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#36 訪問
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その週末。
約束の時間きっかりに、相沢巧はやってきた。
「比奈ちゃんの施設、ちょっと不便なところにあるので、友人に車、借りてきました」
芙由子の家の前に止めた軽自動車のドアを開け、はにかんだように笑ってみせた。
「色々調べてみたんですけど、里親になるって、大変なんですね」
車が走り出すと、シートに身体を埋めて、芙由子は言った。
「研修があるんですってね。里親研修」
ハンドルを握り、まっすぐ前を見つめながら、巧が相槌を打つ。
「ええ。その後、審議会みたいなところで審査なんかもあって、色々適合条件を調べられるみたいです」
「児童相談所へは行ってみましたか? まずは児相に相談するのが一番かと」
「はい。ついこの間、行ってきました。私の場合、経済的に安定してないのが難だって、はっきり言われちゃいましたよ。今の収入で子供を預かるのは、難しいんじゃないかって」
芙由子はため息をついた。
児相の係員は、それなりに親切に対応してくれたと思う。
が、結局、いきつくのはそこだった。
「子育ては、ペットを飼うのとは違うんです。結婚なさるか、もう少し、経済的に安定してからお考えになってはどうですか?」
母親ぐらいの年の係員にそう言われてしまうと、芙由子にはもう返す言葉がなかったのだ。
「なるほど。なかなかシビアですね」
巧は慣れたハンドルさばきで幹線道路から脇道へと車を乗り入れていく。
どうやら施設は市の東部にある丘陵地帯に位置しているようだ。
「で、どうするんですか? 比奈ちゃんのことは、あきらめると?」
「いえ。資格を取ろうと思います。里親申請だけ先にしておいて、その間に介護福祉士の資格を。私、ずっと祖母とふたり暮らしだったので、高齢者の方々のお役に立てる仕事をしてみたいと、前から思ってたんです。でも、なかなか踏み出せなくて…。比奈ちゃんのおかげで、やっと踏ん切りがつきました」
嘘ではなかった。
インターネットで通信講座にも申し込んである。
資格が取れるまで半年以上かかるし、それから就職先を探すとなると、条件が整うのはかなり先になるだろう。
でも、がんばろうと思う。
比奈はまだ6歳だ。
あと1年くらいなら、待ってくれるに違いない。
「いいかもしれませんね。介護職は慢性の人手不足だと聞いています。資格があれば、就職には困らないでしょう。それに何よりも、芙由子さんはまだ若いんだし、きっとなんとかなりますよ」
自分より10近くも年下の巧みに”若い”と言われるのはおかしなものだと思ったが、悪い気分ではなかった。
介護現場は厳しいし、労働条件も悪い。
人手不足で廃業する業者も多いという話だ。
でも、今は何より肩書がほしい。
パート社員以上の社会的な肩書が。
「見えてきました。あそこですよ」
巧が言ったのは、出発して1時間近くたってからのことだった。
車は丘の間に刻まれた坂道を登っていく。
路肩の並木には新芽がそろい始め、そのあいだから春の陽射しがきらきら輝きている。
坂を上り切ったところに門の一部が見えた。
『ひまわり園』と書かれた立て看板。
その横の門扉は開いていた。
左手が来客用駐車場で、小道の突き当りに平屋建ての白い建物がうずくまっている。
幼稚園か保育園に感じは似ているようだ。
来客用駐車場に車を止め、正面玄関まで歩いた。
「見学の方ですね」
あらかじめ電話で来意を告げてあったので、職員が出迎えてくれた。
芙由子より若そうな、明るい雰囲気の女性である。
化粧っ気のない笑顔がすがすがしい。
「まず、これにご記入をお願いします」
用紙とボールペンを渡された。
必要な情報を記入するカルテのようなものだ。
「岩瀬比奈ちゃんは、今、工作室にいます。あんな事件があったのに、大人しくて、とってもいい子なんですよ」
芙由子から記入し終えた用紙を受け取ると、明るい声で女性職員が言った。
廊下の右側は砂場や鉄棒のある校庭になっていて、左側に教室みたいな部屋が並んでいる。
壁に子どもが描いた絵が貼られているところも、幼稚園そっくりだ。
ここに、比奈がいる…。
そう思うと、胸がきゅんと締めつけられた。
周りの子たちと、うまくやっているだろうか。
施設の人には、親切にしてもらっているだろうか。
ちゃんとおなかいっぱい、おいしいものを食べさせてもらっているだろうか…。
『工作室』と書かれたプレートが見えてきた時だった。
ふいにいやな予感に囚われて、芙由子はふと足を止めた。
部屋のほうから、あのおなじみの気配が漂ってくる。
床を流れるタールのような、眼に見えぬどす黒い”悪意”。
でも、まさか、こんなところにまで…。
比奈の母親、明美が来ているのだろうか。
けれど、彼女はもう転居したのではなかったか。
数日前、あのアパートの前を通った時には、すでにあの部屋はもぬけのカラになっていた。
新しい住居が決まり、改心した明美が比奈を引き取りに来たということか。
でも、それにしても、この気配…。
「どうなさったんですか?」
女性職員がけげんそうな顔で振り向いた。
「誰か、いますね」
やっとのことで、芙由子は言った。
「私たち以外の、大人の誰かが」
「ああ」
職員が破顔した。
