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21:涙腺崩壊

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初夏の風が吹き始めた頃。
ついにフィンが恐れていた事態になってしまった。手術が必要なレベルのイボ痔ができてしまったのだ。病院に行き、すっかり顔馴染みになった壮年の医者から手術を勧められてしまった。フィンは涙目で頷くことしかできなかった。イボ痔の手術はとても短時間で終わり、日帰りでいいらしい。麻酔をするので手術中は勿論、手術後も暫くは痛みもないそうだ。排便の時などに痛みはあるらしいが、それは今でもそうなので今更だ。しかし、日常生活はすぐに普通に送れるようになるが、長時間同じ姿勢でいるのは肛門に負担をかけるので最悪仕事は暫く休まなければならない。おまけに1ヶ月は激しい運動をしてはいけないそうなので筋トレができない。約1年毎日続けている筋トレができなくなるのが本気で嫌だし、筋トレができない理由をケリー達に話さなければならないのも嫌だ。この1年、殆んど毎週必ずケリー達の家に通っている。理由なく休むことなんてできない。1回だけなら体調不良とか用事とかで誤魔化せるが、1ヶ月だ。きちんと理由を話しておかないと、もしかしたら余計な心配をかけてしまうかもしれない。
ケリー達にも話さなければならないし、実は未だに教えていないフィルにもイボ痔のことを話さなくてはいけない。兎に角ものすごく恥ずかしいし、なんだか情けないしで、本当に泣いてしまいそうである。
フィンの手術は、担当医の他の患者の手術予定の関係で3日後に行われることになった。本当に泣きたい。
フィンは真っ直ぐ家に帰る気が起きず、涙目のまま、フラフラと花街へと入った。マイキーが今日は仕事なのは分かっている。しかし、どうしてもマイキーに少しだけでもいいから話を聞いてもらいたくなってしまった。フィンのイボ痔を知っているのは、父ドレイクを除けばマイキーだけだ。

営業中の『装飾品専門店ニカインド』に入るのは初めてだ。入り口のドアから店に入ると、『いらっしゃーい』という微妙にやる気を感じない男の声がした。マイキーの声ではないので、マイキーの父親だろう。店の中には客らしき中年の男が1人いるだけだ。フィンは店の奥のカウンターへと足を進めた。
カウンターにはパーシーと同年代くらいの中年の男が座っていた。穏やかそうな顔立ちで、少し目尻に皺のある目元がマイキーとよく似ている。フィンはおずおずと、マイキーの父親に声をかけた。


「……こんにちは」

「お。筋トレ美少女じゃん。マイキーから写真見せてもらったことがあんだわ」

「……フィン・スカンジナビアです。男です」

「知ってる。マイキーの父親のマートル・ニカインド。マイキーに会いに来たのか?」

「あ、はい。あの、でもお忙しいなら……」

「ん?別にいいぞ。今工房にいるから、ちょっと待ってろよ。呼んでくる」

「あ、お願いします」

「おう」


マートルがにっと笑って立ち上がり、カウンターの中の急な階段の横にあるドアを開けて入っていった。つい勢いで来てしまったが、マイキーは工房で仕事中だったし、マイキーの仕事の邪魔をしてしまった。なんだか今更、ここに来てしまったことを後悔してしまう。マイキーに迷惑をかけてしまった。本当になんて自分は情けないのか。フィンは元々涙目だったが、微かに滲んでいた涙が更に増えていく感覚がして、ぐっと強く目を閉じた。

少しの時間そうしていると、足音がして、作業着姿のマイキーがマートルと共にカウンターまでやって来た。フィンはマイキーの顔を見た途端、病院からずっと我慢していた涙腺がついに崩壊してしまった。ぼたぼたと勝手に涙が落ちていく。


「フィン!?」

「マイキーさぁぁぁん……う、うぇっ、うぇぇぇ……」

「うぉ。マイキー。とりあえず2階に連れてけよ」

「あ、うん。とりあえず、おいで。フィン」

「うぇっ、うっ、うっ、ぐずっ、あい……」


鼻水まで出てきたフィンの二の腕をカウンターから出てきたマイキーがやんわり握り、軽く引っ張った。フィンはマイキーに二の腕を引かれるままにカウンターの中に入り、二の腕から手を離して今度はフィンの手首を優しく握ったマイキーに続いて、急な階段をボロボロ泣きながら上がった。

短い廊下を歩いて居間に行くとすぐに、ソファーの前のローテーブルの上に置いてある箱ティッシュをマイキーが箱ごと手に取り、ティッシュを数枚取って鼻水が垂れ流し状態のフィンの鼻をティッシュで拭いた。一瞬鼻の下に鼻水がついている感覚がなくなったが、ガンガン涙が出てくるので自然とまたすぐに鼻水も垂れてくる。涙がだらだら流れているフィンの頬にマイキーの剣胼胝でごつごつした手が優しく触れて、マイキーが次から次へと溢れる涙を拭うように優しくフィンの目の下を親指で擦った。


「どうしたの。フィン」

「う、うぇ、う、うぅ……いぼぢ、いぼぢがぁぁぁ……うぅぅぅぅぅ……」

「あー……うん。とりあえず先に泣ききっちゃいな」

「うぇぇぇぇぇ……」


少し困ったように眉を下げたマイキーがフィンの身体を抱き締めた。フィンの身体は筋肉が増えたとはいえ、マイキーよりも断然細いし身長はまだ頭の天辺がマイキーの口元の辺りまでしかない。鼻水が垂れ流し状態なので匂いは分からないが、ぎゅっと抱き締められてくっついているマイキーの体温が服越しに伝わる。服の下にしっかりとした筋肉の存在を感じるフィンよりも逞しい身体にすっぽり抱き締められて、なんだか益々涙が溢れてきた。フィンはマイキーの背中に腕を回して自分からぎゅうぎゅう強くマイキーに抱きついた。マイキーが優しくフィンの頭を撫でてくれる。フィンはマイキーの肩に涙が止まらない目元を押しつけた。







