包まれたガディの店の中。
今日も今日とて、篤美は店の中をくるくると泳ぐように滑るように軽快に動き回っていた。
酔っぱらい達を軽くあしらい、注文を取り、酒や料理を運ぶ。
時折、常連達の会話に混じり、冗談を言って一緒に笑う。
しかし、笑うその顔には、目の下に薄らと隈があった。
……結局、無事帰りついた後も、あの目に焼きつくような森の幻想的な光景と、森にいたナニカが気になり、ほとんど眠れなかったからだ。
寝不足で重たい身体を、そうと分からぬように軽快に動かし、笑顔を振る舞う。
この年になると、ちょっと不摂生な生活をしたり、長時間日光の下にいたりすると、すぐに隈だのシミだの皺だのができてしまうのだが、手入れしようにも元の世界にあったような化粧水なんてものは無きに等しいようなものである。
元の世界でなら、このような薄い隈ならコンシーラーとファンデーションで十分ごまかせたが、ここではそうはいかない。
一応、化粧品も白粉だの口紅だのがあるが、明らかにカバー力が劣り、基本的に娼婦時代以外はすっぴんで通していた。
こちらの世界に来たばかりの頃は、それまでの長期的努力のおかげで若々しい肌をしており、大きくサバを読んで20代ということにしても何の疑問も抱かれなかったが、今ではすっかり草臥れ(嫌な表現だ……)、こちらの世界の人間に比べて幼く見える顔立ちであるということを差し引いても、十分本当の年齢に近く見られるようになっていた。
しかし、無理に若づくりしてキャピキャピ振る舞わなければならなかった頃より、年相応に振る舞える今の方がはるかに生きやすかった。
(正直ここで若づくりしたり、色気づいてもね……何にもならないわなぁ)
篤美の年齢だと、女は平均16歳くらいで結婚して子供を生むこの世界じゃ、大年増もいいところだ。
この世界じゃ孫がいたっておかしくない年齢なわけである。
男に媚を売って生活していた娼婦時代(すでに篤美の中では暗黒歴史)を除けば、自然と男女のそれから遠ざかっていった。
元々、着飾る趣味もなければ化粧も礼儀程度にしかしていなかった。
彼氏がいるときはそれなりに気を使ったが、それもすぐに面倒に感じるようになり、徐々に手ぬきになっていくのが毎回のことであった。
何人か付き合った男はいたが、そこまでの縁はなかったのか、結局一度として結婚することなく別れていった。
このまま、一人で気楽に残りの人生を過ごすのも悪くないと思いはじめた頃に召喚されたのだが、その思いは今も変わることはない。
こうして騒がしい店で働いて、常連のオッサン達と馬鹿話して、たまに夜の散歩に行ったりして。
それだけで十分楽しく、残りの人生が過ごせるだろう。
……話がそれたが、結局、昨夜の出来事は誰にも話さなかった。
きっと時間が経てば、ちょっとした冒険譚のようなものになるだろう。
あの時にいたナニカは気にならないといったら嘘になるが、平穏を望む身としては首を突っ込まないのが吉だ。
夜の散歩に行っても、もう森には入らないようにしよう。
そう、忙しく働きながら思った。
それすらも幻想的空間を作り上げる要素の一つであった静寂を壊すような音が響き渡った。
ハッと現実に引き戻される。
どれほど立ちつくしていたのだろうか。
時間の確認のために空を見上げる。中天にあった月はその場所を少しだけ変えていた。
思ったより時間はた経っていないようだ。
しかし、明日(いや、もう今日か)も仕事であるから、もう戻らなくては不味いし、何より今の物音が気になる。
生き物が草をかき分けて進むような、そんな音だ。
そこまで音が大きく聞こえないため、おそらくまだ離れたところにいるのだろう。
しかし音は未だ続いているし、少しずつ、確実にこちらに近づいてきている。
獣か、人か
どちらにせよ不味い。
獣の対処の仕方などろくに知らないし、はぐれ魔獣だった場合は最悪食われて死ぬ結果になる。
はぐれ魔獣が恐れられているのは、人を喰らうからだ。
食われて死ぬのは勘弁してもらいたいし、仮に獣でなく人であっても厄介だ。
こんな時間に一人で森にいる篤美が言えたものじゃないが、この時期にこんな真夜中に森の中にいるなんて普通じゃない。
近隣の住民は基本的に農耕を主たる生業としているため、狩りを行うのは冬間近の時期からだ。
今はもうすぐ夏に入ろうという季節。狩りの季節ではない。
しかも、森ははぐれ魔獣が出る山と近接しているため、実は昼間でも近隣の人間は近寄らない場所であったりする。
ということは、今この森にいるであろう人間は厄介な存在である可能性が極めて高いことになる。
今さらながら、こんな所にほいほい入ってしまった自分の抜け作っぷりに後悔しか湧き起こらない。
できるだけ物音を立てぬよう、慎重にそろそろとその場を離れる。
美しい幻想的な空間に後ろ髪を引かれる思いはするが、それ以上に面倒な状況に陥りたくはない。
篤美は穏やかな余生を過ごすために、この街へと来たのだ。
