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7:風邪っ引き
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この冬に入ってから1番冷えた冬の日。
朝からバーバラはいい歳した大人であるにも関わらず、パニクってガチ泣きして慌てることになった。
白い息を吐きながら、バーバラは急ぎ足でフリッツの本屋へと向かっていた。まだ日も昇らない暗い時間帯は流石に冷え、自前の毛皮と筋肉があるバーバラでさえ寒さを感じて滅多に使わないマフラーを引っ張りだした。しかし上着等は着ていない。いつものピッタリとした襟なしの長袖シャツ1枚である。今日の色は地味な紺色である。地味な草色のマフラーを緩く首に巻いて、バーバラは早足でフリッツの本屋へと行き、いつも通り店のドアの鍵を合鍵で開けた。一応念のため店内に入ると内側から施錠し、屋内なのに白息が変わらず出る寒い店内を横切ってカウンターの内側へと、足音を立てないようにして進む。古い建物だから、多少筋肉が落ちて痩せたとはいえ、元々重いバーバラの体重で時折悲鳴のような床が軋む音がする。いつか床を踏み抜いてしまうのではないかと、密かにバーバラは不安に思っていた。ここで絵本を買ったあの日に感じた埃臭さは今はない。バーバラがいつも気合いを入れて掃除しているからだ。ただ本の匂いだけがする。そして昼間はこれにフリッツの不思議と落ち着く薄い体臭が混じる。香水なんて洒落たものを着けないフリッツは側にいて正直落ち着く。人間の好むキツい香りのする香水は獣人のバーバラにとっては、かなり苦手なものなのだ。フリッツはそんなバーバラが苦手な香水なんか使わない。いつもほんのりと残る石鹸の匂いとフリッツ特有の体臭しかしない。フリッツは他の人間に比べて、少し体臭が薄い気がする。痩せているからか、それとも単なる体質か。まだ暑さの残る夏場もそんなに汗をかいていなくて、ほんのり香るフリッツの汗の匂いもバーバラは全く不快ではなかった。
いつものように、古い階段を音をさせないように慎重に上り、なんとなく違和感を感じた。なにやらここ最近嗅いだことがない匂いがする。何の匂いなのかを、パッと思い出せないあたりが自分の脳みその残念なところである。
気にし出すと悩んでつい動きを止めてしまう悪い癖がバーバラにはあるので、頭を軽く振って、静かに部屋のドアを開けた。
ふわっと、さっきよりも強く匂いが鼻を刺激する。まるで不快な匂いではない。むしろ、嗅いでいるとなんとなく少し落ち着くような、逆に少し落ち着かなくなるような、なんだかよく分からない気持ちになる匂いだ。どこで嗅いだものだろう?鼻をひくひくさせながら匂いの元を辿る。本当なら先に暖房器具を起動して家の中を暖めなければならないのだが、どうしても気になってしまう。匂いが濃いのはフリッツの寝室である。フリッツの寝室も暖めなければならないから、と何故か自分に言い訳をして、バーバラはそーっと慎重に寝室のドアを開けた。途端にふわっとより匂いが強くなる。
なんだか下腹部がざわざわする。バーバラはふんふん匂いを嗅ぎながら、匂いが充満しているような気がする部屋の中でも濃い匂いがする方へと静かに足音を殺して進む。気のせいでもなく、匂いの発生源はベッドの上で布団を被って眠るフリッツだ。なんでこんなに意味が分からないけど、胸のあたりとか下っ腹のあたりがざわつく感じがするのだろう。バーバラはそーっと静かに眠るフリッツの枕元に立ち、胸いっぱいに匂いを吸い込んだ。嗅ぎ慣れたフリッツの体臭もしっかり鼻が感知する。ふっと見下ろしたフリッツの顔を見て、次の瞬間ギョッとした。
