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第5部 慟哭のアヌビス

#7 その光が孕む闇

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「本当にもういいのか」
 玄関先で靴を脱ぎ、居間に上がってくると、寝癖のついた髪をかきあげながら、小田切がいった。
 杏里はちょうど、テーブルの上に料理を並べ終えたところだった。
 白のタンクトップに、ショートパンツ。
 ピンクのエプロンをつけている。
 タンクトップの下には何もつけていないので、大きな乳首がぽつんと浮き上がって見えている。
 しかし、小田切はその点に関してはまるで無反応だ。
 まだ30前の若者であるにもかかわらず、性的機能を喪失しているからだった。
 それを聞かされているだけに、小田切の前では杏里も全く無防備でいることができる。
 家の中を裸でうろついても、小田切は無関心でいてくれるのだ。
「カレーだけど、サラダもあるから食べてね」
 小田切が席につくなり、杏里はいった。
 LINEで、きょうは夕食を作っておくから何も買ってこなくていい、とあらかじめ連絡しておいた。
 無理するな、という返信をよこした小田切だったが、幸いにもコンビに弁当は買ってこなかった。
「うん、いけるな、うまい」
 ひと息で大皿半分ほどを平らげると、ぐいっとグラスの水を飲み干して小田切がつぶやいた。
「よかった」
 杏里はほっと胸をなでおろす思いで、パックの牛乳を持って自分も席についた。
「手足の動きもよくなってるみたいだな。今朝見たときは大違いだ」
 まさか由羅に手伝ってもらったとはいえず、杏里は曖昧に微笑んだ。
「もう大丈夫だよ。走ったりもできるし、重いものも持てるから」
「何はともあれ、よかったな」
 銀縁眼鏡の奥で、小田切が目を細めた。

 小田切勇次は、杏里の"トレーナー"である。
 血のつながりのない保護者とでもいおうか。
 "上"から派遣されてタナトスの面倒を見る、監視人兼コーチのような存在だった。
 細身でシャープな顔立ちの美青年だが、性機能を失っているためか、クールでとっつきにくい。
 雄特有のぎらぎらしたところがない分、無機質な印象を見る者に与える。
「勇次のほうこそ、仕事はどうなの?」
 ぼろが出ないうちにと、杏里は話題を変えた。
「この地方に新たな外来種の侵入はない。が、九州のほうが少し騒がしくなってるな。中国や韓国からの外来種の潜入が何件か確認された。大阪からパトスとタナトスを何組か回したところだよ」
 カレーのスプーンを口に運びながら、小田切が答えた。
「でも、ここも安全じゃないんだよね。だって、零が・・・」
 杏里がいいかけると、
「そうだな」
 小田切の手が止まる。
「首を切り離されても生きてるなんて、そんなことあるのかな」
 ぽつりと杏里はつぶやいた。
 ごろんと転がった零の生首。
 杏里は薄れ行く意識の中で、確かに見たのだ。
「にわかには信じられないが」
 小田切がスプーンを皿に置き、顎に手をやった。
 考え込むときの癖である。
「確かに、前に話したように、彼ら外来種には腰のところに第二の脳がある。恐竜みたいにね。だが、所詮それは運動神経を補佐する小脳みたいな器官にすぎないから、本来なら首を刎ねられれば死ぬはずなんだが。ただ・・・」
「ただ、何?」
 小田切の歯切れの悪い口調が気になって、杏里は訊いた。
「黒野零みたいな"雌の外来種”は、これまで捕獲の例がなくてね。正直、どんな能力を備えているのか、よくわかっていないのさ」
 外来種の大部分は、雄だという。
 雌は非常に数が少なく、その代わり、雄の上位存在に当たる優勢種らしいのだ。
 蟷螂や鮟鱇のように、雌のほうが桁違いに生命力が強いようなのである。
「由羅とこまめに連絡を取り合っておくことだな。いざとなったらあれに守ってもらうしかない」
「うん」
 杏里はうなずいた。
 小田切が由羅を『あれ』呼ばわりしたのが、少し悲しかった。
 由羅のトレーナーである冬美もそうだが、彼らは由羅を人間として見ていない。
 もちろん、タナトスである杏里のことも。
「それと、よかったら、2学期から通う学校を見ておくといい。一応タナトス派遣の要請の出ている学校だから、闇をいくつも抱えているはずだ。もちろん、夏休み中だから学校は休みだが、部活くらいはやっているだろう。雰囲気や、校舎の配置を見ておくと、いざというときの役に立つ」
「荘内橋中学だったよね」
「運河に面してるから、行けばすぐわかる。だが、くれぐれも生徒や学校関係者との接触は避けろ。病み上がりのその体調でいきなり"仕事”は大変だからな」
「わかったわ」
 杏里は食べかけのカレーの皿に目を落とした。
 心の中で、深いため息をついていた。
 夏が終わると、また始まるのだ。
 あの地獄のような日々が。
 黒野零のような狂人の襲撃を抜きにしても、杏里の学校生活は常に地獄だった。
 自分から災厄を引き寄せ、そしていざ襲われたら最後、そこから逃げることは"任務"上、許されない。
 いや、そもそもその前に、杏里には"抗う"という選択肢が初めからプログラムされていないのである。
「どうした? もう食べないのか」
 小田切が二杯目のカレーを皿に盛りながら、訊いた。
「なんか食欲なくなっちゃった」
 杏里は正直にいった。
「もう、お風呂はいって、寝るよ。きょうはいろいろ疲れたし」
「そういえば」
 小田切が思い出したように言葉を継いだ。
「トイレに使いかけのナプキンの袋があったけど、あれ、どうしたんだ? 俺、男だからついうっかり用意するの忘れてたんだが、ひとりで買いに行ったのか?」
「ううん。隣の子にもらったの」
「隣の子?」
「403号室の、呉秀樹君。紙袋かぶった、変わった子」
「紙袋? どういうことだ」
 小田切が身を乗り出してきたので、杏里は昨日の一件のあらましを話して聞かせることにした。
「そんなことがあったのか」
 聞き終えると、小田切がつぶやいた。
 また顎の先を指でなでている。
「どんどん進行していく顔の奇形だなんて・・・そんな病気、あるの?」
 少年の面影を脳裏に思い浮かべながら、杏里はたずねた。
 頭からすっぽりかぶった大きな茶色い紙袋。
 くぐもった声。
 でも、素直でやさしそうな子だった、と思う。
「象皮病とか、まあ、色々原因は考えられないことはないが」
 小田切が眉を寄せて考え込む。
「しかし、どうして紙袋なんだろう? いくら顔の奇形でも、大きめのマスクとか、他にいくらでも隠す方法がありそうだが・・・。もしかして、マスクなんかでは隠し切れないほど、変形が酷いのか・・・」
「そんなの、どうでもいいよ」
 杏里は少し不機嫌にいった。
「やさしくて、いい子だったよ。人間、顔じゃないんだ、って思った」
「まあ、それはそうだが・・・」
 小田切は目を細めると、杏里を正面から見つめてきた。
 ひやりとするほど、冷たいまなざしだった。
「あまり深入りするな。杏里、おまえは人間じゃないんだ。それを、忘れるなよ」
 杏里は答えなかった。
 ぷいとそっぽを向いて食器を持ち、シンクに立つ。
 わざと水道の蛇口をいっぱいにひねって、ザーザーと大量の水を出す。
 おまえは、人間じゃない。
 それは、杏里のいちばんきらいな台詞だったのだ。

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