この世界に召喚されたことだけでもう一生分の面倒を抱えてしまったようなものなのだから、これ以上、危険とも面倒事とも関わりたくないのだ。
月の角度が変わったからか、来る時よりあきらかに視界が悪くなってはいたが、幸い方向感覚はしっかりしているし、歩きやすいよう下草を踏み分けて歩いてきたので、なんとか帰りの道は分かる。
音は確実に先ほどまでいた場所に近づいてきている。
焦り駆けたくなる気持ちを押し殺し、慎重に歩みを進める。
焦りのあまり走って、道を間違えた挙げくに森の中で迷う羽目にだけはなりたくない。
(冷静になるのよ、私。クールよ、クール)
自分に言い聞かせながら、下草をかき分け、枝や蔓を手で除けて進む。
後ろから小さく聞こえる、がさがさっという音以外は自分の呼吸音しか耳に入らない。
自分の呼吸音がやけに大きく感じ、もしかしたら後ろのナニカに気づかれるのではないか、と意識的に呼吸を細くする。
そうこうしているうちに、木々の間からちらちらと開けた空間が見えた。
道だ。
少しだけ歩くスピードを早め、最終的に飛び込むようにして道に躍り出る。
目の前に広がる畑と月明かりに照らされた家々の様子に、ほっと息をつく。
後ろで聞こえていた音はもうほとんど聞こえなくなっていた。
ただ、木々が風で揺れ、葉どうしが擦れ合うさわさわという音しか聞こえない。
ナニがいたのかは定かではないが、とりあえずは回避できたのだろう。
しかし、油断はできない。あの幻想的な場所は、道からそう離れてはいなかった。
森からナニカが出てくる可能性も捨てきれない。
篤美は急ぎ足で帰路についた。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐
暑苦しい熱気と喧騒に包まれたガディの店の中。
今日も今日とて、篤美は店の中をくるくると泳ぐように滑るように軽快に動き回っていた。
酔っぱらい達を軽くあしらい、注文を取り、酒や料理を運ぶ。
時折、常連達の会話に混じり、冗談を言って一緒に笑う。
しかし、笑うその顔には、目の下に薄らと隈があった。
……結局、無事帰りついた後も、あの目に焼きつくような森の幻想的な光景と、森にいたナニカが気になり、ほとんど眠れなかったからだ。
寝不足で重たい身体を、そうと分からぬように軽快に動かし、笑顔を振る舞う。
この年になると、ちょっと不摂生な生活をしたり、長時間日光の下にいたりすると、すぐに隈だのシミだの皺だのができてしまうのだが、手入れしようにも元の世界にあったような化粧水なんてものは無きに等しいようなものである。
元の世界でなら、このような薄い隈ならコンシーラーとファンデーションで十分ごまかせたが、ここではそうはいかない。
一応、化粧品も白粉だの口紅だのがあるが、明らかにカバー力が劣り、基本的に娼婦時代以外はすっぴんで通していた。
こちらの世界に来たばかりの頃は、それまでの長期的努力のおかげで若々しい肌をしており、大きくサバを読んで20代ということにしても何の疑問も抱かれなかったが、今ではすっかり草臥れ(嫌な表現だ……)、こちらの世界の人間に比べて幼く見える顔立ちであるということを差し引いても、十分本当の年齢に近く見られるようになっていた。
しかし、無理に若づくりしてキャピキャピ振る舞わなければならなかった頃より、年相応に振る舞える今の方がはるかに生きやすかった。
(正直ここで若づくりしたり、色気づいてもね……何にもならないわなぁ)
篤美の年齢だと、女は平均16歳くらいで結婚して子供を生むこの世界じゃ、大年増もいいところだ。
この世界じゃ孫がいたっておかしくない年齢なわけである。
男に媚を売って生活していた娼婦時代(すでに篤美の中では暗黒歴史)を除けば、自然と男女のそれから遠ざかっていった。
元々、着飾る趣味もなければ化粧も礼儀程度にしかしていなかった。
彼氏がいるときはそれなりに気を使ったが、それもすぐに面倒に感じるようになり、徐々に手ぬきになっていくのが毎回のことであった。
何人か付き合った男はいたが、そこまでの縁はなかったのか、結局一度として結婚することなく別れていった。
このまま、一人で気楽に残りの人生を過ごすのも悪くないと思いはじめた頃に召喚されたのだが、その思いは今も変わることはない。
こうして騒がしい店で働いて、常連のオッサン達と馬鹿話して、たまに夜の散歩に行ったりして。
それだけで十分楽しく、残りの人生が過ごせるだろう。
……話がそれたが、結局、昨夜の出来事は誰にも話さなかった。
きっと時間が経てば、ちょっとした冒険譚のようなものになるだろう。
あの時にいたナニカは気にならないといったら嘘になるが、平穏を望む身としては首を突っ込まないのが吉だ。
夜の散歩に行っても、もう森には入らないようにしよう。
そう、忙しく働きながら思った。
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