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王都ルミエラ編
42話 私の友人たちが、日々平安でありますように
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「気づいてましたよ、もちろん」
コンサート帰りに女性たちを家に送り、二人きりになった自動車内にてミュラに質問すると、そう即答された。尋ねたのは「ソノコの男性不信には気づいていたのか」だ。
「以前はそんなことありませんでしたがね。あきらかにちょっと怯えている表情をするので。本人が自覚しているかはわかりませんが」
そう言う顔は先ほどまでの緊張しきったものとは違い、彼が仕事中に常に見せるどこか斜に構えた表情だった。リシャール殿下の特命でソノコとともに暮らしている諜報員からの手紙を、私の元へ携えてきたのもなぜか彼だ。
エルネスト・ミュラという男は、とてもわかりやすい人物だ。純粋というか、真っ直ぐと言うべきか。そして特別な男でもある。リシャール殿下は四人いる秘書官の中でも彼をとくに気に入っている。目に入れても痛くないという有様だ。そのゆえに決して後ろ暗いことをさせない。「あいつには綺麗な道を歩んでもらうよ」と、諜報部隊『グロリア』の存在についても知らせてはいなかったはずだ。
その彼が、「ソノコ・ミタの同居者であるレア・バズレール嬢から、手紙を預かってきました」と言うものだから、私が驚くのも当然と言えた。
内容は定期報告で把握していることの他、憶測まじりのことが大げさに語られている文章の、諜報員としてはあるまじきものだった。ミュラはその手紙を、『ミュラ自身が読んで、必要だと思ったらボーヴォワール閣下へと渡してほしい』と頼まれたらしい。レアめ。上手いことミュラを巻き込んだわけだ。
ミュラは眩しいくらいの正義感で、私へと食ってかかって来た。ひとりの異国の女性が苦しんでいるのを、みすみす捨て置くのか。あなたの手に為し得る善があるというのに、それを当然受けるべき人から差し控えるというのか。私は彼の心根を美しいと思う。リシャール殿下が彼を愛するように、私も彼を好ましく思っている。おそらくレアからの定期連絡だけでは、私は動かなかっただろう。
「制服警官や、衛兵は平気なようですね。おそらくなにかあっても助けてくれる存在だと無意識で感じているのでしょう。なので面談時も、私服ではなく制服を同席させています」
「以前から、定期的に面談をしていたのか」
「いえ。わたしもそこまで暇ではありませんので。事件があってからはなるべく顔を見るようにしていますが。一時期、とても不安定でしたからね。医者を紹介しました」
レアからソノコが通院しているという報告は上がっていた。まさかそれがミュラのはからいだったとは。表面に見えてくる以上に、彼は『ソノコ・ミタの担当』という職責を軽くは扱っていないということなのだろう。リシャール殿下の采配は正しかったということだ。
「――犬を……飼ってみようと思うのですよ」
彼の家の近くに自動車が来たとき、小さな声でミュラはつぶやいた。どういう風の吹き回しだろうか。彼が犬嫌いなことは周知の事実だ。理由を尋ねようとしたときに自動車は停車し、「では」とそっけなく降りて行く。その横顔はこれまで見たミュラのどの表情とも違って、憂いを帯びて切なげだった。
私は個人で借りているアパートメントの私室に戻った。この時間は使用人も下がっていて、ひとりだ。シャツの襟を緩めていると、背後から「……なんなんすか、あれ」と恨めしげな男性諜報員の声が聞こえた。
「あれ、とは」
「ソノコの手握っちゃって。ずっと。なんなんすか、あんたソノコ狙ってるんすか」
「そんなわけがないだろう。これを読め」
執務机の引き出しから例の手紙を取り出し、渡す。「ミュラ経由で届いた」と言うと、五秒とかからず読み終えた諜報員は「レアめ、やりやがった」と舌打ちした。
「いやわかってますよ、俺だって。あんたが特効薬だって。でもね、敵に塩贈りたくないっていうか。あんたにだけはソノコのこと頼みたくないっていうか」
『峡谷の誓い』という故事がある。かつてこの地にまだ国境線が引かれておらず、牧歌的な原住民たちが村を形成していたころ。侵略者たちによる攻撃を逃れるため、人々は追い立てられるように山岳地帯へと散り、少人数での群れを形成して行った。
