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『三田園子』という人
194話 わたしもあと一回やれば行けたと
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マンションを出て、駅の方向はどっちかな、と首を巡らせたところで、パッとクラクションがひとつ鳴りました。振り返ると、白い車。たぶん高級車。知らんけど。運転席には、一希兄さん。
後部座席に乗ろうとしたら、「なんで?」と子犬の瞳で言われました。助手席に乗りました。まあいいんですけど。
車を走らせながら、一希兄さんは「聞いていたよ」と言いました。
「ハウスキーパーの佐藤さんにお願いしてね。携帯を、通話のままにしてもらっていたんだ」
その声はうるんでいて。わたしは、信号の色を見ていました。一希兄さんは「やっぱり、謝ってはだめかい?」と尋ねてきて、わたしは「だめです」と言いました。
「行ってよかったと思っているので、わたしは。なので、謝らないでください」
どこへ向かっているのかは尋ねませんでした。でもすぐに、海岸線に着きました。一希兄さんが「小さいころ、勇二と三人で、ここまでピクニックに来たこと、覚えている?」とおっしゃっいました。いえ、ぜんぜん。有料駐車場へ車を入れて、二人で浜辺へ行きました。
「――私にとって、小田原は」
オープントゥのパンプスなので、あんまり深く中へ入り込むと砂が靴中に入りそう。つま先立ちで歩いていたら、一希兄さんが手を差し出してくれました。わたしはその手につかまって、その側まで行きました。
「……やさしい記憶の場所だった。でも、園子にとってはそうじゃなかったかもしれないことに、いまさら気づいた」
「謝っちゃだめです」
「うん……うん」
若いお母さんが、小さい子といっしょにシャベルで砂を掘り返したり埋めたりしていました。ただそれだけなのに、ちびっこはたのしそうです。一希兄さんもその二人の姿を見ていました。そして、「考えてみれば、私も君も、母とのあんな思い出はないかもしれないね」とつぶやきました。わたしはうなずきました。そして「でも、わたしも、小田原好きですよ」と言いました。
「一希兄さんの小田原は、どんなところですか」
わたしは尋ねました。どんな風に見えていたんだろうって。ちょっと笑って、「園子がいた時代とぜんぜん変わらないよ」とおっしゃいます。
「ああ……でも小学校は、私が通っていたときは、木造で。ちょうど卒業したくらいに今の新校舎になったんだ」
「あ、なんか写真で見ました」
「橋を渡ると白い塀が見えて。校門をくぐると迎えてくれる、あの校舎が大好きだった。悲しかったな、変わってしまって。もちろん、今の校舎も素敵だけれど」
「なんか、かっこいいですよね」
「そう。なかなかないよ、あれは」
わたしは「『メイ・サン・マーチス』のうわさ話とかありましたか」と聞いてみました。一希兄さんは吹き出しました。
「あったあった。夜中に校舎内を歩いているらしいって。ママーって言いながら」
「わたしのクラスではひとりでマイム・マイム踊ってるって話になってました」
「なんだそれ!」
ツボに入ったらしくて、兄さんは爆笑しました。そうやって七不思議情報は世代を超えて修飾されつつ引き継がれて行くわけです。でもウチのクラスちょっとおかしいとは薄々思っていました。たのしかったです。
ちびっこが、お母さんにだっこされて帰って行きました。なんかじりじり暑いしね。それを見てだと思いますけど、一希兄さんが「園子、だっこさせて」と言ってきました。
「えっ」
「いいかい。せーの」
「うきゃああああ」
だっこされました。はい。お姫様じゃない普通のやつ。一希兄さんは「……大きくなったね」と言いました。それは体重への言及でしょうか。どついていいですか。砂浜をちょっとだけ歩いて、兄さんは「……明日、ザンビアへ戻らなければならない」とおっしゃいました。
「そういえば、週末には戻るっておっしゃってましたね」
「うん。やだね」
「お仕事ですし」