フリッツは真っ赤な顔でこんなに寒いのに汗を額に浮かべていた。そうだ!これは夏場の終わりくらいに嗅いでいたフリッツの汗の匂いだ!何故今の今まで気づかなかったのだろう。間抜けにも程がある。慌ててしゃがみこんでフリッツの様子をよく見ると、呼吸が荒く、震えているのか小さくカチカチと歯同士がぶつかるような小刻みな音がする。
バーバラはぶわっと全身の毛が逆立つような感覚になった。これはもしかして病気というやつではないのだろうか。
バーバラは祖父に必要以上に身体を鍛えられて育ったので、物心ついてから病気というやつになったかとがない。身内は全て獣人だったし、人間の友達もいなかった。そもそも小さい頃から臆病で気弱で更に泣き虫だったバーバラは、近所の子供達に馬鹿にされるばかりで、一緒に遊んでもらえなかった。大人になっても周りは身体を鍛えている人間の中では屈強な部類に入る病気知らずの人間ばかりに囲まれていた。その為、病気というものがあると知っていても、それにどう対処したらいいのか全然分からない。ましてや、それが人間の病気なら尚更どうしたらいいのか分からない。
おろおろするバーバラの前には、苦しそうに眉間に皺を寄せ、浅くて速い呼吸をし、真っ赤な顔で震えながら額から汗を流す、明らかに異常なフリッツがいる。
本当にどうしたらいいんだ。分からなくてパニクってバーバラはうるうる涙を瞳に溜めた。何をどうしたらいいのか、全く思いつかないバーバラはついに涙をポロポロ溢し始めた。苦しそうにしているフリッツを何とかしたいのに、何をすればいいのか全然分からない。使えない無能な自分に心底嫌になる。
おろおろしながら涙をポロポロ流していると、苦しそうなフリッツが目を開けた。思わずぐいっとバーバラはフリッツに顔を近づけた。何かを言おうと口をパクパクさせるフリッツの口元に耳を近づけた。フリッツは普段とはかけ離れたしゃがれた声で小さく言葉を発した。
「……右に、4つ隣、の医者、んとこ、つ、れてい、け……」
そうだ!医者だ!
何故思いつかなかったんだ。怪我と病気の時は医者の頼るしかないというのに。自分の馬鹿さ加減が心底憎く思えるが、自分を責めて時間を無駄にしている場合ではない。
バーバラはフリッツを布団全部を使って簀巻きのようにぐるぐる巻きにしてから、軽いフリッツの身体を横抱きに抱えあげた。そのまま、できるだけ苦しそうな呼吸をしているフリッツの身体に負担をかけないよう、できるだけ揺らさないように気をつけながら、階段をかけ降り、店のドアの前まで早足で進み、苛立たしく店の入り口のドアの鍵を開けて、店の外に飛び出した。まだ夜が開ける前だ。こんな時間は普通は皆寝ている。そんなことさえ頭から抜けているバーバラは、獣人の脚力を全力で発揮し、ほんの数秒後にはフリッツの本屋から4つ隣の家の玄関のドアを力任せにガンガン叩いていた。フリッツはバーバラならば片手で抱えていられる程軽い。その軽さがバーバラには不安でならない。
「た、助けてくださいっ!」
何度もドアを叩いて、腹の底から叫ぶと、中からしわくちゃの人間の年老いた雄が出てきた。この老いた人間が多分医者だ。
バーバラはポロポロ涙を溢しながら、つっかえつつフリッツの状態を一方的に話した。
医者はバーバラの話を全て聞くと、すぐに2人を家に入れてくれた。
苦しそうにしているフリッツを医者が診察する横で、バーバラはずっとポロポロ涙を溢していた。
「ふむ。風邪じゃな」
「か!かぜってなんですか!悪い病気なんですか!フ、フ、フリッツさん、大丈夫なんですか!」
「落ち着きなさいよ。風邪は人間が冬場なんかによくかかる病気じゃ。ここ最近一段と冷えるしな」
「ど、どうしたら、治るんですか!?」
「じゃから落ち着けと言うに。フリッツは、まぁ熱は高いが、薬を飲ませて安静にしておけば2、3日で治るわい」
「ほ、ほ、ほんとうに!?」
「嘘をついてどうするんじゃ。薬をとってくるから、ここで待っとれ」
「は、はいっ」
