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8:春になり

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季節はすっかり春になった。
スウィードは記録課に無事異動ができた。給料は下がるが、それなりに貯蓄はある。家は持ち家だし、アンリを養うには問題ない額の収入である。老夫婦の給与だってちゃんと払える。記録課に突然やってきたエリートコースを進んでいた猫獣人に、記録課の文官達は戸惑っていたが、スウィードは別に気にしないことにした。どこにいても真面目に仕事をするだけだ。

スウィードはアンリを連れて、毎週土曜日の午後からフリッツの家に行き、その後ドーバの家を訪ねて泊まるという日々を送っている。
離婚して間もないのに、アンリがいるとはいえ男の家に泊まることに老夫婦が難色を示すかと正直戦々恐々としていたのだが、老夫婦は是非とも行ってこいと言った。
初めてドーバの家に泊まってから帰った日の夕食や風呂の様子を見ていたからだ。
スウィードはその日の夕食からドーバの真似を始めた。必ず『これは◯◯だ。◯◯な味がして美味しいぞ』とアンリに説明しながら口にスプーンを運ぶと、アンリは素直に口を開いて食べてくれた。初めてそうやって食べてくれた時、スウィードは感動して涙ぐんだ。すぐに大きな声で老夫婦を呼び、アンリが食べてくれるところを見せた。老夫婦もスウィードがいない昼間は時間をかけて苦心して食べさせていたので、とても驚き喜んだ。
風呂でも服を脱がせるところから、1から今から何をするとアンリに説明しながらやると、今まで程嫌がらず、スウィードは初めてアンリに引っかかれることなく風呂を終えることができた。これにも老夫婦は驚き、そしてとても喜んだ。マリアがいた頃は、マリアがアンリを風呂に入れる度に手伝っていたリリアや、離婚して本格的にスウィードが世話をするようになるまでアンリを風呂に入れていたナダルは、少なからず嫌がるアンリに引っかかれたり噛みつかれたりしている。
食事にしろ、風呂にしろ、2人の幼子の世話の常識や経験則は基本的にスウィードのものだ。スウィードは何も言わなくても自分から何でもパクパクよく食べていたし、風呂も自分から進んで遊びながら入っていた。だから2人とも、アンリに『これはなんだ』『これから何をする』と逐一説明してやるという発想がまるでなかった。スウィードも同じだった。老夫婦にドーバの真似をしてみたことを告げると、老夫婦は驚き、また喜んだ。『よい人の縁を得られた』と。アンリはとてもドーバに懐いているし、ドーバの観察はスウィードのアンリとの接し方の参考にもなる。更に読み書きまで教えてくれるのであれば、是非ともお世話になった方がいいと、2人に強く後押しされた。毎週土曜日にドーバの家に泊まるとなれば、老夫婦もゆっくり休ませてやることができる。スウィードはドーバの好意に甘えさせてもらうことにした。

ドーバとセックスをしたのは、初めて泊まった時だけだ。その次の時からはドーバとアンリの3人でドーバの寝室で寝ている。ドーバが『アンリ1人じゃ目が覚めちゃった時寂しいから、一緒に寝ようよ』と言ったからだ。アンリを真ん中に3人でベッドに入り、ドーバが絵本をアンリに読んでやると、アンリはすぐに寝ついた。スウィードもつられてすぐに寝落ちた。そのまま2人とも、朝まで1度も起きることなく熟睡できた。一晩熟睡すれば、アンリの寝起きは悪くなく、朝食も素直に食べてくれた。それがあってからは、スウィードは家でもアンリと一緒に寝るようになった。アンリと一緒にベッドに入って、毎晩絵本を読んでやる。スウィードはドーバ程上手く絵本を読んでやることができないが、つっかえつっかえの単調な読み方でもアンリは大人しく聞いてくれる。数日も経てば、アンリはスウィードが絵本を読んでいる最中に、スウィードにくっついて眠るようになった。自分からくっついてきたアンリにスウィードは感動し、じんわり涙を浮かべた。
スウィード自身も食事をとる余裕ができ、睡眠もとれるようになった。痩せて毛艶が悪くなっていた身体も、完全に春の気候になる頃には、元通りになった。全てはドーバのお陰である。ドーバには感謝してもしきれない。






ーーーーーー
気持ちのいい春の日射しを浴びながら、スウィードはアンリと手を繋いでフリッツの本屋を目指して歩いていた。アンリはドーバのお陰で、まだ書けはしないが少し文字が読めるようになっており、1人でも小さな声を出して絵本を読んだりしている。ドーバに沢山本を貰えるが、スウィードも何かアンリに買ってやりたいので、2週間に1度はフリッツの家に行く前に、店に行こうと決めた。フリッツの店には絵本も児童書もそれなりに置いてある。小さい店だが、客層も上品な感じで落ち着いた雰囲気なので、賑やかでエロ本も普通に置いてある大きな書店よりも、まだ小さなアンリを連れて行きやすい。