「よくわかりましたね。もう一組の里親希望の方です。松村さんという、製薬会社の女社長さんですよ」
約束の時間きっかりに、相沢巧はやってきた。
「比奈ちゃんの施設、ちょっと不便なところにあるので、友人に車、借りてきました」
芙由子の家の前に止めた軽自動車のドアを開け、はにかんだように笑ってみせた。
「色々調べてみたんですけど、里親になるって、大変なんですね」
車が走り出すと、シートに身体を埋めて、芙由子は言った。
「研修があるんですってね。里親研修」
ハンドルを握り、まっすぐ前を見つめながら、巧が相槌を打つ。
「ええ。その後、審議会みたいなところで審査なんかもあって、色々適合条件を調べられるみたいです」
「児童相談所へは行ってみましたか? まずは児相に相談するのが一番かと」
「はい。ついこの間、行ってきました。私の場合、経済的に安定してないのが難だって、はっきり言われちゃいましたよ。今の収入で子供を預かるのは、難しいんじゃないかって」
芙由子はため息をついた。
児相の係員は、それなりに親切に対応してくれたと思う。
が、結局、いきつくのはそこだった。
「子育ては、ペットを飼うのとは違うんです。結婚なさるか、もう少し、経済的に安定してからお考えになってはどうですか?」
母親ぐらいの年の係員にそう言われてしまうと、芙由子にはもう返す言葉がなかったのだ。
「なるほど。なかなかシビアですね」
巧は慣れたハンドルさばきで幹線道路から脇道へと車を乗り入れていく。
どうやら施設は市の東部にある丘陵地帯に位置しているようだ。
「で、どうするんですか? 比奈ちゃんのことは、あきらめると?」
「いえ。資格を取ろうと思います。里親申請だけ先にしておいて、その間に介護福祉士の資格を。私、ずっと祖母とふたり暮らしだったので、高齢者の方々のお役に立てる仕事をしてみたいと、前から思ってたんです。でも、なかなか踏み出せなくて…。比奈ちゃんのおかげで、やっと踏ん切りがつきました」
嘘ではなかった。
インターネットで通信講座にも申し込んである。
資格が取れるまで半年以上かかるし、それから就職先を探すとなると、条件が整うのはかなり先になるだろう。
でも、がんばろうと思う。
比奈はまだ6歳だ。
あと1年くらいなら、待ってくれるに違いない。
「いいかもしれませんね。介護職は慢性の人手不足だと聞いています。資格があれば、就職には困らないでしょう。それに何よりも、芙由子さんはまだ若いんだし、きっとなんとかなりますよ」
自分より10近くも年下の巧みに”若い”と言われるのはおかしなものだと思ったが、悪い気分ではなかった。
介護現場は厳しいし、労働条件も悪い。
人手不足で廃業する業者も多いという話だ。
でも、今は何より肩書がほしい。
パート社員以上の社会的な肩書が。
「見えてきました。あそこですよ」
巧が言ったのは、出発して1時間近くたってからのことだった。
車は丘の間に刻まれた坂道を登っていく。
路肩の並木には新芽がそろい始め、そのあいだから春の陽射しがきらきら輝きている。
坂を上り切ったところに門の一部が見えた。
『ひまわり園』と書かれた立て看板。
その横の門扉は開いていた。
左手が来客用駐車場で、小道の突き当りに平屋建ての白い建物がうずくまっている。
幼稚園か保育園に感じは似ているようだ。
来客用駐車場に車を止め、正面玄関まで歩いた。
「見学の方ですね」
あらかじめ電話で来意を告げてあったので、職員が出迎えてくれた。
芙由子より若そうな、明るい雰囲気の女性である。
化粧っ気のない笑顔がすがすがしい。
「まず、これにご記入をお願いします」
用紙とボールペンを渡された。
必要な情報を記入するカルテのようなものだ。
「岩瀬比奈ちゃんは、今、工作室にいます。あんな事件があったのに、大人しくて、とってもいい子なんですよ」
芙由子から記入し終えた用紙を受け取ると、明るい声で女性職員が言った。
廊下の右側は砂場や鉄棒のある校庭になっていて、左側に教室みたいな部屋が並んでいる。
壁に子どもが描いた絵が貼られているところも、幼稚園そっくりだ。
ここに、比奈がいる…。
そう思うと、胸がきゅんと締めつけられた。
周りの子たちと、うまくやっているだろうか。
施設の人には、親切にしてもらっているだろうか。
ちゃんとおなかいっぱい、おいしいものを食べさせてもらっているだろうか…。
『工作室』と書かれたプレートが見えてきた時だった。
ふいにいやな予感に囚われて、芙由子はふと足を止めた。
部屋のほうから、あのおなじみの気配が漂ってくる。
床を流れるタールのような、眼に見えぬどす黒い”悪意”。
でも、まさか、こんなところにまで…。
比奈の母親、明美が来ているのだろうか。
けれど、彼女はもう転居したのではなかったか。
数日前、あのアパートの前を通った時には、すでにあの部屋はもぬけのカラになっていた。
新しい住居が決まり、改心した明美が比奈を引き取りに来たということか。
でも、それにしても、この気配…。
「どうなさったんですか?」
女性職員がけげんそうな顔で振り向いた。
「誰か、いますね」
やっとのことで、芙由子は言った。
「私たち以外の、大人の誰かが」
「ああ」
職員が破顔した。
「よくわかりましたね。もう一組の里親希望の方です。松村さんという、製薬会社の女社長さんですよ」
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