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わたしの帰る場所
236話 私はどうやら、周囲に盲目だったらしい
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「閣下、本日の予定をお伝えします」
「ありがとう」
自動車から降りて外気に触れる。その瞬間から私はひとりの宰相として扱われる。どんなにさわやかな朝の空気さえも、ひりつくように首筋を撫でる。
「午前中は教育小委員会があります。その後、財務省との会議があります」
「了解」
「午後は、国際交流会館の落成式に出席される予定です。その後、内務省で開催される部会にご参加いただきます」
「わかった」
歩みを止めずに私の首席秘書官から予定表を受け取る。内容は頭に入っているが、宰相動静として一般に公開される文書のため必ず目を通す。なるほど、私は今日も忙しい。客観的にそう思う。これまでもそうだった。
時々感じる。私はこのために生まれたと。なるべくして宰相となった。そう思い込める程度には、この忙しなく公的な生活が性に合っている。
廊下を進めば誰もが道を譲り頭を垂れる。偉ぶりたいわけではないが慣れてしまった。オリヴィエ・ボーヴォワール。その名はもう私の元を離れて、ひとつの象徴のようなものだ。
――ああ、それでも。秘書官たちの口数が少なくなった。私はその目を見ない。あと何日、こうしていられるだろう。
「――ここにあった観葉植物は?」
執務室に入り、机上を見て開口一番私はそう尋ねた。秘書官のひとりが「――ああ。大きくなったので、植え替えると女官が持って行きました」と述べた。私はお気に入りの玩具を盗られた子どものような気分になる。そんなことは誰にも言わないが、あの植物を私は恋人の名で呼んでいた。
「――ソノコは――帰ったかな」
独白を首席秘書官が拾った。彼は「ええ、そのようです」と告げた。とても有能な男だと思う。私の後任は、彼だろうか。
一日一日が、重くて、惜しくて。先延ばしにできない結論が、私の心を虚しくする。
兄、ブリアック亡き今――私が、この椅子を空ける日は、近づいている。
「花を……贈ろうかな」
「手配しましょう」
「ラキアンサを。黄色がいいな」
「承知しました」
彼には、なにを贈ろうか。顔色ひとつ変えず私に仕えるその姿を見て思う。せいぜい、綺麗にして席を立つことにしよう。
そうして、一日がまた終わって行く。公僕として捧げた私の命も、名前も。突き返されて宙にぶら下がり、受け取らずに済むよう私は両手を隠した。
「――お疲れですか。閣下」
移動中の自動車の中、助手席の首席秘書官は鏡越しに私の顔色を窺った。私は少しほほ笑んで、「いや、陽の光が眩しかっただけだ」とつぶやいた。
「ウスターシュ、あなたはいくつだったろうか」
夕方の日差しが窓から差し込むころ、ふと私は尋ねた。首席秘書官はふっと目を上げて「三十二です」と答えた。
「そうか。若いな」
「ありがとうございます」
「しかし、成熟した大人の年齢だ」
「そうありたいと思います」
「結婚の予定は」
「今のところ陰形ありません」
「そうか」
私は、彼が宰相としてリシャール殿下の隣りに立つ姿を想像した。金髪碧眼の美青年と、その杖となる茶髪の誠実な男。もしかしたら、私よりずっと様になるかもしれない。
「――なにを、考えておいでですか」
低い声で彼は言った。私は「なにも」と言った。他の秘書官はみな出払い、今部屋には私と首席秘書官のみだった。彼は私の執務机の前まで来て、私を見下ろして言った。
「……あなたの首席秘書をなめないでいただきたい。顔に出さなくても出てますよ。そのろくでもない考え、捨ててください」
すっと私は彼を見た。無表情だが、怒っている。お互い毎日飽きるほど見る顔だ。かすかな違いでもわかってしまう。
「あなたは、私を置いて行くつもりなのですね」
断定的な口調で言われた。なにを当然のことを。私が口を開くよりも早く、彼は「私は、あなたの秘書官なんですよ」と言う。
