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4:容赦ない捕獲

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 早朝。
 エーベルハルトは、必要最低限のものだけを鞄に詰め込んで、退職願を自室の机の上に置いて、独身寮を出た。夜中に逃げ出そうかとも思ったが、馬は個人で持っていないし、馬を借りようにも貸し馬屋は開いてない時間だった。当然、馬車も駄目だ。仕方がなく、エーベルハルトは、街の外へ行く乗り合い馬車が動き始める時間に合わせて、独身寮を出た。

 まだ朝日が昇った頃である。
 ヘルマンはきっとまだ寝ている筈だ。退職願を置いてきたから、脱走扱いにはならないと思いたい。
 エーベルハルトは、ギリギリと痛む胃のあたりを手で擦りながら、足早に乗り合い馬車乗り場へと向かった。ほんの僅かでも早く、ヘルマンの側から離れなければ。ヘルマンにエーベルハルトがやっていた事がバレてしまった以上、ヘルマンの側にはいられない。心が嫌がって悲鳴を上げているが、どうせ最初から実る筈もない恋心だったのだ。罪を犯したエーベルハルトを、ヘルマンが許すとも思えない。エーベルハルトがしていた事は、単純に犯罪だし、何より、ヘルマンの意思と尊厳を無視した独りよがりな行為だ。『好きだから我慢できなかった』なんて、免罪符にもならない。『好き』なら、何をしてもいい訳ではない。むしろ、『好き』だからこそ、エーベルハルトは、唯、こっそり想いを秘めるべきだった。

 重い後悔と申し訳無さで、吐き気がとまらない。油断すると涙が出てしまいそうだ。本当に、本当に好きだったのだ。厳しいけれど意外と優しくて、エーベルハルトにも気にかけてくれて、たまに甘えてくれるヘルマンが、好きで好きで堪らなかった。
 エーベルハルトは、ぐっと奥歯を噛み締めて、乗り合い馬車乗り場に向けて、走り始めた。

 まだ人気が少ない乗り合い馬車乗り場が見えてきた。何処にも行くあてなどないから、とりあえず故郷に帰るしかない。エーベルハルトが、走る足をゆるめて、普通に歩き始めると、乗り場馬車乗り場の近くのベンチに人影を見つけた。

 ベンチに座ったヘルマンと目が合った。

 ピシッと固まったエーベルハルトが、逃げる為のアクションを起こす前に、ベンチに座ったヘルマンがにこやかに笑って立ち上がり、助走をつけて、勢いよく棒立ちのエーベルハルトの腹に蹴りを入れた。飛び上がったヘルマンの両足が、ちょうど鳩尾のあたりに強く当たり、エーベルハルトは『げぼはっ!?』と後ろに吹っ飛んだ。元々吐き気を感じていたことをあって、蹴りの衝撃で、口から胃液が出た。思いっきり蹴られた鳩尾を押さえ、四つん這いで地面に向かって嘔吐きながら吐くエーベルハルトの背に、ヘルマンが無言で乗った。


「ぐえっ」


 ヘルマンの重みで、その場にべしゃっと潰れる。吐き気が更に増して、今にも胃液を吐きそうなエーベルハルトの両足を掴んで、ヘルマンが、エーベルハルトを海老反りさせるように、ぐいぐい両足を引っ張ってきた。素直に痛いし、めちゃめちゃ苦しい。


「いたいいたいいたいいたいっ!」

「おらおらー。遅いんだよ。お前。俺がどんだけ待ってたと思ってんだ」

「ちょっ、ぅおぇっ、いぎぃっ!」

「脱走は感心せんなぁ。エーベルハルト」

「たっ、退職願はっ、置いてきましたっ!」

「上司の俺が許可してねぇ時点で脱走扱いだ。馬鹿野郎」

「そんなっ……! い、いたいいたいっ!! 本気でいたいっ!!」

「痛くしてるからな」

「あぁぁぁぁぁ……」


 エーベルハルトは、ヘルマンの気が済むまで、海老反りの状態で、痛みとヘルマンの重みによるダメージを受け続けた。

 漸くヘルマンがエーベルハルトの足を離し、エーベルハルトの上からどいた。エーベルハルトは、息も絶え絶えな状態で、のろのろと顔を上げた。エーベルハルトの顔の前で、ヘルマンがしゃがんで、エーベルハルトを見下ろしていた。ヘルマンは無表情で、何を考えているのか読めない。

 ヘルマンが胸ポケットから煙草の箱を取り出し、煙草を一本取り出して、着火具で煙草に火をつけた。ふぅーーっと、細く長く煙草の煙を吐き出したヘルマンが、呆然と見上げるエーベルハルトの顳顬あたりをガッと大きな片手で掴んで、そのままギリギリと顳顬を締めつけ始めた。素直にめちゃめちゃ痛い。