診察用の部屋から出ていった医者を見ることなく、苦しそうにぐったりしているフリッツの額に涙を溢しながら鼻先をくっつける。痛みがあるのか分からないが、少しでも痛いのも苦しいのもどこかへ行ってしまえと願いながら、バーバラはフリッツの汗の滲む額をペロペロ舐めた。医者はすぐに戻ってきてくれた。人間の風邪の症状を未だに涙を溢しているバーバラに説明し、その上でどのような世話をしたらいいか詳しく教えてくれる。バーバラは1つも聞き逃すことがないよう、普段垂れている耳をピンと立てた。医者の話が終わると、医者が言ったことをきっちり復唱して、診察代と薬代は後日でいいという医者に何度もお礼を言ってから、また苦しそうにしているフリッツを布団でぐるぐる巻きにして、横抱きにして全速力でフリッツの寝室へと戻った。
そっとフリッツをベッドに寝かせると、まずは意識が朦朧としているフリッツに医者から渡された苦い匂いのする薬を水に混ぜてから、少しずつ確実にフリッツに飲ませた。
それからすぐに暖房器具で部屋全体を最大限に暖め、凍えるように冷たい水道の水を風呂で使う桶に溜めて小さめの清潔な布巾を水に浸して絞り、フリッツの顔の汗を優しく拭いてやってから、もう1度水に浸して絞って、冷たい布巾をフリッツの汗の浮かぶ額にのせた。冷たい布巾を熱い額にのせると、小さくフリッツがほっと息を吐いた。
バーバラはフリッツから1歩も離れたくない思いをなんとか抑え、台所へ行ってヤカンでお湯を沸かし、フリッツがいつでも食べられるように生姜をきかせた穀物粥を手早く作った。
胃の負担にならないものを食べさせ、薬を飲ませて、兎に角熱が下がるまで安静にさせる。
何度も医者から聞いたこと頭の中で復唱しながら、バーバラは未だにポロポロ涙を溢しつつ、フリッツの為にあれこれ動き回った。
フリッツが目覚めると、必ず湯冷ましを飲ませて、食べられそうなら1口だけでも穀物粥を食べてもらい、医者の説明通りの時間がくる度に、ぐったりしているフリッツに苦い匂いのする薬を飲ませた。
汗でぐっちょりの服だと良くないと聞いていたので、お湯を沸かして、汗でぐっちょりの服を脱がせて、お湯に浸して絞った少し熱めのタオルでフリッツの痩せた身体を優しく拭いて、手早く乾いている清潔な服に着替えさせた。
そんなことを2日程続けていると、フリッツは徐々に熱が下がり、3日目には完全に熱が下がってベッドの上に自力で座れる程回復した。フリッツが普段と然程変わらない顔色になって、フリッツの額に小さめの肉球のある自分の掌で触れて不自然な程熱くないことを確かめると、バーバラはまたポロポロ涙を溢した。安心したら気が緩んでしまったのだ。
そんなバーバラをフリッツは呆れた顔で見つめた。バーバラは泣きながら、追加で卵を入れた穀物粥を作り、フリッツに食べさせ、念のためフリッツに薬も飲ませてから、もう治ったと言ってベッドから出ようとするフリッツを押し止めて、最終的には泣き落としで後1日安静に過ごしてもらうことに成功した。
本当に完全に治ったと言い張るフリッツが心配で、バーバラは普段の格好をしているフリッツに念入りに何枚も服を着せ、その上から分厚い毛布でぐるぐる巻きにしてフリッツを有無を言わさず横抱きに抱えあげて、医者の元へと向かった。
医者はまた泣きそうな顔をして、憮然とした顔をしているフリッツを横抱きにしているバーバラを呆れたように見てから、2人を家にいれ、診察用の部屋でフリッツを診察し、治っていると太鼓判を押した。
それを聞いたバーバラがまたポロポロ涙を溢し始めると、2人の人間は思わず顔を見合せ、呆れたようにバーバラを見た。
