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第5部 慟哭のアヌビス

#1 我が心の中の獣

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 暗闇の中にかすかにアンモニアの臭気が漂っている。
 こらえきれず、先刻彼が尿瓶の中に漏らした尿の臭いだった。
 彼はパジャマ姿のまま、押入れの2段目に膝を抱えて縮こまっていた。
 時計はないが、夜11時を過ぎている頃だ。
 彼がここに入ってから、もう3時間は経っていた。
 夜食用のパン。
 ペットボトルのお茶。
 非常時用の尿瓶(しびん)。
 準備は万端のはずだった。
 だが、押入れの中はあまりに蒸し暑く、お茶を飲みすぎたのが裏目に出た。
 彼は尿瓶に放尿するはめに陥り、臭気が外に漏れないか、
 先ほどからびくびくしていた。
 8時過ぎに、耀子が『修二』と呼ぶ男のやってくる気配がした。
 耀子の甘ったるい声に、時折男の野太い声が混じった。
 食事、風呂が済んだらしく、1時間ほどすると、彼が隠れている押入れのある
 部屋で酒盛りが始まった。
 笑い声が、淫靡な嬌声に変わっていくのに、さほど時間はかからなかった。

 両手で耳を塞いでも、その声を完全に締め出すことは不可能だった。
 彼の忌み嫌う”あれ”が始まったのだ。
 薄い押入れの戸を通して漏れ聞こえてくる、母親の喘ぎ声。
 聞き慣れているはずの声だった。
 最近までは、耳にするのがただ苦痛なだけだった。
 それが、ひと月ほど前から、変わってきた。
 その声を聞くと、彼の身体の一部が反応するようになったのだ。
 ペニスがわけもなく膨張し、熱くなってくるのである。
 彼は、それがいやでたまらなかった。
 股間で硬くなっているそれを、両手で押さえつける。
 耳から手を離したため、喘ぎ声が大きくなった。
 掌の中で、それが更に硬さを増すのがわかった。
 握ると、なんともいえない感覚が背筋を駆け抜けた。
 包皮が剝け、露出した先端が濡れてきていた。
 そこに触れると、後頭部に痺れるような快感が走った。
 だめだ。
 彼は心の中でうめいた。
 このままでは、また・・・。

 が、嫌悪感を、倒錯した衝動が押さえ込んだ。
 我慢できなかった。
 胸をどきどきさせながら、彼はそっと押入れの襖を開けた。
 刺青の彫られた分厚い背中が見えて、一瞬ぎょっとなる。
 その背中に、真っ白な裸の脚が2本絡みついている。
 背中が動くと、その脇のあたりから組み伏せられている耀子の上半身が
 垣間見えた。
 心臓が口から飛び出るかと思った。
 それは、たまらなく卑猥な眺めだった。
 素っ裸の耀子が、ふたつの乳房を男に揉みしだかれている。
 半ば開いた唇から這い出した舌が、蛇のように蠢いていた。
 目を離せなくなった。
 股間のそれを握る手に思わず力がこもる。
 男が激しく腰を動かし始めた。
 たくましい尻が次第にせり上がり、耀子の下半身を抱き抱える格好になった。
 耀子の細い体がブリッジするような体勢に持ち上がる。
 左右に垂れた乳房には、赤い爪跡がついている。
 男が吠え、耀子がすすり泣くような声を上げた。
 と同時に、彼の股間でそれが爆ぜた。
 闇の中に何かが飛び散る気配がしたかと思うと、掌に熱いどろりとしたもの
 が溢れ出した。
 痺れるような快感の波に、彼はしばし茫然となった。
 が、やがて、潮が引くように快感が薄れていくと、今度はどす黒い嫌悪感が
 膨れ上がってきた。
 また、やってしまった・・・。
 これで、何度目だろう・・・。
 男への憎しみ。
 母親への絶望。
 己に対する嫌悪感。
 が、その裏に芽生えた獣じみた衝動に、彼は戸惑っていた。
 僕は、いったい、何を欲しがっている・・・?
 耀子のあそこに己の身体の一部を突き立てる男の残像が、一瞬自分の姿に
 重なり、消えた。
 くそ。
 彼は固く目を閉じ、今や股間で縮こまってしまっている”それ”をぎゅっと
 握り締めた。
 自分を罰するように、強く爪を立てる。
 そのまま胎児のように丸くなった。

