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69:頼み事

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アーベルは密かに憂鬱な溜め息を吐いた。今は伯父のフリオと共に、魔術研究所へと向かい馬を走らせている。朝も早いというのにじりじりと照りつける強い日射しが不快である。これから魔術研究所で魔術研究所所長にとある頼み事をしに行くのだ。それが憂鬱でならない。

アーベルは数日前から、医学研究所の別の部署に所属している男に口説かれている。それなりに顔がよくて医者としても研究者としても優秀なその男は自信に溢れていて、アーベルを落とせると確信しているような奴だ。自分に自信が持てないアーベルが1番嫌いなタイプである。食堂で食事をする度に話しかけてくるし、一昨日なんて、その男と会うのが嫌でわざわざマーサ様に頼んで弁当を用意してもらって研究室で昼食を食べたというのに、昼休憩中にトイレに行ったらトイレで待ち伏せされていた。気持ちが悪い。
それを昨日祖母フェリ達に話したら、エドガーがとんでもないことを言い出した。
『誰かに恋人のフリでもしてもらうとかどうでしょう』
その意見に賛同もとい面白がった面々の間で、相手は誰がいいか話し合われ、結果として魔術研究所所長に頼むことにもれなく決まってしまった。曰く『まるで接点がない者よりも、最近祭りで知り合った相手の方が説得力があるし』だそうだ。更に魔術研究所所長という立場やあの顔の怖さから、根性ない奴ならそれだけで引くだろうと。引かなかったらどうするとか、まぁ普通にいい人なんだろうけど俺も怖いんですけど、そもそも男と恋人ってやだ、みたいなことを言ってごねてみたが、無駄だった。特に何故か父アルジャーノが乗り気で、『フリオ兄上の友達なんだし大丈夫だって!所長はマーサとも仲良しだし!』と言って、結果今日の朝早くから伯父フリオと共に魔術研究所へと行く羽目になったのである。祖母フェリ達もついてきたがったが、そこはひたすらごねにごねて諦めさせた。風の神子や王族がいたら、相手が断れないだろうと。魔術研究所所長に恋人や好きな相手がいる可能性だって普通にあるんだぞ、と。そう。アーベルは断られる気満々だった。フリとはいえ恋人になってしまったら、暫くあの怖い顔と何度も顔を会わせることになるのだ。おまけに汚部屋の住人だ。きれい好きで若干潔癖入っているアーベルにはあの部屋に行くことが耐え難い。絶対自宅もきっったない筈だ。普通にいい人かもしれないけど、部屋が汚すぎる時点でなんかもう嫌だ。無理だ。合わない。

魔術研究所についてしまった。アーベルは憂鬱な気分でご機嫌な伯父にくっついて所長室目指して階段を上がった。


「フリオ伯父上。やっぱ止めない?ほら、今日って世間一般的には休みじゃん。所長さんも休みの日に押し掛けられても面倒だろうし。そもそも研究所にはいないんじゃない?いても仕事してるって。仕事の邪魔するのはよくないんじゃないかな?」

「ん?大丈夫だぞ。リカルドは研究所に殆んど住み着いているから、休みの日でも確実にいる。休みの日にはいつも個人の研究をやってるんだ」

「やー。それなら尚更邪魔をするのは如何なものかと……」

「まぁ、リカルドなら嫌なら普通に断ってくる。ダメ元でも頼むだけだ」

「……それをしなくていいんだけど」


話していると所長室についてしまった。フリオがドアをノックして、中から返事がないのに勝手にドアを開けた。


「起きろリカルド」


おそるおそる部屋を覗き込むと、きったない部屋のソファーの上で毛布に丸まっている所長をフリオが叩き起こしていた。どうやら寝ていたらしい。寝起きのボサボサになっている所長の長い髪が見える。


「……フリオ」

「おはようリカルド」

「……もう少し優しく起こしてください。今何時ですか?」

「9時前」

「あー……寝たのが4時間前なんですよ……」

「また徹夜か?」

「新しい魔導具を思いついたものですから。あれ?フリオが来るのって明日じゃありませんでした?」

「その予定だったんだが、ちょっとした頼み事ができてな」

「頼み事ですか。私に?」

「あぁ」

「話が長くなりそうなら先に食堂で朝食をいただいてもいいですか?朝食を食べないと頭が動かないんです、私」

「いいぞ。食堂に行こう」

「はい。着替えますので少々お待ちを。……おや、アーベル様もご一緒でしたか」


ボサボサ頭で、寝起きだからかいつもより3割増しで凶悪な目付きの所長がドアから覗き込んでいるアーベルを見た。目があった瞬間、思わずビクッとしてしまう。顔が怖い。
所長がソファーから起き上がり、服を脱ぎ出した。服を脱ぎながらアーベルの話しかけてくる。