フリッツの店に着いて店のドアを開けると、カウンターの所に見慣れた赤毛の人間の雄がいた。すかさずアンリがスウィードの手を離して、ピューっと走ってその男の足に抱きついた。ドーバである。


「おや、アンリ。こんにちは」

「……ちは」

「こんにちは。ドーバ」

「こんにちは。スウィード。本を買いに来たのかい?」

「はい。アンリに絵本を買おうと思って。1人の時も音読するようになってきましたから」

「ふふふっ。よかったねぇ。アンリ。頑張ってるもんね」

「うん」


ドーバが穏やかな優しい笑顔でアンリの頭を撫でた。アンリはゴロゴロ小さく喉を鳴らして喜んでいる。
スウィードは今日も陰気な雰囲気なフリッツにも挨拶をした。フリッツは雰囲気は陰気だが、目は優しくドーバに懐くアンリを眺めている。


「今日はお義母さんがケーキを焼くそうだ。うちの子達も楽しみにしててな。よければ一緒に食べてくれ」

「ありがとうございます。是非いただきます」

「父上がそろそろアンリにも剣を教えたらどうかと言っていたんだが」

「剣ですか?」

「あぁ。獣人に身体の使い方や人間相手の力加減を教えるのには丁度いいとバーバラも言ってた」

「あぁ。それは確かに。そういえば以前にも言っていましたね」

「うちの末っ子も今週から始めたばかりなんだ。父上がよければアンリもまとめて教えると言ってた」

「よろしいのですか?その、……元将軍閣下に教えていただくなんて」

「今は単なる隠居の嫁馬鹿で孫馬鹿のじいさんだ。いいんじゃないか?ナートもアンリが一緒だと張り合いも出るだろう」

「……それでは、厚かましいのですがお願いしてもよろしいでしょうか」

「あぁ。遊ぶ時間半分、稽古の時間半分でやれば子供達も楽しいだろう。父上も子供達の相手をするのが楽しいようだから、まぁ気楽に頼んでみるといい。多分今日行ったら、父上から話をされる筈だ」

「分かりました。本当にありがとうございます」

「構わない。アンリが来ると子供達がすごく喜ぶからな」

「……ありがとうございます」


ぶっきらぼうなフリッツの言葉が嬉しくて、スウィードは控えめに微笑んだ。気づけばスウィードの隣にいたドーバとアンリの姿がない。耳をすませば、どうやら店の絵本コーナーでバーバラと話しているようだ。一緒に絵本を選んでいるらしい。スウィードがフリッツと子供達の話をしていると、絵本を両手で抱き締めているアンリをドーバが抱っこしてカウンターに戻ってきた。ドーバは楽しそうにニコニコしている。


「いいのが見つかったよ。僕も読んだことがない最新作。今夜一緒に読むよ!」

「はい」


子供のように目を輝かせるドーバが少し可笑しくて、スウィードは小さく笑って頷いた。アンリは上機嫌に細い尻尾を揺らしている。
会計をしてからドーバも一緒に店を出た。今日は折角なので、一緒にフリッツの家に遊びに行くことにしたみたいだ。絵本をスウィードの大きめの肩掛け鞄に入れ、アンリの手をドーバと両側から握り、フリッツの家へと歩いていく。


「スウィード。君、最近笑うようになったね」

「そうですか?」

「うん。いいことだね。君が笑うとアンリも嬉しそうだしね」


ドーバの方がなんだか嬉しそうに笑った。自分はそんなに笑っていなかったのだろうか。確かに離婚してからは、自分のことだけに集中していたり、アンリの世話をするようになってからは兎に角必死だった。自分が楽しいと思うことも、アンリに笑いかける余裕もなかったのかもしれない。
アンリをチラッと見下ろせば、機嫌良さげにゆらゆら尻尾を揺らして歩いている。
アンリがあんなに会ったばかりのドーバやハイル達に懐いたのは、いつも優しげに笑っているからかもしれない。老夫婦にも、それなりに懐いてはいると思うが、少し前まで老夫婦も疲れたような顔をしていることが多かった。スウィードも老夫婦も笑う余裕がなかったのかもしれない。
スウィードは、ドーバはなんだか不思議な人だと思った。アンリだけでなく、スウィードの心にもするりと笑顔で入ってきた。スウィードに様々なことを気づかせ、現状の打開策まで教えてくれた。ドーバの顔を見ると、なんだかスウィードも気持ちが安らぐ。
ドーバのお陰で、スウィードも老夫婦も笑えるだけの余裕ができた。アンリも少しずつだが、以前よりも格段に懐いてきてくれている。その事が嬉しくて堪らない。心も身体も疲れきっていたスウィードを救ってくれたのはドーバだ。本当に感謝している。自分はドーバに何か返せるのだろうか。
頭の片隅でぼんやりそんなことを考えながら、スウィードはフリッツの家の玄関の呼び鈴を押した。