「この数年間、来る日も来る日も、あなたを起たせるために働いてきた。あなたが現職で本領を発揮できるように尽くして来た。その私の努力を、否定なさるのか」
「まさか。感謝しているよ、ウスターシュ」
「なら、なぜ言ってくださらないのです。『着いて来い』と」
私は瞠目した。言われたことが咄嗟には判断できず、なにも言えないでいると彼は続けた。
「何度でも言います。私はあなたの首席秘書官です。陰になり日向になり、あなたの手足として生きてきた。今さら切り落とすのですか」
「ウスターシュ、意味がわからない」
「ああ、そうでしょうよ。あなたはそういう人だ。完全なる公人で、自分のことを省みようとも顧みようともしない。それに、自分の周囲のことも」
彼は両手を机に着いて私と目線を合わせた。私はただ驚くばかりで、彼の言葉の解き明かしを待った。
「あなたの恋人にはとても感謝していたんですよ。あなたを仕事中に仕事以外のことを考える人間にしてくれた。それなのにやっぱりからっきし駄目だ。あなたは自分をわかっちゃいないし、公僕であることを辞めようともしない。最後まで私情を挟まずに、ここを去ろうとしている」
当然のことではないだろうか。私が今考えるべきなのは、国政に大きな影響を与えないように退くことだ。そう考えたことを読んだかのように「そうじゃない」と彼は言う。
「――私は最初から、あなたに仕えているんですよ、オリヴィエ。公務員がどうの、官僚がどうのではない。あなたがそこに座っているから、私はここに立っているんですよ!」
どん、と机に拳が落とされる。驚くべき告白に、私は言葉がない。彼は舌打ちして「私にここまで言わせるなんて、あなたは有能なのか無能なのかわからないな」と言った。
「――言ってください。退職金はそれでいいです。一言一句間違えずに。『私に着いて来い』と」
めちゃくちゃだと思った。退職金は彼の持つ当然の権利だ。彼の労苦への正当な報酬だ。なので私は「懲戒されるわけでもないのに、なぜ退職金を受け取らないのか」と提言した。
「――私に、着いて来い。ウスターシュ」
つぶやくと、彼はにやりと笑った。
ああ、ソノコに会いたい。そして、今あったことを話して聞かせるんだ。
「ありがとう」
自動車から降りて外気に触れる。その瞬間から私はひとりの宰相として扱われる。どんなにさわやかな朝の空気さえも、ひりつくように首筋を撫でる。
「午前中は教育小委員会があります。その後、財務省との会議があります」
「了解」
「午後は、国際交流会館の落成式に出席される予定です。その後、内務省で開催される部会にご参加いただきます」
「わかった」
歩みを止めずに私の首席秘書官から予定表を受け取る。内容は頭に入っているが、宰相動静として一般に公開される文書のため必ず目を通す。なるほど、私は今日も忙しい。客観的にそう思う。これまでもそうだった。
時々感じる。私はこのために生まれたと。なるべくして宰相となった。そう思い込める程度には、この忙しなく公的な生活が性に合っている。
廊下を進めば誰もが道を譲り頭を垂れる。偉ぶりたいわけではないが慣れてしまった。オリヴィエ・ボーヴォワール。その名はもう私の元を離れて、ひとつの象徴のようなものだ。
――ああ、それでも。秘書官たちの口数が少なくなった。私はその目を見ない。あと何日、こうしていられるだろう。
「――ここにあった観葉植物は?」
執務室に入り、机上を見て開口一番私はそう尋ねた。秘書官のひとりが「――ああ。大きくなったので、植え替えると女官が持って行きました」と述べた。私はお気に入りの玩具を盗られた子どものような気分になる。そんなことは誰にも言わないが、あの植物を私は恋人の名で呼んでいた。
「――ソノコは――帰ったかな」
独白を首席秘書官が拾った。彼は「ええ、そのようです」と告げた。とても有能な男だと思う。私の後任は、彼だろうか。
一日一日が、重くて、惜しくて。先延ばしにできない結論が、私の心を虚しくする。
兄、ブリアック亡き今――私が、この椅子を空ける日は、近づいている。
「花を……贈ろうかな」
「手配しましょう」
「ラキアンサを。黄色がいいな」