「いだだだだだっ!」

「さーて。エーベルハルト。言い訳を聞いてやろうじゃねぇか」

「……どっ、どのっ……?」

「全部だ。馬鹿野郎。とはいえ、此処じゃ、ちと目立つ。場所を変えるぞ。言っておくが、お前に拒否権は無い」

「……は、はい……」


 ギリギリ締められていた顳顬から、ヘルマンの手が離れた。ズキズキと痛む顳顬を手で押さえながら、エーベルハルトは、のろのろと起き上がった。土埃と吐瀉物で汚れた顔を適当に手で拭っていると、ヘルマンに利き手である右腕を握られた。
 エーベルハルトは、逃げられないことを悟り、断頭台に向かうような気分で、ヘルマンと共に独身寮のヘルマンの部屋へと移動した。

 ヘルマンの部屋に着くと、ヘルマンが居間の椅子に座ったので、エーベルハルトは自主的にヘルマンの前の床に正座をした。
 上からヘルマンの視線を感じるが、顔を上げることができない。なんだかもう色んな感情がごちゃごちゃになって、また吐きそうである。


「さて。言い訳の時間だ。精々面白い言い訳を聞かせてくれ」

「……あ、あの……」

「なんだ」

「い、いつから……その、気づいてらっしゃったんですか……?」

「あ? お前が寝込みを襲ってきたやつか? 最初からだが」

「はい!? 最初からっ!?」

「部屋の鍵をガチャガチャ開けてきた時点で普通に気づくわ。ど阿呆」

「なっ、なっ、なっ……」

「お前、潜入とか本当に向いてないな」

「……ぐぅ……」


 まさかの最初から気づかれていた。チラッとヘルマンの顔を見れば、心底呆れたみたいな顔をしていた。1年も気づかれていないと、ずっと思っていたので、中々に心的ダメージが大きい。何故、ヘルマンは1年もエーベルハルトの好きにさせていたのだろうか。


「あっ、あの……」

「なんだ」

「な、なんで、その、あの……気づいてたのに、その……」

「お前に大人しく寝込みを襲われてたか?」

「……はい」

「さぁな。今は教えない。今はお前の言い訳の時間だ。で? 何で俺の寝込みを襲った? それと今朝の脱走の理由。キリキリ吐きやがれ」


 エーベルハルトは、もう本気で泣きたくなった。こんな形で、想いを伝えることになるなんて。先に、エーベルハルトがやってはいけない事をやってしまっていたのは事実だ。今更、ロマンチックな告白なんかできる筈も無い。それでも、己が犯した罪とその理由を本人に告げるのには、とんでもない勇気が必要だった。

 逃げることはできない。ならば、告げなければならない。
 エーベルハルトは、震える声で、ボソボソッと呟いた。


「……ヘルマン曹長のことが好きです」

「ふぅん。で?」

「……それで……いけないと分かっていても、その、あの、自分を抑えられなくて……」

「で。俺を何度も強姦しやがったと」

「……はい。その……謝って済む話ではないのですが……申し訳ありませんでしたっ! 俺なんかが好きになってしまって、貴方の意思も尊厳も無視して……俺は貴方を何度も犯した」


 必死に堪えていた涙が、ぼたぼたと溢れ出てきた。エーベルハルトは、額を床に擦りつけながら、情けなくもれ出そうな嗚咽を必死で堪えた。

 暫しの沈黙の後で、ヘルマンの大きな溜め息が聞こえた。思わず、ビクッと身体を震わせるエーベルハルトの頭を、ヘルマンが片手でガッと掴んだ。


「おい。腰抜け強姦野郎」

「……はい」

「俺に惚れたんなら、普通に口説け。ど阿呆」

「……そっ、そんなことっ、できる筈がないっ」

「腰抜け。ヘタレ。駄眼鏡」

「うぐっ……」

「……後悔して、逃げ出すくらいなら、最初からやるな。ばーか」


 全くをもってその通りなのだが、やってしまった過去は変えられない。顔を上げられないエーベルハルトの頭をヘルマンがわしゃわしゃと乱暴に撫で回した。


「おい」

「……はい」

「ちっとはまともに口説く努力をしてみろ」

「……へ?」


 エーベルハルトは、ヘルマンの言葉に、思わず顔を上げた。ぽかんとヘルマンを見上げれば、ヘルマンがニヤッと笑って、エーベルハルトの額を思いっきりデコピンした。


「いってぇ!?」

「逃げることは許さねぇ。精々、俺を口説いて、足掻きやがれ」

「え、え? え?」


 何を言われたのか、咄嗟に理解ができない。エーベルハルトが混乱していると、『仕事の準備をしてこい』と襟首を掴まれて立ち上がらさせられ、尻を思いっきり蹴り飛ばされた。

 エーベルハルトは、呆然としたまま、自室に戻り、色んなもので汚れた顔を洗って、いつもの軍服に着替えた。

 何がどうして、エーベルハルトがヘルマンを口説くことになったのだろうか。訳が分からない。エーベルハルトは、ヘルマンから断罪される筈だったのに。
 エーベルハルトは、混乱しまくったまま、機械的に出勤の準備をして、部屋を出た。

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