「うん。でも、私が行っている間に、園子はいなくなるんでしょう」
一希兄さんの顔は見えませんでした。わたしはちょっと言葉を探して、結局「はい」と肯定しました。
「うん。やだね。本当にやだ」
「……ごめんなさい」
「謝るなら、連れて行っちゃうぞ、ザンビアに」
「そっちがごめんなさい」
「はっはっは」
かすかな浜風が、暑さを少し凪いでくれました。一希兄さんはぎゅっと腕に力を込めて、「さみしいよ」とおっしゃいました。
「見送る側の気持ちって、なかなかしんどいものだな」
「……毎年、お祝いします。『家族になった日』」
「うん。うん。ありがとう。私もお祝いするから。どこにいても。必ず」
わたしも、ちょっとハグし返しました。じいちゃんばあちゃんみたいに、いっしょに暮らすわけではなくて。お互い遠くにいて。わたしにとって、これまで兄たちは未知の存在で。知らないで終わるたくさんのことがあるだろうけれど。それでも、『家族』って思っていられるなら、それでいいかなって思う。
「――わたしに、『実家』をくれて、ありがとうございます」
そう思ったので、言いました。小田原のあのトロフィーのお家じゃなくて。一希兄さんは「そんな、泣けること言わないでよ」と涙声でおっしゃいました。
「旦那に飽きたら、いつでも帰っておいで」
「飽きません」
「即答。あー、もう。娘を嫁に出す父の気持ちこれかー! 殴りたいわあの写真」
「怒りますよ?」
「やらないよ!」
下ろしてくれました。そしてあらためてぎゅっとハグして、一希兄さんは「私のこと、忘れないでね」とおっしゃいました。
「もちろんですよ!」
「新しい『家族』ができても?」
「わたしの『実家の家族』は、一希兄さんと、勇二兄さんなので、それとは別物です」
「うん……ありがとう。うれしい。うれしいよ」
波の音が夏を作り出しているようでした。暑くて、ちょっときらきらしていて。だいじょうぶ。わたしの小田原の記憶も、とてもやさしいままでいられる。
「温泉行って、かまぼこ食べようか」
「小田原よくばりセットですね」
「うん。満喫しよう」
日帰り入浴して、ゲームコーナーのUFOキャッチャーで二千円溶かしました。わんこのぬいがかわいかったから。一希兄さんに交代したら一回で取ってくれました。解せぬ。
後部座席に乗ろうとしたら、「なんで?」と子犬の瞳で言われました。助手席に乗りました。まあいいんですけど。
車を走らせながら、一希兄さんは「聞いていたよ」と言いました。
「ハウスキーパーの佐藤さんにお願いしてね。携帯を、通話のままにしてもらっていたんだ」
その声はうるんでいて。わたしは、信号の色を見ていました。一希兄さんは「やっぱり、謝ってはだめかい?」と尋ねてきて、わたしは「だめです」と言いました。
「行ってよかったと思っているので、わたしは。なので、謝らないでください」
どこへ向かっているのかは尋ねませんでした。でもすぐに、海岸線に着きました。一希兄さんが「小さいころ、勇二と三人で、ここまでピクニックに来たこと、覚えている?」とおっしゃっいました。いえ、ぜんぜん。有料駐車場へ車を入れて、二人で浜辺へ行きました。
「――私にとって、小田原は」
オープントゥのパンプスなので、あんまり深く中へ入り込むと砂が靴中に入りそう。つま先立ちで歩いていたら、一希兄さんが手を差し出してくれました。わたしはその手につかまって、その側まで行きました。
「……やさしい記憶の場所だった。でも、園子にとってはそうじゃなかったかもしれないことに、いまさら気づいた」
「謝っちゃだめです」
「うん……うん」
若いお母さんが、小さい子といっしょにシャベルで砂を掘り返したり埋めたりしていました。ただそれだけなのに、ちびっこはたのしそうです。一希兄さんもその二人の姿を見ていました。そして、「考えてみれば、私も君も、母とのあんな思い出はないかもしれないね」とつぶやきました。わたしはうなずきました。そして「でも、わたしも、小田原好きですよ」と言いました。
「一希兄さんの小田原は、どんなところですか」
わたしは尋ねました。どんな風に見えていたんだろうって。ちょっと笑って、「園子がいた時代とぜんぜん変わらないよ」とおっしゃいます。