「おはようございます。アーベル様」

「お、おはようございます」

「今日は天気がいいようですね。窓からの日射しが既に暑いです」

「そ、そうだね……」

「こちらに来る時に汗をかかれたのでしたら、誰でも使える大浴場がございますよ」

「い、いえ。その、結構です……」


所長がパンツ1枚の姿になった。その姿のまま部屋にある棚に置いてある紙袋から服を取り出して着始めた。ちなみに脱いだ服はそこら辺にポイッと放置である。……部屋が汚くなる過程を見た気がする。
所長が着替えると、ボサボサ頭の所長に案内されて1階の食堂へと移動した。







ーーーーーー
「いいですよ」


食堂で朝食を食べた後、再び所長室に戻ってフリオが事情を詳しく話すと、所長は未だにボサボサ頭のまま頷いた。マジか。嘘だろ。断れよ。
今は埃まみれのきったないソファーに座り、所長と向かい合って座っている。アーベルは隣に座るフリオにピッタリくっついていた。


「恋人はいたことありませんし、まぁ年に何度か遊ぶ相手はおりますが、そちらは暫くは断りましょう」

「ん?遊び相手がいるのか?」

「多くても年に3回程度ですけどね」

「ふーん」


遊び相手がいるなんて不潔である。そんなのとフリでも恋人になるなんて、所長はよくてもアーベルが嫌だ。なんとか断らせたいが、何を言えばいいのか分からない。


「パフォーマンスでデートとかした方がいいですか?」

「そうだな。2人で街にでも行って、人目の多いところをぶらついたらいいんじゃないか?アーベルの顔はそれなりに知られているようだから、すぐに噂になるだろ」

「街……最後に行ったのは何年前ですかね……?」

「引きこもりめ。この間は祭りに行ったのだろう?」

「まぁ。マーサ様からたまには魔術師街の外に出ろと言われまして。でも行ってみてよかったです。存外面白かったので」

「そうか。トリッシュにも会ったんだろ?可愛いだろ、俺の妹」

「そうですね。とても明るい利発そうな方でした」

「そうなんだよ。嫁にはやらんぞ」

「もらえませんし、そもそも私は異性愛者じゃありませんよ」

「ん?そうなのか?」

「えぇ。男としかしたことがないですね。女性を見てどうこう思ったことがないので、多分違うと思います。まぁそもそも恋愛関係に興味が持てないのですけど」

「ふーん。なら都合がいいな。別にアーベルに惚れたりしないだろ?」

「えぇ。美しいとは思いますが、それだけですね」

「ちなみに好みは?」

「んー。……セックスが上手ければ、美醜はどうでもいいですね」

「即物的だな」

「わざわざ面倒な恋をするより、手っ取り早く気持ちよくなれる方がいいでしょう?それに魔術の研究と仕事で基本的に忙しいものですから」

「ま、忙しいのは分かるけどな。花街には行かないのか?」

「行きませんよ。あそこまで行くのが面倒です」

「出不精め」

「なんとでも」

「まぁいい。じゃあアーベルを頼むな」

「分かりました。アーベル様」

「は、はいっ」

「しばらくの間よろしくお願いいたします」

「こっ、こちらこそ……その、お願いします……」

「あ、一応恋人という体ですので、お名前を呼び捨てさせていただいてもよろしいですか?私のことはリカルドとお呼びください」

「あ、はい」

「さて……どうしましょうか……来週の休みの日にデートでもしてみますか?私はデートというものがよく分からないのですが、とりあえず2人で街をぶらつけばいいのですよね?」

「父上に効果的なデートコースを聞いておく」

「お願いいたします。クラウディオ分隊長でしたら、伊達男ですし、おモテになるので詳しいでしょうね」

「父上は母上一筋だぞ」

「そのようですね。ただ、少し前に他領から来たどこぞのご令嬢がクラウディオ分隊長に惚れて軍詰所に押しかけたなどという噂を聞いたものですから」

「そうなのか?」

「えぇ。わりと定期的にその手を噂を耳にしますね」

「……もしかして父上ってマジでモテるのか?」

「モテるらしいですよ」

「ふーん」


アーベルが止める間もなく話がなんとなくまとまってしまった。今はあんまり関係がない噂話をしている2人についていけない。
本当に顔が怖くて部屋がきったない遊び相手がいるような男と恋人のフリをしなきゃいけないのか。普通に嫌だ。あの苦手なタイプの男に言い寄られるのも嫌だが、こっちと恋人のフリするのも嫌だ。だが今更嫌とも言えない。アーベルの性格上無理だ。
アーベルはポンポン会話する魔術師2人に気づかれないように、こっそりまた憂鬱な溜め息を吐いた。
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