ーーーーーー
ハイル達と何時間も全力で庭で遊んで、アンリは疲れて寝てしまった。次にフリッツの家に行く時から、アンリはナートらと共に剣を習い始めることになった。庭で遊ぶ子供達を見守っている時に、本当にダリスから提案されたのだ。剣はスウィードでも教えられるが、一緒にやる相手がいた方が、互いにいい刺激になるし、多分楽しいだろう。スウィードは恐縮しながら、お願いしますとダリスに頭を下げた。練習用の剣は、アンリのものが用意できるまで、クレスが初めて使った練習用の剣をとりあえず貸してもらえることになった。来週の日曜日の午後に武器屋にアンリ用のものを買いに行く。犬獣人のクレスと猫獣人のアンリでは根本的に体格が違うので、今のアンリの体格にきちんと合った練習用の剣を使った方がいい。土曜日の午前中に買いに行けたらいいのだが、来週の土曜日は残念ながらスウィードは仕事なのだ。
アンリを本格的に世話をするようになってから、子供の世話があるからと毎週末は必ず休みを取ってきた。しかし、記録課で毎年春恒例の大掃除ならぬ大整理があるのだ。流石に異動したばかりで記録課では新人のスウィードが休むわけにもいかない。幸い午前中で終わるそうなので、来週の土曜日の午前中だけは出勤である。

眠るアンリを抱っこして、ドーバと肩を並べて歩く。ドーバは禁断症状が……と言って、歩きながら薄めの本を読んでいる。人通りも少なく、辺りは静かで、暖かで優しい夕陽と抱っこしているアンリの子供体温で、なんだか眠くなってしまう。スウィードは小さく欠伸をした。ルリアが作ってくれたケーキは美味しかった。林檎のケーキは甘さが少し控えめで優しい味がした。庭をナートと一緒に走り回っていたので空腹だったのだろう。アンリも1切れを残さず、自分から食べた。アンリも美味しかったのか、目を細めて、少し笑みを浮かべながら食べていた。フリッツ一家にも本当に助けられている。何かお礼がしたくて、毎回ちょっとした手土産として、近所のお菓子屋のお菓子を持っていっているのだが、そろそろ手土産がマンネリ化している気がする。スウィードも甘いものでも作れたらいいのだが、軍で教えられた野戦料理しか作れない。最近は多少なりとも気持ちにも体力的にも余裕が出てきた。


「ケーキを作れないかな……」


ぼそっと小さな声でスウィードは呟いた。アンリが喜んで自分からルリアの林檎のケーキを食べていたし、自分で作れたら手土産のマンネリ化もなんとかできる気がする。スウィードとしては、家にお邪魔して遊んでもらっているのだから手土産を持っていくのは当然のことなのだが、毎回ルリアとバーバラに恐縮されるのだ。店で買ったものではなく、手作りのものだったら、そんなに恐縮されないのではないだろうか。老夫婦に作ってもらうということもできるが、それは最終手段だ。
スウィードはできたら自分でケーキを作って、アンリを喜ばせたい。手土産にしたいというよりも、そちらの方が大きい。アンリは説明しながら食べさせたら一応食べてくれるが、滅多に自分から食べ物を食べようとはしない。どうにも興味が薄いらしい。育児書にも載っていた。食事に興味がない子供もたまにいると。その場合は子供に興味を持たせるよう工夫する必要があるとも。子供には個性が各々あるので、工夫は自分で子供に合わせて考えるしかないとも書かれていた。
リリアが作る料理はスウィードは美味しいと感じるし、多分アンリの口に合わないわけではないと思う。産まれて乳離れした頃からずっと食べているので、リリアの味に慣れてはいると思う。
アンリはフリッツ家で貰うルリア手作りのお菓子はいつもハイル達と一緒に食べている。甘いものなら自分から食べてくれるのかもしれない。
お菓子ばかりを与えるわけにもいかないが、まずは食べることへの興味の第一歩として、いっそのことスウィードとアンリでケーキを作ってみてはどうだろうか。もしかしたら一緒に作れば楽しいかもしれないし、美味しく作れたら、アンリが喜ぶかもしれない。
我ながら名案な気がする。問題はどうやってアンリをケーキ作りに参加させるかだ。あと、スウィードはケーキなんて作ったことがないので、教えてくれる先生か、ド素人だけでも大丈夫そうな教本か何かが必要である。
スウィードは、チラッと隣を歩く、黙々と本を読んでいるドーバを見た。ドーバの『本屋敷』はもう近くに見えている。あの『本屋敷』に料理本はないのだろうか。
ドーバの許可がもらえれば、できたら探してみたい。

アンリと共にケーキを作り、アンリに喜んでもらい、尚且つ食べることに興味を持ってもらうという、スウィードにとっては大きな目標ができた。まずはドーバの『本屋敷』で料理本がないかを探すところからだ。なければ本屋で買えばいい。
思いがけず具体的な目標ができたスウィードは、静かに歩きながら、密かに闘志を燃やした。
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