「ああ……でも小学校は、私が通っていたときは、木造で。ちょうど卒業したくらいに今の新校舎になったんだ」
「あ、なんか写真で見ました」
「橋を渡ると白い塀が見えて。校門をくぐると迎えてくれる、あの校舎が大好きだった。悲しかったな、変わってしまって。もちろん、今の校舎も素敵だけれど」
「なんか、かっこいいですよね」
「そう。なかなかないよ、あれは」
わたしは「『メイ・サン・マーチス』のうわさ話とかありましたか」と聞いてみました。一希兄さんは吹き出しました。
「あったあった。夜中に校舎内を歩いているらしいって。ママーって言いながら」
「わたしのクラスではひとりでマイム・マイム踊ってるって話になってました」
「なんだそれ!」
ツボに入ったらしくて、兄さんは爆笑しました。そうやって七不思議情報は世代を超えて修飾されつつ引き継がれて行くわけです。でもウチのクラスちょっとおかしいとは薄々思っていました。たのしかったです。
ちびっこが、お母さんにだっこされて帰って行きました。なんかじりじり暑いしね。それを見てだと思いますけど、一希兄さんが「園子、だっこさせて」と言ってきました。
「えっ」
「いいかい。せーの」
「うきゃああああ」
だっこされました。はい。お姫様じゃない普通のやつ。一希兄さんは「……大きくなったね」と言いました。それは体重への言及でしょうか。どついていいですか。砂浜をちょっとだけ歩いて、兄さんは「……明日、ザンビアへ戻らなければならない」とおっしゃいました。
「そういえば、週末には戻るっておっしゃってましたね」
「うん。やだね」
「お仕事ですし」
「うん。でも、私が行っている間に、園子はいなくなるんでしょう」
一希兄さんの顔は見えませんでした。わたしはちょっと言葉を探して、結局「はい」と肯定しました。
「うん。やだね。本当にやだ」
「……ごめんなさい」
「謝るなら、連れて行っちゃうぞ、ザンビアに」
「そっちがごめんなさい」
「はっはっは」
かすかな浜風が、暑さを少し凪いでくれました。一希兄さんはぎゅっと腕に力を込めて、「さみしいよ」とおっしゃいました。
「見送る側の気持ちって、なかなかしんどいものだな」
「……毎年、お祝いします。『家族になった日』」
「うん。うん。ありがとう。私もお祝いするから。どこにいても。必ず」
わたしも、ちょっとハグし返しました。じいちゃんばあちゃんみたいに、いっしょに暮らすわけではなくて。お互い遠くにいて。わたしにとって、これまで兄たちは未知の存在で。知らないで終わるたくさんのことがあるだろうけれど。それでも、『家族』って思っていられるなら、それでいいかなって思う。
「――わたしに、『実家』をくれて、ありがとうございます」
そう思ったので、言いました。小田原のあのトロフィーのお家じゃなくて。一希兄さんは「そんな、泣けること言わないでよ」と涙声でおっしゃいました。
「旦那に飽きたら、いつでも帰っておいで」
「飽きません」
「即答。あー、もう。娘を嫁に出す父の気持ちこれかー! 殴りたいわあの写真」
「怒りますよ?」
「やらないよ!」
下ろしてくれました。そしてあらためてぎゅっとハグして、一希兄さんは「私のこと、忘れないでね」とおっしゃいました。
「もちろんですよ!」
「新しい『家族』ができても?」
「わたしの『実家の家族』は、一希兄さんと、勇二兄さんなので、それとは別物です」
「うん……ありがとう。うれしい。うれしいよ」
波の音が夏を作り出しているようでした。暑くて、ちょっときらきらしていて。だいじょうぶ。わたしの小田原の記憶も、とてもやさしいままでいられる。
「温泉行って、かまぼこ食べようか」
「小田原よくばりセットですね」
「うん。満喫しよう」
日帰り入浴して、ゲームコーナーのUFOキャッチャーで二千円溶かしました。わんこのぬいがかわいかったから。一希兄さんに交代したら一回で取ってくれました。解せぬ。
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