とある家族が着の身着のままで深い谷に身を寄せていたところ、足を踏み外した侵略兵がひとり谷を転げ落ちて来た。原住民家族たちは情け深くもその兵を手当し、いくらかの木の実と一握りの塩の塊を残して逃げたという。その兵は残されたものによって生き延び、自軍によって救出された。その兵こそが侵略軍の将であり、示されたその温情ゆえに無血での平定が宣言され、それが実行されたという。
敵に塩を贈る、というのはそこから取られた言い回しだが、いろいろと解せなかった。「なんだ、いつ私たちは敵対したんだ」と問うと、「いつからでしょうねえ。わかんね」と明後日の方向を見る。
私は真っ直ぐにその顔を見た。今このときに彼が私の元に来たことには、この会話をするためではなくて、他の意味がある。私はそれを思いながら、「少なくとも私はおまえに友情を感じているよ」と言った。
「なんだよ、俺が塩もらうのかよ!」
なんかおっかねえよ宰相殿の塩! とつれないことを言う。私は本音で語っているのだが。
「行くのか」
この後の彼の任務は、厳しいものになるだろう。それが予測されたからこそ、レアが戻り、この男が去る。
「はい。準備できたんで。……ソノコも、大丈夫そうだし」
「彼女のことは心配するな。気にかけよう」
「すっげー複雑……勝利宣言聞いた気分」
握手を求めようかと思ったが、やめた。それは彼が戻らないことを願う行為に思えた。またいつものように前触れなく現れて、去って行く。そのようにあればいい。
窓に手をかけて外に出ようとしたときに、「あ、そういえば」と男は振り返った。
「あんたが使ってる、あの左上の石けん。あれ、どこで手に入ります? 匂い気に入ってたんで買ってきたいんすけど」
「なんだと⁉」
聞き捨てならない言葉に私は目を見開いた。
「左上のは使うなと言っただろう‼」
「いーじゃないすか、減るもんじゃなし」
「減る! 確実に減る!」
「けっちいなあ、宰相殿なんだから懐大きく行きましょうよー」
私は戸棚に歩み寄ると、未開封の石けんを取り出して男に投げつけた。
「サンカイム公国から取り寄せている。なくなったらまた来い」
笑顔を残して、男は消えた。
少しの寂しさを感じながら、私は男の無事の帰還を、そして愛すべき人々の安寧について祈った。
コンサート帰りに女性たちを家に送り、二人きりになった自動車内にてミュラに質問すると、そう即答された。尋ねたのは「ソノコの男性不信には気づいていたのか」だ。
「以前はそんなことありませんでしたがね。あきらかにちょっと怯えている表情をするので。本人が自覚しているかはわかりませんが」
そう言う顔は先ほどまでの緊張しきったものとは違い、彼が仕事中に常に見せるどこか斜に構えた表情だった。リシャール殿下の特命でソノコとともに暮らしている諜報員からの手紙を、私の元へ携えてきたのもなぜか彼だ。
エルネスト・ミュラという男は、とてもわかりやすい人物だ。純粋というか、真っ直ぐと言うべきか。そして特別な男でもある。リシャール殿下は四人いる秘書官の中でも彼をとくに気に入っている。目に入れても痛くないという有様だ。そのゆえに決して後ろ暗いことをさせない。「あいつには綺麗な道を歩んでもらうよ」と、諜報部隊『グロリア』の存在についても知らせてはいなかったはずだ。
その彼が、「ソノコ・ミタの同居者であるレア・バズレール嬢から、手紙を預かってきました」と言うものだから、私が驚くのも当然と言えた。
内容は定期報告で把握していることの他、憶測まじりのことが大げさに語られている文章の、諜報員としてはあるまじきものだった。ミュラはその手紙を、『ミュラ自身が読んで、必要だと思ったらボーヴォワール閣下へと渡してほしい』と頼まれたらしい。レアめ。上手いことミュラを巻き込んだわけだ。
ミュラは眩しいくらいの正義感で、私へと食ってかかって来た。ひとりの異国の女性が苦しんでいるのを、みすみす捨て置くのか。あなたの手に為し得る善があるというのに、それを当然受けるべき人から差し控えるというのか。私は彼の心根を美しいと思う。リシャール殿下が彼を愛するように、私も彼を好ましく思っている。おそらくレアからの定期連絡だけでは、私は動かなかっただろう。