ーーーーーー
フィンは顔を両手で覆って項垂れていた。マイキーの家の居間のソファーに、マイキーと並んで座っている。フィンの尻の下には柔らかいクッションが敷いてある。
とっくに成人した今年18歳にもなる男が、相手は懐いている兄弟子とはいえ、男に抱きついてガチ泣きしてしまった。泣き止んだ今は恥ずかしすぎて隣のマイキーの顔が見れない。フィンがある程度落ち着いて泣き止んだ後、泣きじゃくるフィンを抱き締めていたマイキーの作業着の肩はフィンの涙と鼻水で濡れていた。穴があったら入りたい。むしろ穴を掘って入りたい。穴の中に引きこもってしまいたい。めちゃくちゃ泣いたからという理由以外でも、自分の手に触れる顔が熱い。絶対今耳まで赤くなってしまっている。恥ずかしすぎて。

正気に返ったフィンが羞恥で狼狽えている間に、マイキーが水分補給だと珈琲を淹れてくれたのだが、恥ずかしすぎて俯いた顔から手を離せないので飲めない。泣き止んだ後に小さな子供のようにマイキーに鼻水をティッシュで拭かれたが、鼻がまだ微妙に詰まっているから微かにしか珈琲の匂いを感じない。すぐ隣でマイキーが珈琲を飲んでいる気配がする。本当にどうしよう。恥ずかしすぎてヤバい。
泣き止んだと思ったら今度は顔を手で覆って俯いてしまったフィンの頭を、ぽんぽんと軽く優しくマイキーが手で叩いた。そのまま頭の形をなぞるように優しく頭を撫でられる。


「それで?イボ痔がどうしたの?」

「…………う、手術が必要なのが、ついにできちゃって……」

「うん」

「……手術自体が怖いし。嫌だし。恥ずかしいし。暫く筋トレできなくなるし。師匠とか言わなきゃいけないのが、恥ずかしくて嫌で」

「うん」

「……すいません」

「ん?何が?」

「……こんな、下らないことでご迷惑かけて……」

「別に迷惑ではないよ」

「う……でも、仕事の邪魔、しちゃいましたし……」

「急ぎの仕事はないから大丈夫」

「……でも……」

「フィンは色々溜め込み過ぎなんじゃない?あと少し気を使い過ぎかもね。多分痔以外のストレスも溜まってたのかも」

「…………」

「俺のことは気にしない。ほら、珈琲飲みなよ。水分補給」

「……はい」


マイキーの優しい声に、また油断すると涙が滲んでしまいそうだ。フィンはおずおず顔から手を離して、珈琲の入ったカップを手に取った。鼻が詰まっているので香りは薄く感じるが、一口飲むと、舌に珈琲自体の苦味以外にもフィン好みの微かな甘さを感じる。マイキーが予め砂糖を入れておいてくれたようだ。フィンがいつも入れる角砂糖の個数を覚えてくれていたらしく、いつもの珈琲の味がする。少し温くなっているが、逆に飲みやすい。フィンが殆んど一息で珈琲を飲み干すと、マイキーがフィンが持つカップを取って、ポットに入れていた珈琲のお代わりを注いで、また渡してくれた。小さくお礼を言って2杯目の珈琲に口をつけると、またフィン好みの甘さである。どうやら、ポットに入っている珈琲自体に砂糖を入れておいてくれたみたいだ。1杯目よりも少し熱い珈琲をチビチビ飲むと、なんだか少し気持ちが落ち着いて、フィンはほぅ、と小さく息を吐いた。両手でカップを持つフィンの頭をマイキーがまた優しくわしゃわしゃと撫でてくれる。フィンよりも大きなマイキーの手の感触が酷く心地いい。


「手術が怖いんなら、父さんにちょっと話聞いてみる?父さんもやったことあるし」

「……いいんですか?」

「いいよ。今日はお客さん少ないし。納期が迫ってる注文もないし」

「……ありがとうございます」

「うん」


チラッと隣のマイキーの顔を見れば、いつも通りの穏やかな顔をしている。先に目を冷やそうと言って、マイキーが立ち上がって濡れタオルを用意しに台所へと行った。
フィンがあんなにみっともなく泣いて迷惑をかけたのに、マイキーは普通に受け入れてくれた。マイキーは優しい。こんなに誰かにすがりついて泣いたのは、多分小さい頃以来だ。記憶にある限り、父ドレイクにだって泣いてすがりつくなんてことをした覚えがない。スカートを穿かされるのが嫌で店の倉庫に籠城した時だって、秋の豊穣祭で痴漢にあった時だって、女の子にフラれて時だって、フィンは誰かにすがりついて泣くなんてことしなかった。いつも自分の部屋で布団に潜り込んでこっそり泣き、秘密の隠れ場所を見つけてからは、いつもそこで1人で泣いていた。
マイキーに自分が懐いている自覚はあるが、正直ここまで気を許しているとは思っていなかった。泣きそうな思いで病院を出た時に、何故か真っ先に頭に浮かんだのがマイキーの顔だった。心のどこかで、マイキーなら頼っていいと思っていたのかもしれない。知り合って1年くらいの相手だが、何故だかマイキーはするっとフィンの心に入ってきている。頼れる兄貴分だからかもしれない。
戻ってきたマイキーから冷たい濡れタオルを受け取って、泣きすぎて熱を持つ瞼を冷やしながら、フィンはどこか胸の辺りがほわほわするのを感じていた。


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