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『三田園子』という人

156話 あれがわたしの始まりのとき、かもしれません

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『あんたいったいどこにいんだよーーーーーーー‼』

 受話器から漏れる声量にびびってちょっと耳から離しました。受け付けのお姉さんも軽くびびっていました。とりあえず「ごめん。今、福岡」と言いました。

『はああああああ? 今まで福岡いたの⁉ 連絡もせず⁉ ふっざけんな、ちょっとどこだ、現住所教えろ、前住んでたところか⁉』
「えっと……いや、ホテルなんだけど。今ホテルの電話借りて電話してる。違う電話からまた、かけていいかな?」
『まて、切んな、まて。とりあえずホテル名教えろ、行く』
「いやいやいや、ここに長居しないし。群馬戻るよ」
『まてよおい、状況説明しろや!』
「わかった、公衆電話に移動するから、十五分くらい待って」
『まて、切んな。まて。――元気なの?』

 愛ちゃんの声にわたしはボロ泣きして、受け付けのお姉さんはじゃっかん引いていて、わたしはその問いかけに「うん……元気」と答えました。
 とりあえずカプセルに戻って、アラームセットを解除しました。ロッカーからバッグを取って、絶滅危惧種の電話ボックスを探さなければ。そう思っていたら、受け付けのお姉さんがスマホで探してくれていて、ホテルを出るときに声をかけてくれました。たぶんワケアリだと察して同情してくれたんだと思います。ありがとうございます。すごく助かる。
 言われた通りホテルを出てちょっと歩いたところにありました。中に入って、百円玉を入れて自分のスマホに電話します。ワンコールの途中で『はい!』と応答がありました。

「園子です。ごめんね、何度も」
『何度でもかけてこい、むしろあんたが来い。どうしてたんだよ、今まで』
「うん……うん。なんて説明していいかわかんないけど。今日、気づいたら福岡に居て」

 たどたどしく説明しました。気がついたらぜんぜん知らない土地にいたこと。そこでいろいろな人に助けられてなんとか生活していたこと。ずっと愛ちゃんがどうしているか気になっていたこと。もうなんだかいろんなことが込み上げてきて、途中からしゃくりあげながら話していました。愛ちゃんはじっと聞いてくれていました。

『……それ、事件性あるやつじゃん』と言われて、「でも、いちおう五体満足なんだよね」と答えました。それ以外、どう説明していいかわからなくて。

『……とりあえず、こっち戻って来るんでしょ?』

 もう一枚百円玉を入れて「うん、うん、行く。行くよ」と答えました。愛ちゃんは『迎えに行く』と言ってくれましたが、心配しなくてもちゃんと行くと告げました。そしたら、『……部屋、そのままにしてあるから。ときどきあたしが行って、換気とかしてる』と言ってくれました。

「ありがとう。……ありがとう」
『いつ戻る?』
「あした、じいちゃんたちのお墓掃除に行こうかなって。それから」
『わかった。なにで来る? 新幹線?』
「たぶん」
『じゃあ、何時の便か決まったら、また電話して。てゆーか、明日また電話して。十四時』
「うん、わかった」

 約束をしてから受話器を置きました。バッグを覗いて、ハンカチを探しました。そしてはっとします。……オリヴィエ様のハンカチ。
 手にとって、ぎゅっとそれを目に当てました。オリヴィエ様が言ってくださった、「これから、私があなたの傍にいられない時間も……あなたの涙をぬぐうのが私のハンカチであってほしい」という声が思い起こされます。……オリヴィエ様がいっしょにいてくれているように感じました。しっかりしなきゃ。
 そういえばあのいい匂いの香料なんなのか聞きそびれたな、なんてことを思いました。聞けるのかな、また会えるのかな。会いたいのかな。……うん、会いたい。わたし、どうするんだろう。

 わかっています。『王杯』はそれを決めろって言っているんです。どっちにするか。どっちで生きるか。ソノコ・ミタか。三田園子か。

 それはわたしにはとても難しく思える問題で。単純にどちらかを選べないというだけのことではなく。
 わたしはこれまでの自分のことを少し思い出して、アウスリゼへ行き、戻って来ることがなければこうやって、『生きる場所』を考えることもなかっただろうことを気持ちの中で反芻しました。そしてそこまで考えたとき、ふっと頭の中に、鉄格子の向こう側に見た穏やかなサルちゃんの顔が思い浮かびました。

 ――ああ、そうか。……そうだね。サルちゃん。わたし、ちょっとだけ、あなたの気持ちを覗けたかもしれない。

 ぽつり、と電話ボックスに雨粒がひとつ降りかかりました。もしかして本降りになるのでしょうか。あわててハンカチをバッグにしまい、ホテルまで戻ろうと振り返って思いっきりびびりました。ちょっと飛び上がった。
 ドアの外に加西くんが立っていました。さっきはきっちりスーツでしたけど、紺のテーラードに白シャツと黒スキニー、ボディバッグ。髪も下ろして。若見え。だれかと思った。