「制服警官や、衛兵は平気なようですね。おそらくなにかあっても助けてくれる存在だと無意識で感じているのでしょう。なので面談時も、私服ではなく制服を同席させています」
「以前から、定期的に面談をしていたのか」
「いえ。わたしもそこまで暇ではありませんので。事件があってからはなるべく顔を見るようにしていますが。一時期、とても不安定でしたからね。医者を紹介しました」
レアからソノコが通院しているという報告は上がっていた。まさかそれがミュラのはからいだったとは。表面に見えてくる以上に、彼は『ソノコ・ミタの担当』という職責を軽くは扱っていないということなのだろう。リシャール殿下の采配は正しかったということだ。
「――犬を……飼ってみようと思うのですよ」
彼の家の近くに自動車が来たとき、小さな声でミュラはつぶやいた。どういう風の吹き回しだろうか。彼が犬嫌いなことは周知の事実だ。理由を尋ねようとしたときに自動車は停車し、「では」とそっけなく降りて行く。その横顔はこれまで見たミュラのどの表情とも違って、憂いを帯びて切なげだった。
私は個人で借りているアパートメントの私室に戻った。この時間は使用人も下がっていて、ひとりだ。シャツの襟を緩めていると、背後から「……なんなんすか、あれ」と恨めしげな男性諜報員の声が聞こえた。
「あれ、とは」
「ソノコの手握っちゃって。ずっと。なんなんすか、あんたソノコ狙ってるんすか」
「そんなわけがないだろう。これを読め」
執務机の引き出しから例の手紙を取り出し、渡す。「ミュラ経由で届いた」と言うと、五秒とかからず読み終えた諜報員は「レアめ、やりやがった」と舌打ちした。
「いやわかってますよ、俺だって。あんたが特効薬だって。でもね、敵に塩贈りたくないっていうか。あんたにだけはソノコのこと頼みたくないっていうか」
『峡谷の誓い』という故事がある。かつてこの地にまだ国境線が引かれておらず、牧歌的な原住民たちが村を形成していたころ。侵略者たちによる攻撃を逃れるため、人々は追い立てられるように山岳地帯へと散り、少人数での群れを形成して行った。
とある家族が着の身着のままで深い谷に身を寄せていたところ、足を踏み外した侵略兵がひとり谷を転げ落ちて来た。原住民家族たちは情け深くもその兵を手当し、いくらかの木の実と一握りの塩の塊を残して逃げたという。その兵は残されたものによって生き延び、自軍によって救出された。その兵こそが侵略軍の将であり、示されたその温情ゆえに無血での平定が宣言され、それが実行されたという。
敵に塩を贈る、というのはそこから取られた言い回しだが、いろいろと解せなかった。「なんだ、いつ私たちは敵対したんだ」と問うと、「いつからでしょうねえ。わかんね」と明後日の方向を見る。
私は真っ直ぐにその顔を見た。今このときに彼が私の元に来たことには、この会話をするためではなくて、他の意味がある。私はそれを思いながら、「少なくとも私はおまえに友情を感じているよ」と言った。
「なんだよ、俺が塩もらうのかよ!」
なんかおっかねえよ宰相殿の塩! とつれないことを言う。私は本音で語っているのだが。
「行くのか」
この後の彼の任務は、厳しいものになるだろう。それが予測されたからこそ、レアが戻り、この男が去る。
「はい。準備できたんで。……ソノコも、大丈夫そうだし」
「彼女のことは心配するな。気にかけよう」
「すっげー複雑……勝利宣言聞いた気分」
握手を求めようかと思ったが、やめた。それは彼が戻らないことを願う行為に思えた。またいつものように前触れなく現れて、去って行く。そのようにあればいい。
窓に手をかけて外に出ようとしたときに、「あ、そういえば」と男は振り返った。
「あんたが使ってる、あの左上の石けん。あれ、どこで手に入ります? 匂い気に入ってたんで買ってきたいんすけど」
「なんだと⁉」
聞き捨てならない言葉に私は目を見開いた。
「左上のは使うなと言っただろう‼」
「いーじゃないすか、減るもんじゃなし」
「減る! 確実に減る!」
「けっちいなあ、宰相殿なんだから懐大きく行きましょうよー」
私は戸棚に歩み寄ると、未開封の石けんを取り出して男に投げつけた。
「サンカイム公国から取り寄せている。なくなったらまた来い」
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