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第六話

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 背後で剣を交える音が聞こえる。振り向きたい欲望を押し留めて、クレアは全速力で駆けた。
 自分が荒く息を吐く音、屋敷が燃える音、草を踏む音、斬撃の音。心臓は休む間もなく、頭は次々起こる出来事を処理できずに考えることを放棄している。

 森の入口に辿り着いたクレアは、振り向き、後からやってくるアランの姿を見た。抜き身の剣を手に走ってくる。

「もっと奥へ!」

 アランの言葉に従おうとし――クレアは、彼の背後で動くものに気付いた。
 矢がアランの背を狙っている。

「アラン様! 後ろに!」

 彼が振り向く。
 腰に下げた、先程投げたものと同じ袋を手にする。だが、弓弦が鳴る方が速かった。
 外れるようにと祈ったが、クレアの耳に、矢が刺さる嫌な音が届いた。アランの体から一瞬、力が抜ける。矢より遅れて投げられた袋は、射手を含めて周囲を煙で包み込んだ。
 クレアは、自分の喉から絞り出される悲鳴に気付かなかった。がくがくと膝が笑う。
 そんなクレアに向き直ったアランの瞳は、彼女のものよりひどく冷静だった。

「早く!」

 正気に戻ったクレアは再び走り出したが、先程と比べてあまり速くはなかった。森の中では木の根や丈の長い草に足を取られる上、どうしても後ろが気になるのだ。自分と同じようにアランが草を掻き分ける音を聞き逃すまいとしながら、クレアはとにかく前へ前へと進んだ。目的地など分からないが、妖精が淡い光を放ちながら暗い森の中を先導してくれる。
 日常生活が送れるようになったものの、クレアの体は回復してからまだ間もない。すぐに脇腹が痛みだした。もつれそうになる足を精一杯前に出し続ける。
 終わりの見えない苦痛に耐えて進んでいると、後方で重いものが地に落ちる音がした。
 前を向けと注意されるのを承知で、クレアは振り返った。

「アラン様!」

 堪え切れず、クレアは来た道を戻り、倒れ込んでいるアランに駆け寄った。彼のそばに膝をつく。
 うつ伏せに倒れていたアランは、手をついて立ち上がろうとする。だが、力が入らないのか途中でくずおれた。次は起き上がることを放棄したようで、彼は仰向けにどさりと転がった。
 右脇腹から下半身にかけて、衣服が赤く染まっていた。それとは反対に、顔は血の気がなく真っ青だ。
 刺さった矢は既に抜いたらしく、そこから血が流れ続けていた。

(矢を一本受けただけには見えない)

 直感的なその考えは当たっていたようで、肩に止まった妖精が傷口を覗き込むようにして言った。

『魔法の矢か。この深さまで入り込んでいると……ご愁傷様』
「そ、そんなの、まだ……っ」

 不吉な言葉を振り払おうと首を振る。肩にいた妖精が逃げるように宙に浮かんだ。

「と、とにかく止血を――」

 そのために服を裂こうとしたクレアの手に、アランの手が重ねられた。見逃してしまいそうなほど僅かに首を振っている。
 アランは空いた方の手でベルトのバックルを外し、ベルトを抜こうとした。

「……剣を」

 荒い呼吸の間の、掠れた声だった。その言葉に従い、鞘に納まっている剣を引っ張る。妖精が手伝ってくれたこともあり、剣はベルトごとアランから外れた。

「その……宝玉が」
「これですか?」

 剣の柄頭にある白濁した宝玉を指差すと、アランは小さくうなずいた。

「水晶玉の、ように、魔力を……王女に、場所が……」
「王女様に、この場所が伝わるのですね?」

 早速魔力を込めようとしたところ、アランの手が剣の柄を押した。まるで、クレアにそれを押し付けるようだった。

「もっと、遠くに、離れてから……」
「なぜです!? アラン様の怪我を考えれば、一刻も早く――」
「魔法の矢の、痕跡から、追跡されます」

 彼は、クレアに一人で行けと言っているのだ。
 ここに彼一人で留まって、生き延びられる可能性など無に等しい。たとえ僅かだとしても、クレアがここにいた方がまだ可能性がある。だが、二人揃って死ぬか、クレアが捕まる可能性も大きくなる。
 アランは自身の可能性を捨てて、クレアを逃がそうとしている。
 可能性の大きさを秤にかけた結果かもしれない。彼に与えられた任務だからかもしれない。そもそも優しい人だからかもしれない。
 妖精もアランの選択に賛成しているようで、クレアを動かそうと髪や服を引っ張っていた。

 芽吹きの乙女とは、まるで死神のようだ。
 こんな娘を産んだせいで、恐らく母は殺された。
 一時の繁栄と引き換えに、帝国は凄惨な滅びの道を歩んだ。
 アランやジゼルも、クレア一人いなければ、こんなことに巻き込まれずに済んだのだ。