涙を流しているバーバラの頭をフリッツが溜め息を吐きながら両手でわしゃわしゃと撫で回した。耳もぐにぐにされる。涙で濡れている頬や首の辺りまでフリッツに無遠慮に撫で回された。そのことで少し落ち着いたバーバラが泣き止むと、フリッツは医者に騒がせた詫びと言って、多めの診察代と薬代を払った。フリッツは再び毛布でぐるぐる巻きにして運ぼうとするバーバラの頭をひたすら撫で回して落ち着かせ、自分の足で歩いて本屋兼自宅に帰った。
ーーーーーー
風邪が完治していると医者に太鼓判を押してもらった翌日。
数日ぶりにフリッツは店のカウンターの椅子に座っていた。何故か過保護になったバーバラに問答無用で厚めのカーディガンを2枚重ね着させられた上にバーバラの私物の草色のマフラーを巻かれ、膝にはいつの間に用意したのか分からない温かい膝掛けをかけられ、足元には暖房器具まで置かれた。いくら気候が寒くて病み上がりでも、これでは流石に室内では暑い。しかし、どれか1つでも外そうとすれば、キューンと悲しげな鳴き声を出し、涙で瞳を潤ませるバーバラがいるのだ。ここまで誰かに心配なんてされたことがないフリッツは、なんだかむず痒いのを我慢して、ついでに少し暑いのも我慢してカウンターの椅子に座っている。
そんなもこもこになっているフリッツを、ドーバは面白そうに眺めた。手には美味しそうな林檎が入った籠を持っている。
「風邪だって?」
「……もう治った」
「近くのお爺ちゃん先生に聞いたよ。バーバラめちゃくちゃ泣きながらお爺ちゃん先生ん家に行ったんだって?」
「まぁな」
「やー。今もなんか心配そうにそわそわしてるし。可愛いねぇ、バーバラ」
「…………」
「まさか君がバーバラの言うことをそうやって大人しく聞くなんてね。明日は大雪だよ」
「……泣かれる方が面倒なんだよ」
「おや。愛されてるねぇ、フリッツ」
「……アホか」
「ふっふっふ……。まぁ、無事治ってよかったよ。あ、これ2人で食べてね。美味しいって評判のやつなんだ」
「……悪いな」
「いやいや。ここが閉まっていると、楽しみがいくつも減るからね」
「……あぁ」
「じゃあ、またバーバラを泣かさないように身体には気をつけるんだよ」
「わかった」
「ふふっ。また来るよ」
ドーバは今日は3冊本を買って帰っていった。フリッツの手の中にある籠には、美味しそうに色づき、甘い匂いを放つ林檎がいくつも入っている。
その夜、フリッツは初めてバーバラと一緒に夕食を食べ、デザートに甘くて美味しい林檎を噛った。
朝からバーバラはいい歳した大人であるにも関わらず、パニクってガチ泣きして慌てることになった。
白い息を吐きながら、バーバラは急ぎ足でフリッツの本屋へと向かっていた。まだ日も昇らない暗い時間帯は流石に冷え、自前の毛皮と筋肉があるバーバラでさえ寒さを感じて滅多に使わないマフラーを引っ張りだした。しかし上着等は着ていない。いつものピッタリとした襟なしの長袖シャツ1枚である。今日の色は地味な紺色である。地味な草色のマフラーを緩く首に巻いて、バーバラは早足でフリッツの本屋へと行き、いつも通り店のドアの鍵を合鍵で開けた。一応念のため店内に入ると内側から施錠し、屋内なのに白息が変わらず出る寒い店内を横切ってカウンターの内側へと、足音を立てないようにして進む。古い建物だから、多少筋肉が落ちて痩せたとはいえ、元々重いバーバラの体重で時折悲鳴のような床が軋む音がする。いつか床を踏み抜いてしまうのではないかと、密かにバーバラは不安に思っていた。ここで絵本を買ったあの日に感じた埃臭さは今はない。バーバラがいつも気合いを入れて掃除しているからだ。ただ本の匂いだけがする。そして昼間はこれにフリッツの不思議と落ち着く薄い体臭が混じる。香水なんて洒落たものを着けないフリッツは側にいて正直落ち着く。人間の好むキツい香りのする香水は獣人のバーバラにとっては、かなり苦手なものなのだ。フリッツはそんなバーバラが苦手な香水なんか使わない。いつもほんのりと残る石鹸の匂いとフリッツ特有の体臭しかしない。フリッツは他の人間に比べて、少し体臭が薄い気がする。痩せているからか、それとも単なる体質か。まだ暑さの残る夏場もそんなに汗をかいていなくて、ほんのり香るフリッツの汗の匂いもバーバラは全く不快ではなかった。
