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第三話

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 久しぶりに正装したアランは、城から用意された馬車の前でクレアを待っていた。
 女性は身支度に時間がかかるものだ。特に、彼女はまだ思いどおりに体を動かせないのだから、なおさらだ。

「クレアさん、足元に気を付けて」
「は、はい……」

 ジゼルに手を引かれながら、一歩一歩、慎重にクレアは屋敷から出てきた。
 普段と違う装いをするのは分かっていたはずなのに、その姿にアランは思わず目を見張った。

 冬の訪れに色褪せた芝の上で、まるで春が訪れたようだった。
 淡いミントグリーンのドレスに身を包んだクレアは、丁寧に編み込まれた髪と化粧の効果もあってか、見違えるようだった。決して豪奢ではないが、上品なドレスの裾が歩くたびに揺れる。
 若葉色の瞳に見上げられて、アランの心臓が跳ねた。

「お待たせして、申し訳ありません」
「え……あ、問題ありません」

 万全の状態でないことは、アランも、迎えにきた城の者達も分かっている。だからそう言ったのだが、クレアのそばにいるジゼルの目は据わっていた。

「アラン様……一言くらい、何かないのですか?」
「ひ、一言?」

 今の一言では不足だったのだろうか。

「あの、いくらでも待ちますから。本当に、大丈夫ですよ。まだ朝ですし、いくらでも時間はあります」

 そう言うと、ジゼルは鼻から大きく息を吐いた。どうやら不合格らしい。が、正解が何かはアランには分からなかった。

 白いレースの手袋をはめた手を取り、馬車に乗り込むのを助ける。
 慣れないドレスで裾を踏んでしまわないかとそわそわしたが、幸いそのようなこともなく、無事に座席に腰を落ち着かせることができた。

 二人が乗り込むと馬車が動き出す。
 王城への道はそう長くはない。屋敷と王城の間にあるのは湖くらいのもので、街中を走るのとは違い、人目もなくのどかだ。
 昨日は雪が舞ったにもかかわらず、今朝は日差しが暖かかった。揺れで酔わないようにと少しだけ開けた窓から、冷たくも爽やかな空気が入り込んでくる。

「緊張しておられるのですか?」

 膝の上で固く握られた拳を見て、アランは向かい合って座っているクレアの顔を見た。もしかしたら青い顔をしているのかもしれないが、化粧のせいでよく分からない。

「はい……今からお会いする王女様に、何か失礼なことをしてしまわないかと……あまり礼儀作法などに明るくないもので」
「ご心配なさらず、どうぞ気楽に。非公式の場ですし、セレスティア様も作法については重要視なさいません。クレア殿が帝国でどのような状況におられたかは、ご存じですから」

 クレアは何か言いたげに薄く口を開き、また閉じた。
 少しうつむいた彼女を黙って見守っていると、ゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐにアランを見つめた。

「あの……あの時は、ありがとうございました」

 あの時が一体いつのことか分からず、アランは目をしばたいた。
 再び視線を落とした彼女の視線の先を追う。ミントグリーンの上で、レースに包まれた指が絡まったり解かれたりを繰り返している。

「上着を、きっと汚してしまったと……それに、私のような者をこの国まで運んでくださって、本当にありがとうございます。お礼を申し上げるのが遅くなってしまい、申し訳ありません」
「いえ、そんな」

 帝国の塔でのことを言っているのだと分かり、何と返せばいいのかとアランは慌てた。
 まさか、あの状態で人の顔を識別し、その上覚えているとは思わなかったのだ。

「ジゼルさんに教えていただいたのです。アラン様は今のお屋敷に住まわれる前は、近衛騎士をしていらしたと。突然森番になってしまわれたと……もしかして、私のせいではないですか?」
「ち、違います。それは、私の行動が近衛騎士としては相応しくないと判断されてですね」

 まさか、ジゼルがそんな話をクレアにしていたとは思ってもみなかった。
 森番になったのは確かにクレアの存在が理由ではあるが、間違っても「クレアのせい」ではない。言い渡された直後はショックを受けたし、知人には鼻で笑われることもあるが、アランは今の任務に不満を抱えているわけではなかった。何だかんだで、少し楽しんでもいるのだ。
 クレアの目が潤んでいるように見えて、アランは慌てて言葉を探した。

