汚れちまった悲しみに、きょうも血潮が降り注ぐ

戸影絵麻

文字の大きさ
上 下
30 / 58

#29 忘却 

しおりを挟む
 部屋に戻ると、乃亜が台所から振り返って、不機嫌そうに言った。
「この家、包丁くらいないのかな? これじゃ、ケーキが切れないじゃない」
 巧はローテーブルの上に置かれたバースディケーキを見下ろした。
 きょうは、巧の20歳の誕生日である。
 それにかこつけて、妹の乃亜が、ケーキ持参で押しかけてきたのだ。
「包丁?」
 頭の隅で何かが蠢いた気がした。
「あるだろ? この前買ったばかりのが」
「だから、ないんだってば。ま、いいか、こっちの果物ナイフで」
 紙皿と果物ナイフを手に、乃亜が戻ってきた。
 乃亜は高校2年生。
 同じ市内に、両親と一緒に住んでいる。
 近いにもかかわらず、巧がいっこうに実家によりつかないので、何かと口実を設けてはこのアパートに押しかけてくる。
 今晩のネタは、巧の20歳の誕生日というわけだ。
「ほんと、お兄ちゃんったら、物忘れが激しいんだから」
 テーブルの向かい側に正座して、恨めしそうに乃亜が言った。
「きょうのことだってさ、ほんとは先週LINEで約束してあったのに」
 台所で口をすすぎ、マウスウォッシュでたばこの匂いを消すと、巧は乃亜の前に座った。
 白いセーターにダメージジーンズといったラフな服装だが、乃亜はどちらかといえば美少女の類いに入る。
 その切れ長の瞳がじっと巧をにらみつけているのは、今日の昼、一緒に映画を見るという約束を巧がすっぽかしたからだった。
 といっても、巧にはその自覚はなく、だいたいそんなLINEメッセージが来ていたことすら忘れてしまっていた。
「だから、悪かったって言ってるだろ。全然記憶にないんだから、しょうがないじゃないか」
 乃亜が淹れた紅茶をひと口すすり、巧は言い返した。
「なによ、楽しみにしてるって、返事までよこしたくせに。だから安心してたのに」
 俺が、返事を?
 何の話だ?
 そうは思ったが、ここは下手につつかないほうがいい気がした。
 どうせまた、健忘症扱いされるに決まっている。
「それより、ケーキ食ったらすぐ帰れよな。バス、なくなっちゃうぞ」
 話題を変えようと、何げなくそう口にしたとたん、乃亜の形のいい眉毛が吊り上がった。
「えー? 泊めてくれないの? 鬼! 鬼畜! まさか、この夜中に可愛い妹を追い返すつもり?」
「はあ? こんな汚い所に泊まってくつもりかよ?」
 巧が呆れた声で言った時、乃亜の眼がさっと窓のほうを見た。
 サイレンの音が聞こえてくる。
 だんだん近くなってくるようだ。
 乃亜がすっと息を吸い込んだ。
「パトカーだよ。何かあったのかな。なんだか、すぐそこに止まったみたい」

 
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

終焉の教室

シロタカズキ
ホラー
30人の高校生が突如として閉じ込められた教室。 そこに響く無機質なアナウンス――「生き残りをかけたデスゲームを開始します」。 提示された“課題”をクリアしなければ、容赦なく“退場”となる。 最初の課題は「クラスメイトの中から裏切り者を見つけ出せ」。 しかし、誰もが疑心暗鬼に陥る中、タイムリミットが突如として加速。 そして、一人目の犠牲者が決まった――。 果たして、このデスゲームの真の目的は? 誰が裏切り者で、誰が生き残るのか? 友情と疑念、策略と裏切りが交錯する極限の心理戦が今、幕を開ける。

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

視える棺2 ── もう一つの扉

中岡 始
ホラー
この短編集に登場するのは、"視えてしまった"者たちの記録である。 影がずれる。 自分ではない"もう一人"が存在する。 そして、見つけたはずのない"棺"が、自分の名前を刻んで待っている——。 前作 『視える棺』 では、「この世に留まるべきではない存在」を視てしまった者たちの恐怖が描かれた。 だが、"視える者"は、それだけでは終わらない。 "棺"に閉じ込められるべきだった者たちは、まだ完全に封じられてはいなかった。 彼らは、"もう一つの扉"を探している。 影を踏んだ者、"13階"に足を踏み入れた者、消えた友人の遺書を見つけた者—— すべての怪異は、"どこかへ繋がる"ために存在していた。 そして、最後の話 『視える棺──最後の欠片』 では、ついに"棺"の正体が明かされる。 "視える棺"とは何だったのか? 視えてしまった者の運命とは? この物語を読んだあなたも、すでに"視えている"のかもしれない——。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

由紀と真一

廣瀬純一
大衆娯楽
夫婦の体が入れ替わる話

処理中です...