いつものように、古い階段を音をさせないように慎重に上り、なんとなく違和感を感じた。なにやらここ最近嗅いだことがない匂いがする。何の匂いなのかを、パッと思い出せないあたりが自分の脳みその残念なところである。
気にし出すと悩んでつい動きを止めてしまう悪い癖がバーバラにはあるので、頭を軽く振って、静かに部屋のドアを開けた。
ふわっと、さっきよりも強く匂いが鼻を刺激する。まるで不快な匂いではない。むしろ、嗅いでいるとなんとなく少し落ち着くような、逆に少し落ち着かなくなるような、なんだかよく分からない気持ちになる匂いだ。どこで嗅いだものだろう?鼻をひくひくさせながら匂いの元を辿る。本当なら先に暖房器具を起動して家の中を暖めなければならないのだが、どうしても気になってしまう。匂いが濃いのはフリッツの寝室である。フリッツの寝室も暖めなければならないから、と何故か自分に言い訳をして、バーバラはそーっと慎重に寝室のドアを開けた。途端にふわっとより匂いが強くなる。
なんだか下腹部がざわざわする。バーバラはふんふん匂いを嗅ぎながら、匂いが充満しているような気がする部屋の中でも濃い匂いがする方へと静かに足音を殺して進む。気のせいでもなく、匂いの発生源はベッドの上で布団を被って眠るフリッツだ。なんでこんなに意味が分からないけど、胸のあたりとか下っ腹のあたりがざわつく感じがするのだろう。バーバラはそーっと静かに眠るフリッツの枕元に立ち、胸いっぱいに匂いを吸い込んだ。嗅ぎ慣れたフリッツの体臭もしっかり鼻が感知する。ふっと見下ろしたフリッツの顔を見て、次の瞬間ギョッとした。
フリッツは真っ赤な顔でこんなに寒いのに汗を額に浮かべていた。そうだ!これは夏場の終わりくらいに嗅いでいたフリッツの汗の匂いだ!何故今の今まで気づかなかったのだろう。間抜けにも程がある。慌ててしゃがみこんでフリッツの様子をよく見ると、呼吸が荒く、震えているのか小さくカチカチと歯同士がぶつかるような小刻みな音がする。
バーバラはぶわっと全身の毛が逆立つような感覚になった。これはもしかして病気というやつではないのだろうか。
バーバラは祖父に必要以上に身体を鍛えられて育ったので、物心ついてから病気というやつになったかとがない。身内は全て獣人だったし、人間の友達もいなかった。そもそも小さい頃から臆病で気弱で更に泣き虫だったバーバラは、近所の子供達に馬鹿にされるばかりで、一緒に遊んでもらえなかった。大人になっても周りは身体を鍛えている人間の中では屈強な部類に入る病気知らずの人間ばかりに囲まれていた。その為、病気というものがあると知っていても、それにどう対処したらいいのか全然分からない。ましてや、それが人間の病気なら尚更どうしたらいいのか分からない。
おろおろするバーバラの前には、苦しそうに眉間に皺を寄せ、浅くて速い呼吸をし、真っ赤な顔で震えながら額から汗を流す、明らかに異常なフリッツがいる。
本当にどうしたらいいんだ。分からなくてパニクってバーバラはうるうる涙を瞳に溜めた。何をどうしたらいいのか、全く思いつかないバーバラはついに涙をポロポロ溢し始めた。苦しそうにしているフリッツを何とかしたいのに、何をすればいいのか全然分からない。使えない無能な自分に心底嫌になる。
おろおろしながら涙をポロポロ流していると、苦しそうなフリッツが目を開けた。思わずぐいっとバーバラはフリッツに顔を近づけた。何かを言おうと口をパクパクさせるフリッツの口元に耳を近づけた。フリッツは普段とはかけ離れたしゃがれた声で小さく言葉を発した。
「……右に、4つ隣、の医者、んとこ、つ、れてい、け……」
そうだ!医者だ!