「承知しました」
彼には、なにを贈ろうか。顔色ひとつ変えず私に仕えるその姿を見て思う。せいぜい、綺麗にして席を立つことにしよう。
そうして、一日がまた終わって行く。公僕として捧げた私の命も、名前も。突き返されて宙にぶら下がり、受け取らずに済むよう私は両手を隠した。
「――お疲れですか。閣下」
移動中の自動車の中、助手席の首席秘書官は鏡越しに私の顔色を窺った。私は少しほほ笑んで、「いや、陽の光が眩しかっただけだ」とつぶやいた。
「ウスターシュ、あなたはいくつだったろうか」
夕方の日差しが窓から差し込むころ、ふと私は尋ねた。首席秘書官はふっと目を上げて「三十二です」と答えた。
「そうか。若いな」
「ありがとうございます」
「しかし、成熟した大人の年齢だ」
「そうありたいと思います」
「結婚の予定は」
「今のところ陰形ありません」
「そうか」
私は、彼が宰相としてリシャール殿下の隣りに立つ姿を想像した。金髪碧眼の美青年と、その杖となる茶髪の誠実な男。もしかしたら、私よりずっと様になるかもしれない。
「――なにを、考えておいでですか」
低い声で彼は言った。私は「なにも」と言った。他の秘書官はみな出払い、今部屋には私と首席秘書官のみだった。彼は私の執務机の前まで来て、私を見下ろして言った。
「……あなたの首席秘書をなめないでいただきたい。顔に出さなくても出てますよ。そのろくでもない考え、捨ててください」
すっと私は彼を見た。無表情だが、怒っている。お互い毎日飽きるほど見る顔だ。かすかな違いでもわかってしまう。
「あなたは、私を置いて行くつもりなのですね」
断定的な口調で言われた。なにを当然のことを。私が口を開くよりも早く、彼は「私は、あなたの秘書官なんですよ」と言う。
「この数年間、来る日も来る日も、あなたを起たせるために働いてきた。あなたが現職で本領を発揮できるように尽くして来た。その私の努力を、否定なさるのか」
「まさか。感謝しているよ、ウスターシュ」
「なら、なぜ言ってくださらないのです。『着いて来い』と」
私は瞠目した。言われたことが咄嗟には判断できず、なにも言えないでいると彼は続けた。
「何度でも言います。私はあなたの首席秘書官です。陰になり日向になり、あなたの手足として生きてきた。今さら切り落とすのですか」
「ウスターシュ、意味がわからない」
「ああ、そうでしょうよ。あなたはそういう人だ。完全なる公人で、自分のことを省みようとも顧みようともしない。それに、自分の周囲のことも」
彼は両手を机に着いて私と目線を合わせた。私はただ驚くばかりで、彼の言葉の解き明かしを待った。
「あなたの恋人にはとても感謝していたんですよ。あなたを仕事中に仕事以外のことを考える人間にしてくれた。それなのにやっぱりからっきし駄目だ。あなたは自分をわかっちゃいないし、公僕であることを辞めようともしない。最後まで私情を挟まずに、ここを去ろうとしている」
当然のことではないだろうか。私が今考えるべきなのは、国政に大きな影響を与えないように退くことだ。そう考えたことを読んだかのように「そうじゃない」と彼は言う。
「――私は最初から、あなたに仕えているんですよ、オリヴィエ。公務員がどうの、官僚がどうのではない。あなたがそこに座っているから、私はここに立っているんですよ!」
どん、と机に拳が落とされる。驚くべき告白に、私は言葉がない。彼は舌打ちして「私にここまで言わせるなんて、あなたは有能なのか無能なのかわからないな」と言った。
「――言ってください。退職金はそれでいいです。一言一句間違えずに。『私に着いて来い』と」
めちゃくちゃだと思った。退職金は彼の持つ当然の権利だ。彼の労苦への正当な報酬だ。なので私は「懲戒されるわけでもないのに、なぜ退職金を受け取らないのか」と提言した。
「――私に、着いて来い。ウスターシュ」
つぶやくと、彼はにやりと笑った。
ああ、ソノコに会いたい。そして、今あったことを話して聞かせるんだ。
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