「うわごめんまじでびびった」
「うんまじでびびられた」

 ホテルに行ったら受け付けの方が電話ボックスに行ったって教えてくれたんですって。行き違いにならなくてよかった。

「なに。だれと話してたの」
「群馬の友だち」
「男?」
「なんで」
「泣いてるし」

 バレてやんの。笑いながら「違うよ。スマホ置いてって連絡もとれなくて、心配されて怒られてた」とごまかしました。
 なに食べたいか聞かれたので、「なんか安くてたくさん食べられるもの」と言いました。どうせなら日本の食べ物がっつり行きたい。「あ、あとわたしお酒飲めない」と付け加えると、加西くんは「わかった……じゃあ」とスマホを片手でスワイプし、さくっと「予約した。行こ」と歩き始めました。即断即決やな!
 ポツポツ降ってきましたけど、傘が必要なほどではありませんでした。お店はカジュアルな感じのイタリアンバルで、ノンアルカクテルもたくさんあるんですって。すごい。なんかキラキラしい。さてはリア充だな加西くん。
 わたしたちは、中学時代にまるまる三年間同じクラスでした。お互い今も連絡を取っている元クラスメイトの話に花が咲きました。仕事なにしてんのとか、こっち戻って来ないのとか聞かれて、わたしは姪っ子ちゃんのことを聞きました。加西くんは雄弁で、話を引き出すのも上手くて、わたしはお得にもノンアルで酔っ払った気分になって。

「三田さー。彼氏いんのー?」
「んんんーーー?」

 なんか上手いこと流せませんでした。職場とかの付き合い飲み会なら「いないっすよー! わたし喪女なんでー!」とか言って、自虐ネタの笑い取りに走るのに。
 ……あれ? わたし、彼氏……いるのかな……? あれ? いる……? でもここじゃ……えっ? あれ? そもそも彼氏じゃ……? ……えっでも、えっ? あれっ?

「……まじかよ」

 加西くんがつぶやいて、店員さんを呼ぶピンポンを押しました。「知多ハイ。ダブルで」と頼んで、うなだれます。

「あー、あー、なんかキレーになってんなーって思ったんだよなあああああ。やっぱ男かああああああああ」
「いやいやいやいやいやいやいやそんなとんでもない恐れ多い滅相もない!」
「え、付き合ってないってこと?」
「…………」
「どっちだよ!」

 どっち⁉ どっちなの⁉ わかんないうぎゃああああああああああああああ。好きって言われて。好きって返して。じゃあ恋人ってことでいいねってな……ぎゃあああああああああああああああああああああああああああ‼

「……おおおおおおおつきあい、させて、いただいています‼」

 ……言っちまっっっっっっっっったああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!

 もうむり。いろいろむり。ほんとむり。御本人がここにいないから紙一重で致命傷で済んだ。しぬ。じいちゃんたちのお墓掃除する以前にいっしょに入ってしまう。あのレトロなコンクリートジャングルに住まいを移してしまう。お盆前でよかった。しぬ。主にしぬ。そもそもお墓ってコンクリじゃない気がしてきた。どうしよう明言罪で市中引き回し打首獄門になる。真実はいつもひとつ! さよならわたしの美しき日々!
 悶絶していると、店員さんが加西くんのお酒を持ってきました。わたしに「なにかお持ちしましょうか?」と聞いてくれたので、「なんかこう、なんかこう、目が覚めそうなの……」とお願いしました。アイスティーが来ました。

「……初めて見るわ、三田のそういうの」

 そういうのってどういうのでしょうか。詳しく聞きたいけれど聞いたらなにかを失いそうな気がしたので決して尋ねてはいけないと直感が告げました。なのでテーブルにつっぷして「ノーコメントです!」と言うに留めました。はい。

「――なんかさ。昔はそういうの……なんか興味ないイメージだったから」
「はっきり言っていいよ、おまえオタだったよなって」
「いやあ、あれは、あいつ。あいついたからだろ。なんだっけ、メガネの、三つ編みの」
「古賀よしこちゃん?」
「そう、そう、古賀」
「なつかしいなあー」

 よしこちゃんは、わたしにグレⅡオタとしての矜持を持たせてくれた恩人です。田舎の中学校だったから、小学校からの持ち上がりでほぼ全員が顔見知りの中、わたしだけ突然神奈川からやってきて。じつは入学式にも間に合わなかったんですよね。だからずっとクラスで孤立していたわたしを、自分のグループに入れてくれて。こんな言い方はちょっと申し訳ないけれど、女番長みたいな風格もあったんです、よしこちゃん。なので、みんなわたしに対してよそよそしかったのは一学期だけでした。

「せっかく都会の女子が来たのに、夏休み明けにはもう田舎に染まってて。クラスの男どもみんながっかりしてた」
「あっはっは、それは申し訳ない!」

 笑ってから、わたしは背を正して加西くんに向き直りました。ちゃんとお礼を言っておこうと思って。「なに、どしたん?」と加西くんは目を丸くしました。

「あのさー、たぶん加西くんは覚えてないと思うんだけど。一年の一学期の中ごろ」
「なに?」
「岩田屋さんで会った」
「……覚えてるよ」

 カラン、とグラスの中で氷が音を立てました。加西くんは、記憶を呼び起こすように遠くを見ました。そういえば、今ぐらいの時季だったかもしれない。
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