何故思いつかなかったんだ。怪我と病気の時は医者の頼るしかないというのに。自分の馬鹿さ加減が心底憎く思えるが、自分を責めて時間を無駄にしている場合ではない。
バーバラはフリッツを布団全部を使って簀巻きのようにぐるぐる巻きにしてから、軽いフリッツの身体を横抱きに抱えあげた。そのまま、できるだけ苦しそうな呼吸をしているフリッツの身体に負担をかけないよう、できるだけ揺らさないように気をつけながら、階段をかけ降り、店のドアの前まで早足で進み、苛立たしく店の入り口のドアの鍵を開けて、店の外に飛び出した。まだ夜が開ける前だ。こんな時間は普通は皆寝ている。そんなことさえ頭から抜けているバーバラは、獣人の脚力を全力で発揮し、ほんの数秒後にはフリッツの本屋から4つ隣の家の玄関のドアを力任せにガンガン叩いていた。フリッツはバーバラならば片手で抱えていられる程軽い。その軽さがバーバラには不安でならない。
「た、助けてくださいっ!」
何度もドアを叩いて、腹の底から叫ぶと、中からしわくちゃの人間の年老いた雄が出てきた。この老いた人間が多分医者だ。
バーバラはポロポロ涙を溢しながら、つっかえつつフリッツの状態を一方的に話した。
医者はバーバラの話を全て聞くと、すぐに2人を家に入れてくれた。
苦しそうにしているフリッツを医者が診察する横で、バーバラはずっとポロポロ涙を溢していた。
「ふむ。風邪じゃな」
「か!かぜってなんですか!悪い病気なんですか!フ、フ、フリッツさん、大丈夫なんですか!」
「落ち着きなさいよ。風邪は人間が冬場なんかによくかかる病気じゃ。ここ最近一段と冷えるしな」
「ど、どうしたら、治るんですか!?」
「じゃから落ち着けと言うに。フリッツは、まぁ熱は高いが、薬を飲ませて安静にしておけば2、3日で治るわい」
「ほ、ほ、ほんとうに!?」
「嘘をついてどうするんじゃ。薬をとってくるから、ここで待っとれ」
「は、はいっ」
診察用の部屋から出ていった医者を見ることなく、苦しそうにぐったりしているフリッツの額に涙を溢しながら鼻先をくっつける。痛みがあるのか分からないが、少しでも痛いのも苦しいのもどこかへ行ってしまえと願いながら、バーバラはフリッツの汗の滲む額をペロペロ舐めた。医者はすぐに戻ってきてくれた。人間の風邪の症状を未だに涙を溢しているバーバラに説明し、その上でどのような世話をしたらいいか詳しく教えてくれる。バーバラは1つも聞き逃すことがないよう、普段垂れている耳をピンと立てた。医者の話が終わると、医者が言ったことをきっちり復唱して、診察代と薬代は後日でいいという医者に何度もお礼を言ってから、また苦しそうにしているフリッツを布団でぐるぐる巻きにして、横抱きにして全速力でフリッツの寝室へと戻った。
そっとフリッツをベッドに寝かせると、まずは意識が朦朧としているフリッツに医者から渡された苦い匂いのする薬を水に混ぜてから、少しずつ確実にフリッツに飲ませた。
それからすぐに暖房器具で部屋全体を最大限に暖め、凍えるように冷たい水道の水を風呂で使う桶に溜めて小さめの清潔な布巾を水に浸して絞り、フリッツの顔の汗を優しく拭いてやってから、もう1度水に浸して絞って、冷たい布巾をフリッツの汗の浮かぶ額にのせた。冷たい布巾を熱い額にのせると、小さくフリッツがほっと息を吐いた。
バーバラはフリッツから1歩も離れたくない思いをなんとか抑え、台所へ行ってヤカンでお湯を沸かし、フリッツがいつでも食べられるように生姜をきかせた穀物粥を手早く作った。
胃の負担にならないものを食べさせ、薬を飲ませて、兎に角熱が下がるまで安静にさせる。
何度も医者から聞いたこと頭の中で復唱しながら、バーバラは未だにポロポロ涙を溢しつつ、フリッツの為にあれこれ動き回った。
フリッツが目覚めると、必ず湯冷ましを飲ませて、食べられそうなら1口だけでも穀物粥を食べてもらい、医者の説明通りの時間がくる度に、ぐったりしているフリッツに苦い匂いのする薬を飲ませた。
汗でぐっちょりの服だと良くないと聞いていたので、お湯を沸かして、汗でぐっちょりの服を脱がせて、お湯に浸して絞った少し熱めのタオルでフリッツの痩せた身体を優しく拭いて、手早く乾いている清潔な服に着替えさせた。