「本当です! それに、あの場所は療養にはいい環境ですが、ひと気がないので賊に襲われた時危険なので、一応腕に覚えのある私がいた方が安全ということでですね……それに、クレア殿が元気になるためのお手伝いができて、嬉しいと思っているのです」

 改めて、目の前に座る人の姿を見つめる。
 まだ全快ではなく儚さが漂っているものの、そこにいるのは紛れもなく年若い女性だ。枯れ木のようだった頃とは見違える姿だ。
 アランには――そして、恐らくは大多数の人間が――想像もできないほど辛い日々だっただろう。死ぬことすら許されずに搾取され続けた長い年月は、絶望と表すのも恐らくは生易しい。
 だから、大小問わず、楽しみや幸福を感じてほしかった。地獄の先も地獄だったとは思ってほしくなかった。
 彼女が笑みを浮かべると、アランはたまらなく嬉しかった。大した力にはなれなくとも、砂粒一つくらいでも幸福を感じてもらえたなら、それはアランにとっても幸福だった。

「まだご不便はあるでしょうが……そうだ、雪が積もったら雪だるまを作りましょう。それに、次の春には一緒に森を散策しませんか? 春の恵みを摘んでいただくのでも、花を愛でるのでも。それに、その内城下町もご案内します。楽しいことは探せばいくらでもあります。折角ですからそういったことを考えましょう」

 矢継ぎ早なのが面白かったのか、彼女は笑みを零した。

「雪が積もれば……雪合戦も、ご一緒していただけますか?」
「雪合戦ですか? もちろんです!」
「手加減なさらないでくださいね」

 口元を手で隠して笑っている姿は上品に見えたが、生来は活発な人なのかもしれない。笑顔の中に悪戯っぽさが見え隠れしている。
 ジゼルも誘ってみようなどと話している内に、馬車は目的地へと辿り着いた。
 車内で柔らかくなった表情は、馬車を降りる時にはやはり固くなってしまっていた。彼女にとっては、屋敷以外の場所は未知の世界に違いないので、それも当然だ。

 クレアは、表向きはアランの実家の遠縁の者ということになっている。体は弱いが、魔導師としての才をセレスティア王女に見出され、この度非公式だが謁見の場が設けられた、と。
 実際、セレスティア王女は今までにも何人もの魔導師を育て上げてきたので、周囲がその建前に疑問を持っている様子はなかった。

 二人は、セレスティア王女が待つ居室へと赴いた。
 取次ぎがなされ、あまり多くない人数の者達が控えている中へと入っていく。
 クレアは、ジゼルに教えられたであろうとおりに膝を折り、御辞儀をした。アランも彼女より下がった位置で膝をつき、頭を下げる。

「クレア様」

 王女はさっとクレアに近付くと、その手を取った。

「お体が万全でないことは聞き及んでいます。どうぞご無理をなさらないで。ここには、事情を知る者しかおりません」

 クレアの春色のドレスとは対照的なウィンターブルーのドレスを翻し、王女は布張りのソファへとクレアを誘った。
 二人が腰掛けたのを合図に、テーブルの上に茶器や菓子の類が並べられていく。紅茶の香りが鼻孔をくすぐった。

「アルティエラ王国の第一王女、セレスティアです。御意思を確認せずにこの国へとお連れしたことを、まずはお詫びいたします」
「クレアと申します。私は、殿下にそのような御言葉をかけていただけるような人間ではないのです。恥ずかしながら己の出自もよく理解しておりませんが、恐らくは平民として生まれましたので」
「王女としても、魔導師の一人としても、敬意を払いたいお方であることに変わりはありません。そして、微力ながらも手助けをさせていただきたいのです。過ぎ去ったことを、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」

 セレスティア王女は、一つ一つ、ゆっくりと質問を重ねた。
 クレアもそれに対して、言葉を選んで返していく。

「私は、深い森の中の屋敷で育ちました。母と、時折物資を運んできてくれる者。それだけの暮らしでした」
「お母上は、クレア様が芽吹きの乙女だと知っておられたのですか?」