 どれだけそうしていたのか。
 かなりの時間が経ったようだった。
 気がつくと、外が静かになっていた。
 襖に手をかけようとしたとき、向こうからそれが開いた。
「あんた、何してたのよ」
 目の前に、耀子が仁王立ちになって彼を見下ろしていた。
 レースの縁取りのある、真っ赤なブラジャーとパンティだけの姿だった。
 ブラジャーの紐が片方外れ、垂れ気味の乳房が丸見えになっている。
 黒っぽい大きめの乳首が、妙に薄汚れて見えた。
「何この臭い?」
 顔をしかめて、掌で空気を仰ぐ仕草をした。
「あんた、あたしを盗み見しながらマス掻いてたの? ったく、
 母親が犯されるのを見て欲情するなんて」
 耀子の目はぎらぎら耀いている。
「ほんとにおまえは、化け物としかいいようがないね。外見だけじゃなく、
 中身も化け物なんだ」
 彼は打ちひしがれて、耀子から顔を背けた。
 明かりに照らし出された押入れの床に、彼の放った半透明の液体が大量に
 飛び散っている。
 彼の喉から嗚咽が漏れた。
 青臭い臭いを放つそれは、まさしくけだものの証だったのだ。


 困った・・・。
 ベッドから半身を起こし、杏里は茫然と己の下半身を見下ろした。
 生理が始まっていた。
 パジャマのズボンが経血でぐっしょり濡れてしまっている。
 尻をずらすと、シーツも真っ赤に染まっていた。
 生理が来るには10日ほど早すぎる。
 極度の重傷を全身に負ったせいで、サイクルが狂ったに違いなかった。
 それにしても、皮肉なものだ、と思う。
 杏里は人間ではない。
 タナトスである。
 タナトスは生殖能力をもたない。
 なのに、なぜか人間の女性と同じように、生理だけはやってくるのだ。
 女性ホルモンが過剰なので仕方ないのかもしれないが、考えてみると、
 ずいぶんと損な話だった。

 壁を伝いながら風呂場に立っていき、ズボンと下着を脱いだ。
 汚れ物を水を張ったバケツに放り込むと、ついでにシャワーを浴びた。
 新しい下着に着替えようとして、気づいた。
 しまった。ナプキン、持ってきてなかった・・・。
 小田切は仕事に出かけていて、不在である。
 自分で買いに出るしかなかった。

 ため息をひとつつくと、杏里は時間をかけ、外出着に着替えた。
 指がまだ自由に動かないので、ボタンを嵌めたりすることができない。
 自然に、Tシャツとスカートという格好になる。
 杏里の持っているスカートは、すべてタナトス仕様だからどれも極度に短い。
 Tシャツも、襟元が大きく開いたものばかりだ。
 身体がろくに動かない今、この格好で外出するのは抵抗があったが、仕方な 
  かった。
 松葉杖をつき、部屋の外に出る。
 エレベーターは、通路の一番奥だ。
 ずいぶんと、遠い。
 何歩か歩いたときだった。
 片方の松葉杖が、ふいに空を切った。
 階段!
 気づいたときにはすでに遅かった。
「あ!」
 杏里はバランスを崩し、転倒した。
 松葉杖が飛び、乾いた音を立てて階段を落ちていった。
 その後を追うかのように、杏里の体もずり落ち始める。
 とっさに手を伸ばしたが、思うように指が動かなかった。
 視界が回転し、天と地が逆転した。
 そして。
 真っ逆さまに、杏里は落ちた。

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