そんなことを2日程続けていると、フリッツは徐々に熱が下がり、3日目には完全に熱が下がってベッドの上に自力で座れる程回復した。フリッツが普段と然程変わらない顔色になって、フリッツの額に小さめの肉球のある自分の掌で触れて不自然な程熱くないことを確かめると、バーバラはまたポロポロ涙を溢した。安心したら気が緩んでしまったのだ。
そんなバーバラをフリッツは呆れた顔で見つめた。バーバラは泣きながら、追加で卵を入れた穀物粥を作り、フリッツに食べさせ、念のためフリッツに薬も飲ませてから、もう治ったと言ってベッドから出ようとするフリッツを押し止めて、最終的には泣き落としで後1日安静に過ごしてもらうことに成功した。
本当に完全に治ったと言い張るフリッツが心配で、バーバラは普段の格好をしているフリッツに念入りに何枚も服を着せ、その上から分厚い毛布でぐるぐる巻きにしてフリッツを有無を言わさず横抱きに抱えあげて、医者の元へと向かった。
医者はまた泣きそうな顔をして、憮然とした顔をしているフリッツを横抱きにしているバーバラを呆れたように見てから、2人を家にいれ、診察用の部屋でフリッツを診察し、治っていると太鼓判を押した。
それを聞いたバーバラがまたポロポロ涙を溢し始めると、2人の人間は思わず顔を見合せ、呆れたようにバーバラを見た。
涙を流しているバーバラの頭をフリッツが溜め息を吐きながら両手でわしゃわしゃと撫で回した。耳もぐにぐにされる。涙で濡れている頬や首の辺りまでフリッツに無遠慮に撫で回された。そのことで少し落ち着いたバーバラが泣き止むと、フリッツは医者に騒がせた詫びと言って、多めの診察代と薬代を払った。フリッツは再び毛布でぐるぐる巻きにして運ぼうとするバーバラの頭をひたすら撫で回して落ち着かせ、自分の足で歩いて本屋兼自宅に帰った。
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風邪が完治していると医者に太鼓判を押してもらった翌日。
数日ぶりにフリッツは店のカウンターの椅子に座っていた。何故か過保護になったバーバラに問答無用で厚めのカーディガンを2枚重ね着させられた上にバーバラの私物の草色のマフラーを巻かれ、膝にはいつの間に用意したのか分からない温かい膝掛けをかけられ、足元には暖房器具まで置かれた。いくら気候が寒くて病み上がりでも、これでは流石に室内では暑い。しかし、どれか1つでも外そうとすれば、キューンと悲しげな鳴き声を出し、涙で瞳を潤ませるバーバラがいるのだ。ここまで誰かに心配なんてされたことがないフリッツは、なんだかむず痒いのを我慢して、ついでに少し暑いのも我慢してカウンターの椅子に座っている。
そんなもこもこになっているフリッツを、ドーバは面白そうに眺めた。手には美味しそうな林檎が入った籠を持っている。
「風邪だって?」
「……もう治った」
「近くのお爺ちゃん先生に聞いたよ。バーバラめちゃくちゃ泣きながらお爺ちゃん先生ん家に行ったんだって?」
「まぁな」
「やー。今もなんか心配そうにそわそわしてるし。可愛いねぇ、バーバラ」
「…………」
「まさか君がバーバラの言うことをそうやって大人しく聞くなんてね。明日は大雪だよ」
「……泣かれる方が面倒なんだよ」
「おや。愛されてるねぇ、フリッツ」
「……アホか」
「ふっふっふ……。まぁ、無事治ってよかったよ。あ、これ2人で食べてね。美味しいって評判のやつなんだ」
「……悪いな」
「いやいや。ここが閉まっていると、楽しみがいくつも減るからね」
「……あぁ」
「じゃあ、またバーバラを泣かさないように身体には気をつけるんだよ」
「わかった」
「ふふっ。また来るよ」
ドーバは今日は3冊本を買って帰っていった。フリッツの手の中にある籠には、美味しそうに色づき、甘い匂いを放つ林檎がいくつも入っている。
その夜、フリッツは初めてバーバラと一緒に夕食を食べ、デザートに甘くて美味しい林檎を噛った。
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