 クレアはかぶりを振った。

「分かりません。申し訳ありませんが、その『芽吹きの乙女』という言葉を、今日まで耳にしたことがなかったのです。何か特別な力があると聞かされたこともありません」

 だが、人目を避けて暮らしていたことを考えると、きっとクレアの母は娘の力に気付いていたのだろう。

「あまり人との交流がなかったとのことですが、いつ頃のお生まれかはご存じですか? その時の皇帝の名前などは」

 ぎくりと、クレアは目に見えて狼狽えた。
 強張った顔から血の気が引いていく。

 すると、その編み込んだ髪の間からするりと何かが飛び出した。妖精だ。
 屋敷からついてきたのだろう。
 アランのいる場所からは聞こえない大きさの声で王女と言葉を交わしている。
 短い会話の後に、セレスティア王女はアランへと目を向けた。

「アラン、下がりなさい」

 深く頭を下げ、アランは素早く居室を出た。

(まぁ、女性同士でなければ話しにくいこともあるだろう)

 分かってはいるのだが、何となく寂しく感じるのが我ながら困ったものだ。

「やぁ、森番殿」

 片手を上げて近付いてくるその姿に、アランは眉根を寄せた。

「久しぶりの登城はどうだ? 緊張しているんじゃないか?」

 相変わらずの嫌味っぷりだと、あまり見たくもない従兄の顔を直視する。

「第一王子様の近衛騎士殿は、どうやら暇を持て余しておいでのようですね。平和で何よりです」

 相手の頬の筋肉がひくひくと動いた。
 従兄のローガンとは、昔から仲が悪い。剣を学び、騎士への道を志しながらも根っこが違うことは互いによく分かっていた。
 そして、ローガンが第一王子のダミアンに、アランが第二王子のブライデンに仕え始めたことで、埋まらない溝は底なしの谷のように深くなってしまった。

「森番の仕事はさぞ忙しいのだろうな。獣を追いかけ回し、入り込んだ猟師を追い払うのだろう? 後は何だ? 私には想像もつかないな」

 ローガンの視線が、時折アランの背後へと移る。
 何を聞いて、何が目的でここに来たのかとアランはいぶかしんだ。
 単にアランを笑いに来たというのであれば、腹は立つが問題はない。だが、クレアのことを探りに来たというのであれば話は別だ。
 何しろ、ローガンはダミアン王子派の人間なのだ。もしもクレアが芽吹きの乙女であることを知ったならば、確実に狙ってくるだろう。

「それで? 今日は一体どうして城に?」
「騎士殿には想像もつかないような、森番の仕事で」

 ローガンの眉が苛立ちに吊り上った。
 アランを睨み付けながらも、やはり部屋の中が気になるのか、時折視線が泳ぐ。
 だが、それ以上詮索してはこなかった。「せいぜい頑張ることだ」と捨て台詞を吐いて、元来た道を帰っていく。

(中にいるのが、芽吹きの乙女だと知っているのだろうか。そうでなければいいが……)

 従兄の背中が曲がり角の向こうへと消えてから、ようやくアランは小さな溜息をついた。

 予想していたことだが、クレアと王女の話は長かった。
 ローガンがやってきた時は売り言葉に買い言葉で長々と喋ってしまったが、部屋の前で騒げばやはり迷惑だろう。扉の前に控えている騎士達に倣って、アランも黙ってその場で待った。
 立ったままで居眠りができそうだと限界を感じ始めた頃、ようやく、アランは居室に入るよう命じられた。
 中に入ると、居室でソファに腰掛けているのは、セレスティア王女だけだった。

「彼女には、今は奥の部屋で休んでもらっているわ。だいぶ疲れさせてしまったようだから」

 そう言う彼女の顔にも、少し疲労の色があった。
 楽しい話題ではないのだ。聞くだけ、想像するだけでも疲弊してしまったのだろう。

「……先程の話の内容だけれど、簡単にあなたにも説明しておきます。彼女にも了承してもらっているわ」

 一緒に暮らし、長い時間を共にする中で、彼女の心の傷を抉らないようにしてほしいのだという。そのためには、知っておかなければならない、と。

「まず、彼女はエドガー皇帝の時代の人間だということ」

 アランは思わず驚きの声を上げてしまった。
 神聖エルテベザ帝国のエドガー皇帝といえば、三百年は前の人間だ。クレアがそんな昔の人だとは思わなかった。

「正確には、エドガー皇帝がまだ皇太子だった頃、帝国に捕らわれて幽閉されたそうよ。帝国が力を持ち始めた時期とも一致するから、まず間違いないでしょう」

 クレアの話では、彼女が十七歳の頃、母親が突然行方不明になったのだという。
 深い森の中に一人きりだ。さぞ心細かっただろう。
 そんな時、エドガー皇太子がクレアの前に現れた。エドガー皇太子は愛を囁き、妃になってほしいと彼女を森から連れ出した。

