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王都ルミエラ編
32話 いろいろ、限界です
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恐怖で喉が鳴りました。アベルに押さえつけられている男性が、首を回してこちらを見ました。目が合います。知らない人でした。わたしを見て、男性は笑いました。笑いました。わたしは身がすくんでしまって、動けませんでした。
「ソノコちゃん、ソノコちゃん、こいつが彼氏とか嘘だよね?」
「黙れやクソが!」
アベルが男性の顔を殴りつけます。鈍い音がしました。怖くて、なにがなんだかわからなくて、わたしは知らずに両手でつかんでいたジャンパースカートをさらにぎゅっと握りました。
警察官さん数名がいらっしゃいました。目撃者証言により、男性に刺されかけたアベルが反撃して拘束したことが明らかになります。アベルの手から警察官さんへと男性が引き継がれます。ナイフも押収されました。
男性が暴れて、拘束を抜け出そうとします。しっかりと後ろ手に手錠がかけられました。「ソノコちゃん、ねえ嘘だって言ってよ! だって笑ってくれたじゃない、あのとき、俺に笑ってくれたじゃない!」ずっと叫んでいます。わたしへ。わたしに向かって。アベルが来てわたしの耳を塞ぎました。それでも聴こえます。「あんなガキにじゃなくて……ねえもう一回、笑ってよ、俺に笑ってよ」声が遠くなって行きます。わたしはスカートをつかんだまま、立ち尽くしました。アベルはずっと耳を塞いでくれていました。
しばらくして女性の警察官さんが、事情を伺えますか、と尋ねて来ました。ナイフの男性が、ずっとわたしの名を叫んでいると言うのです。
わたしは静かに首を振りました。
「――わたし、あの人、知らない」
トビくんを刺したのはその男性でした。男性の中ではわたしはその方の好意を受け入れていることになっているそうです。
蒸気自動車の運転手さんでした。荷物を運んだり、ときどき人を乗せたりしているお仕事だそうです。いつ会話したのかも記憶にありません。でもあちらはわたしのことを知っていて、時間ができるとわたしが仕事をしている通りに路駐して、監視していたそうです。
アベルのことは最初は同僚だと思っていたと。けれど親しい振る舞いをすることや同じアパートに帰って行くことに疑惑を抱いて。雨の日にシャリエさんとお昼を食べるときに後から入店して。そしてアベルの「今彼」発言を聞いたと。加害意識が沸いたのはそのときだったそうです。
用意がなかったので次の日に刺そうと思ったら、その日わたしはトビくんと食事をして。とても楽しそうに笑っていて。夕方にまた会うと聞いて、先にそちらを刺そうと思ったと。楽そうだから。
本当はアベルも夕方の暗がりで刺そうと思ったけれど、わたしの頬にキスをするという行為に煽られて逆上し、飛びかかって行ったと。
アベルは、頻繁に同じ車が駐車していることに気づいていたようでした。わたしのそばに現れるのは、決まってそのときにしてくれていたみたいで。シャリエさんも、アルシェ通りで何度も見かけた自動車が、コブタ通りでも路駐していることに感じるものがあって、「彼氏さん」のアベルに相談したみたいです。アベルも、わたしが標的にならないように、あえて彼氏だと公言してヘイトが自分に来るようにしていたみたいで。
わたしはカチカチに必死で、他の様子を見るなんてできもしなかったし、自動車がいることにすらも気づいていなくて。「どうして教えてくれなかったの」とアベルをなじってしまいました。後悔してすぐ後に謝りました。
交通局のご配慮で、コブタ通りでのわたしの仕事は終わりました。大好きなカチカチも、今はちょっと怖いです。
引っ越しもすることになりました。居たくありません。居られません。事情を話したら、不動産屋さんでも同情を示してくださいました。来月中に引っ越すなら、家賃五カ月分を返却してくださるそうです。涙が出ました。
トビくんの治療費を、ラ・リバティ社宛に匿名で送りました。きっと誰だかバレているけど。トビくんのご自宅を知らないし、オレリーちゃんのところへ行ったら、「ソノコ、もうこないで!」と言われてしまったので。……さすがに、堪えました。
男の人と接するのも、苦手になってしまいました。上手く笑えません。それに、言葉が出なくなってしまいました。なにか誤解させてしまったりすることが怖くて、なにも言えなくなる。ユーグさんに対してすらびくついてしまって、傷つけてしまいました。うまく謝れなくて、仲直りできていません。
こんなわたしにはきっと、カチカチがやっぱり合っているんでしょうけど、復帰できるか、わかりません。
身分証が届いたので、勧められて何度かカウンセリングに行きました。女医さんで、なんでも聴いてくれました。事件のこと、これまでのこと。どうしたいか。どうなりたいか。いろいろ。
アベルはその間、わたしの周りのどこにも居ませんでした。いえ、たぶん隣の部屋にはいたと思います。でも今は、わたしがひとりで泣くターンだってわかってくれているみたいで、姿を見せないでくれました。
「女性の友だち、いる?」
主治医のリゼット・フォーコネ先生の問いかけに、わたしは首を振りました。こちらに来てから、親しく話せていた女性はオレリーちゃんくらいでした。
「そうね、あなた、ひとりでいてはいけないわ。いっしょに泣いてくれる、友だち作らなきゃね」
いろいろ考えました。友だちって百貨店に売ってますか。部屋の退去日も、そんなに遠い日ではありません。どうしよう。なにもしなくてもお腹は空いて、ご飯を食べにカフェへ行って、気が向いたらお風呂に行く。そんな生活。
ある日の朝刊に、折込チラシが入っていました。
----------
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