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第5部 慟哭のアヌビス

#10 我が心の底の叫び

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 極道だけあって、修二の動きはすばやかった。
 彼の予想をはるかに超えていた。
「この化け物がァ!」
 飛びかかったつもりが、気がつくと腕を取られ、蒲団の上に押さえ込まれていた。
「ヒデキ、君?」
 杏里の声がした。
 首をねじると、かろうじて視界の隅にその姿が入った。
 小さな薄いブラジャーに包まれた胸の前で両手を組み、祈るような姿勢でこちらを見つめている。
 むっちりした太腿の間のパンティがまぶしかった。
「殺してやらァ」
 修二の大きく肉厚の掌が、彼の首を掴んだ。
 そのまま物凄い力で締め上げてくる。
「ぐああああ」
 彼はうめいた。
 醜く裂けた口の端から血反吐が飛び散った。
 体格は修二のほうが一回り以上大きかった。
 彼は瞬く間に壁際に押さえつけられ、首を支点に高々と吊るしあげられた。
「やめて!」
 杏里が修二の足に取りすがった。
「引っ込んでろ!」
 修二の脚が一旋して、杏里が転がった。
 下腹を抱えてうずくまる。
 まろやかなカーブを描く小さな肩が震えていた。
 彼の中で、怒りが爆発した。
 3本しかない指を、修二のわき腹に突き立てた。
 ナイフでバターを切るように、爪が食い込んだ。
 力任せに掻き切った。
 血がしぶいた。
「き、貴様ァ!」
 修二の手の力が緩んだ。
 信じられない、といった表情で、己の腹を見つめている。
 彼はその傷口に手を突っ込んだ。
 弾力のあるものに当たった。
 それをつかんで、引きずり出した。
 大腸だった。
 血と粘液にまみれた肉色の太い腸が手に巻きついている。
 修二の顔色が変わっていた。
 目を皿のように見開き、土気色の顔で彼を見た。
 彼は大腸を引きちぎり、床に捨てた。
 形勢は完全に逆転していた。
「くそ!」
 修二が踵を返し、逃げ出した。
 下半身裸のまま、わき腹を抱え、玄関のほうに突進していく。
 彼は後を追った。
 血の匂いと生肉の感触が、彼の興奮を極限にまで高めていた。
 修二が肩からドアにぶつかり、外に飛び出した。
「助けてくれえ! 化け物だ! 殺される! 誰か助けてくれ!」
 どぼどぼと通路に血を落としながら、よろよろと走っていく。
 いくつかのドアが開き、住人たちが顔を覗かせた。
 彼の姿と血まみれの修二に目を止め、一様に息を呑む。
「救急車! あ、それと警察も!」
 誰かが叫んだ。
 何人かの顔が部屋の中に引っ込んだ。
 通報するつもりなのだろう。
 住人を押しのけ、彼は修二に追いすがった。
 逃がすつもりはなかった。
 殺してやる。
 腕を振り上げた。
 そこに、杏里が抱きついてきた。
「もうやめて!」
 彼の裸の胸に頬をすりつけ、泣きながら叫んだ。
「あなた、ヒデキ君なんでしょ? 私を助けようとしてくれたんだよね?」
「杏里・・・」
 彼は腰に取り縋った少女を茫然と見下ろした。
 興奮が一気に引いていき、冷たい塊が胸の底からせりあがってくるのがわかった。
 見られてしまったのだ。
 この顔を。
 この醜い体を・・・。
 階段のほうがざわつき始めた。
 他の階の住人たちが集まってきたのだ。
 血だらけになった修二が、その人垣の中に倒れこんだ。
「あんた、どうしたんだ?」
 何人かが、修二の周りに跪く。
 他の者の視線は、彼の姿に釘づけになっていた。
「なんだ、あいつ」
「気持ち悪い・・・」
「怪物だ。人間じゃない」
「女の子を人質にしてるのか」
「あの子、裸じゃないか。レイプされたんじゃないのか」
 彼は後じさった。
 頭がパニックを起こしかけていた。
「違うんです。この人は、私を・・・」
 群集に向かって、下着姿の杏里が叫んだ。
 だが、その叫びも彼らの耳には届かないようだった。
 誰もが怯えた目で彼を見つめるばかりなのだ。
 遠くからサイレンの音が近づいてきた。
 彼は杏里の手をつかんだ。
 ぐいと引き寄せると、腹を殴った。
「あう」
 杏里が苦しげに呻いて、その場に崩折れる。
 その体を脇に横抱きに抱えた。
 体を反転させ、逆方向に走り出す。
 通路の端で杏里の柔らかい体を肩に担ぎ直し、手すりによじ登る。
 マンションの入口に、パトカーが停まるのが見えた。
 5階から、跳んだ。
 自転車置き場の屋根がクッションになった。
 プラスチックの屋根をぶち抜き、自転車を根こそぎひっくり返すと、地面に立った。
 警官たちが駆け寄ってくる。
 パトカーが更に2台、停車した。
「停まれ」
 警官のひとりが叫んだ。
「その子を離せ!」
 彼は警官隊のほうに向かって突進した。
 彼は杏里を抱えているのだ。
 発砲できるはずがない。
 たじろぐ警官たちを突き飛ばして、通りに出た。
 特に当てがあるわけではなかったが、とにかくいける所まで行こうと思った。
 運河のほうに向かった。
 休まず走り続けていると、さすがに脚が痛くなってきた。
 暑かった。
 夏の午後の日差しの中を、彼はそれでも駆け続けた。
 橋を渡った。
 工場の煙突群が見えてくる。
 肩にかついだ杏里の体はとても柔らかく、なんともいえぬいい匂いがした。
 今や、それが唯一の彼の心の支えになっていた。
 背後から警官たちの足音が追ってくる。
 パトカーのサイレンが近づいてくる。
 運河沿いの側道から逸れ、工場の門をくぐった。
 錆びたドラム缶がいくつも転がった広場を突っ切ると、巨大な鉄のシャッターの前に出た。
 杏里を地面に下ろし、シャッターを持ち上げにかかる。
 が、ロックされていて、びくとも動かない。
 拳を固めて、殴った。
 何度も何度も殴った。
 スチール製のシャッターに裂け目ができた。
 そこに爪を差し込み、缶切りで缶詰の蓋を開けるように、鉄板を引き裂いた。
 足で蹴って穴を広げる。
 再び杏里を担ぎ直し、中に滑り込んだ。
 機械油の匂いのする、がらんとした空間だった。
 高い窓から強烈な午後の日差しが差し込んではいるものの、下のほうは薄暗い。
 彼は鉄の階段を吹きぬけの2階まで登った。
 鉄格子で出来ているような床のため、階下の様子がよく見える。
 すぐ外で警官たちの声がする。
 無線に向かって何か叫んでいる。
 いちばん奥まで行くと、彼はドラム缶の陰に杏里を坐らせた。
 声をかける前に、杏里が目を開いた。
 もの問いたげなまなざしで、彼を見た。
 少し顔色が悪いが、夢にまで見た憧れの顔がすぐそこにあった。
「恐いか?」
 彼は訊いた。
 声帯まで変形してしまったのか、しわがれた奇妙な声が出た。
 杏里がかぶりを振った。
 そして、じっと彼を正面から見据えると、静かな口調でいった。
「こんなことして・・・ヒデキ君、あなたは何を望んでるの?」



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