 愚かだったと、クレアはセレスティアに語りながら泣いた。
 今ではクレアも分かっているのだ。
 母親の姿がなくなってから皇太子が現れるなど、タイミングが良すぎる。母親の失踪も、恐らくは帝国が仕組んだことだったのだろう。
 城のあの塔に連れていかれたクレアは、妃になる儀式を行い、その時にあの首輪を付けられた。そして――それからずっと、アラン達が連れ出すまであそこにいた。

「その儀式というのが、首輪を用いて魔力を思い通りに引き出すためのものだったのでしょう。今は魔力が流れ出ている気配がないところをみても、呪文か何かが必要なのだと思うわ」

 神聖エルテベザ帝国は、流行り病で国力が著しく低下したところを周辺諸国に叩かれた。
 いくら流行が速いとは言っても、芽吹きの乙女の魔力を使えば病を振り払うのは難しいことではない。考えられるのは、クレアの魔力を引き出せる魔導師がごく少数だった――敵対勢力に利用される恐れがあるため、そうせざるを得なかっただろう――こと、そして不運なことに、その少数の魔導師から病に倒れた、ということだろう。
 クレアを騙し、その力を独占していたことが裏目に出たのだ。

「現状のままであれば、普通の人間と変わりないということですか?」
「そういうわけではないわ。あの首輪を付けた時の姿のままで、彼女の時は止まっている。不死であることを本人が望んでいない以上、いつかはあれを外さなくては。そうでなくても、あれを見れば皇太子に騙されたことを思い出してしまうでしょうし」

 外すこと自体は、大して難しくない。ただ、今すぐには外せない。彼女はより健康になる必要があった。
 首輪を外した途端、魔力は常に溢れ出る状態となる。そうなれば、国内外を問わず、魔導師にはその存在が知れることとなってしまう。アルティエラ王国がその身を保護するにしても、本人にも身を守る術を学んでもらう必要があるのだ。

「私の元で学び、魔導師としての力をつけてもらうことが必要だわ。本人は、そもそも普通の人になりたいようだけれど……」

 最後は歯切れが悪かった。
 その方法が分からないのだということは、容易に察せられた。
 そもそも、同じような能力を持った者が、歴史を遡ってみてもほんの一握りなのだ。突然変異のように現れるその者達のことは、知らないことの方が多い。

「私がなぜこの話をあなたに伝えたのか。分かっているのでしょうね?」

 その視線は少々きついものだった。
 心の傷を抉らないようにというのならば、エドガー皇帝の名は出さないように注意しなければならない。自分を騙した人間のことなど思い出したくないだろう。
 アランに思いつくのは、それくらいだった。

『言葉で注意したところで無駄だよ。こういうのは仕種一つ一つに表れる』

 どこからか現れた妖精が、王女の肩に留まった。

『この男に期待するだけ無駄さ。既に歯車は回り始めている。上手く噛み合うことを祈るしかない』

 妖精の言葉に、王女が溜息を漏らす。
 アランにはいまいち意味が分からなかった。だが、セレスティア王女は説明してはくれないだろう。何せ、言うだけ無駄なのだから。

「……お兄様が信じた男なのだから、私も今は信じましょう。アラン、彼女をお願い」

 今までより、これからの方がより困難だろう。
 秘密を抱える時間が長くなればなるほど、暴かれる機会は増えるものだ。
 クレアは生きている。宝石のように箱にしまっておくわけにはいかない。屋敷に閉じ込めておくことは、塔に幽閉するのと変わりなかった。
 危険に晒さぬよう、心と体を癒し、身を守るための力をつける。それがこれからの課題だった。
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