 クレアの瞳から、涙が零れた。

「私一人、逃げたって……誰も、幸せには」

 生き延びた先にあるのは、魔力を求めての争いだけだ。
 彼を見捨ててそれを選ぶなんて、クレアは絶対にしたくなかった。己が確実に生き残る道よりも、どんなに望みがなくとも、彼が生きるためにできる限りのことをする道を選びたい。
 クレアは剣の柄を握り直した。あの時、自分を鎖から解き放ってくれたものだ。
 その刃で、今度は自分のスカートの裾を切り裂いた。破れたところに手をかけ、裂け目を大きくしていく。涙のせいか、先程零した聖水のせいか、スカートは少し湿っていた。

「何、を」

 涙が止まらない。泣き叫びたいのを堪えるかわりに、嗚咽が漏れた。
 裂き終えたスカートを傷口にあて、体重をかけて押さえつける。痛みにアランが呻いた。
 こんな処置でいいのかと不安に怯えながらも、無我夢中だった。

「やめ――」
「嫌です! 私が生きて、アラン様が死ぬなんて、間違ってます! アラン様を、お慕いしている人は、きっと、たくさん――」

 喉の奥がぎゅっと詰まり、涙が勢いを増した。視界が悪い。
 傷口からは、クレアに抵抗するように血が溢れ続けていた。これが魔法の力なのだろう。
 魔力があっても、クレアは魔法が全く使えない。目の前の、彼を蝕んでいる魔法に歯が立たない。そんな自分に嫌気がさした。

「我儘、ですが」

 アランの手が、クレアの手首を掴んで傷口から遠ざけようとした。冷たく、ぶるぶると震え、あまり力が入っていなかった。

「愛した人には、生きて、幸せになって、ほしいのです」

 風の音で吹き飛ばされそうな声だった。
 大粒の涙が零れていって、幾分くっきりした視界に彼の顔が映る。血の通わなくなった冷めた色の中で、瞳だけがきらきらと輝いていた。

「どうして」

 頭も心も、処理しきれずにぐちゃぐちゃだった。
 きっとひどいことになっているクレアの顔を、アランは微笑んで見つめ返していた。
 妖精達がずっと、服や髪を引っ張っている。
 どこかで、男達の声がする。
 がさがさと草を踏み分ける音がする。
 クレアの手首から、彼の手がずるりと落ちた。
 瞼がゆっくりと下りていく。

「ま、待って――」

 それが我儘だというのなら、クレアの我儘こそ聞いてほしかった。

「アラン様こそ、生きてください! 私だって、愛した人に幸せになってほしい……私の、魔力も、命も、全て差し上げますから――!」

 突然手首を引かれ、クレアは言葉を飲み込んだ。
 一体どこに残っていたのかと思うほど強い力で引かれ、アランと位置が入れ替わる。
 上体を起こしたアランは、落ちていた剣を拾い上げ、そのままクレアの背後に迫っていた男を薙ぎ払った。
 だが、さすがに致命傷には程遠かった。
 相手は次の動作に移れないアランに向かって、剣を振り下ろした。
 まだ体内に残っていた彼の血が飛沫になってクレアにかかる。

 アランの体が、力なく地に落ちた。
 茫然とするクレアをよそに、二人ほど男が合流し、三人で暢気に喋り出した。

「どうだ?」
「女はどうする?」
「可能であれば連れてこいという話だが……」

 三人の内の一人が近付いてくる気配に、クレアは茫然としたまま顔を上げた。
 アランの従兄であるローガンだった。クレアとの間に横たわるアランの体を足で小突く。
 クレア一人ではろくに抵抗できないと思ってか――実際、そのとおりなのだが――すっかり気の抜けた表情で、座り込む彼女を見下ろした。

「芽吹きの乙女とやら。我々の主は、あなたを厚遇するとおっしゃっている。大人しくしていただこう」
「嫌です」

 その言葉の、一体どこを信じろと言うのだろう。
 いくらクレアが騙されやすい人間とはいえ、さすがに、欠片も信用できなかった。

「人の体を蹴るような者の言葉など、私は信じません」
「人? これが? これはむくろと言うのですよ」

 鼻で笑ったローガンは、先程より強くアランを蹴り飛ばした。

「やめて!」

 たまらず、されるがままになっているその体に覆いかぶさる。
 先程まで荒い息を吐き上下していた胸が静まり返っているその体に触れて、止まっていた涙が再び溢れ出した。
 本当に骸なのだろうか。
 今朝は、いつものように挨拶を交わしたのに。
 雪遊びに熱中した日々も、馬車に乗るのに差し出してくれた手も、打ち捨てられた自分を見下ろして涙を零したあの空色の瞳も、もう望めないのだろうか。
 男達は何やら相談していたが、クレアにはどうでもいいことだった。今の彼女の望みなど、たった一つしかない。

『何を望んでいるの?』

 幻聴だろうか。
 耳元で囁かれた声は、クレアの心情にも、この場にもそぐわない無邪気な声色だった。

「……どこでもいいの。アラン様と、一緒にいたい」

 ここに未練などない。彼が死者の国へ旅立ったというのであれば、自分もついていきたかった。
 それがたとえ、彼の望みではなかったとしても。
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