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#4 邂逅
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なぜそちらに目がいったのか、わからない。
物音もしなかったし、気配を感じたとか、そういったものでもなかった。
ふと我に返ると、芙由子はそのアパートの一室のベランダを見つめていた。
住宅街の真ん中あたりにさしかかっていた。
あと50メートルほども歩けば、我が家が見えてくる位置だ。
道路の右手に、3階建ての古いアパートが建っている。
芙由子の注意を引いたのは、その1階の奥の部屋のベランダだった。
太い鉄柵の隙間から、白っぽいものが見えている。
初めは、落ちた洗濯物かと思った。
が、見つめているうちに、どうやらそうではないらしいことがわかってきた。
低い振動音を立てるエアコンの室外機。
その金属の四角い箱と壁の間に挟まるようにして、小さな子供が膝を抱えて縮こまっている。
「ちょっと、なんで…?」
無意識のうちに、疑問を声に出してしまっていた。
どうしてあんな小さな子が、こんな寒いのに外に出てるわけ?
幅10メートルほどの道路を横断して、ベランダの下に立った。
子どもがいるのは1階だから、ちょうど芙由子の目の高さである。
鉄柵に顔を近づけて中を覗き込む。
髪の長さからして、子どもはどうも女の子のようだ。
薄いピンクのパジャマは着ているが、足には何も履いていない。
部屋のサッシ窓は閉まっていて、中の明かりはついている。
窓に時折青白い光が動くのは、部屋の中にいる者がテレビを見ているからだろう。
「どうしたの?」
なるべく驚かさないようにと声を低くし、少女に向かって声をかけてみた。
やせた肩がぴくりと震え、少女がますます縮こまるのがわかった。
「ひょっとして、おうちに入れないの? パパとママは、中にいるんだよね?」
2度目の呼びかけに、ようやく少女が膝の間から顔を上げた。
目のぱっちりした、可愛らしい顔立ちをしている。
だが、その左目の周りが、パンダのように黒ずんでいるのを、芙由子は見逃さなかった。
こ、これは…。
口の中からしゅんと音を立てて唾が引いた。
この子、虐待されている…?
テレビで目にしたさまざまなニュースが脳裏を去来した。
でも、まさか、うちの近くで実際にそんなことが…。
「そんな所にいたら、寒いでしょ? お姉さんが、中に入れてもらえるように、ご両親に頼んであげようか?」
その問いかけには、少女は答えようとしなかった。
ぎゅっと身を縮めて、顔を伏せてしまう。
その時になって初めて、芙由子は少女が黄色いクマのぬいぐるみを抱きしめていることに気づいた。
あちこち変色し、ボロボロになったぬいぐるみが、少女の膝の間から見えている。
胸にこみ上げる熱いものに、芙由子は危うく叫びだしそうになった。
かろうじて叫びを飲み下し、努めて優しい声で語りかけを再開する。
「ねえ、あなた、なんて名前? 私は朝比奈芙由子。この近くに住んでるの」
何かひっかかるところがあったのか、少女がちらっと眼を上げ、
「ひな」
と小さくつぶやいた。
自分の名前を答えたのだとわかるまでに、しばし時間がかかった。
「そうか、ひなちゃんっていうんだ。じゃ、お姉ちゃんとおんなじだね。お姉ちゃんの苗字、朝比奈だから」
少女が反応したのは、きっとそこだろう。
そう見当をつけ、勢い込んで芙由子は言葉を継いだ。
「あさひな…?」
少女の顔が徐々に上がる。
本当に、なんてかわいい顔してるんだろう。
正面から見つめてくるその黒々とした瞳に、芙由子は泣き出したい気分に陥った。
なのに、どうしてこの子はこんなところにいるのだろう?
両親は、いったい何を考えているのだろう?
背後に人の立つ気配がしたのは、芙由子が手の甲で目頭を拭った時のことだった。
「ひどい話ですよね」
若い男の声が、言った。
「これは典型的な児童虐待ですよ」
物音もしなかったし、気配を感じたとか、そういったものでもなかった。
ふと我に返ると、芙由子はそのアパートの一室のベランダを見つめていた。
住宅街の真ん中あたりにさしかかっていた。
あと50メートルほども歩けば、我が家が見えてくる位置だ。
道路の右手に、3階建ての古いアパートが建っている。
芙由子の注意を引いたのは、その1階の奥の部屋のベランダだった。
太い鉄柵の隙間から、白っぽいものが見えている。
初めは、落ちた洗濯物かと思った。
が、見つめているうちに、どうやらそうではないらしいことがわかってきた。
低い振動音を立てるエアコンの室外機。
その金属の四角い箱と壁の間に挟まるようにして、小さな子供が膝を抱えて縮こまっている。
「ちょっと、なんで…?」
無意識のうちに、疑問を声に出してしまっていた。
どうしてあんな小さな子が、こんな寒いのに外に出てるわけ?
幅10メートルほどの道路を横断して、ベランダの下に立った。
子どもがいるのは1階だから、ちょうど芙由子の目の高さである。
鉄柵に顔を近づけて中を覗き込む。
髪の長さからして、子どもはどうも女の子のようだ。
薄いピンクのパジャマは着ているが、足には何も履いていない。
部屋のサッシ窓は閉まっていて、中の明かりはついている。
窓に時折青白い光が動くのは、部屋の中にいる者がテレビを見ているからだろう。
「どうしたの?」
なるべく驚かさないようにと声を低くし、少女に向かって声をかけてみた。
やせた肩がぴくりと震え、少女がますます縮こまるのがわかった。
「ひょっとして、おうちに入れないの? パパとママは、中にいるんだよね?」
2度目の呼びかけに、ようやく少女が膝の間から顔を上げた。
目のぱっちりした、可愛らしい顔立ちをしている。
だが、その左目の周りが、パンダのように黒ずんでいるのを、芙由子は見逃さなかった。
こ、これは…。
口の中からしゅんと音を立てて唾が引いた。
この子、虐待されている…?
テレビで目にしたさまざまなニュースが脳裏を去来した。
でも、まさか、うちの近くで実際にそんなことが…。
「そんな所にいたら、寒いでしょ? お姉さんが、中に入れてもらえるように、ご両親に頼んであげようか?」
その問いかけには、少女は答えようとしなかった。
ぎゅっと身を縮めて、顔を伏せてしまう。
その時になって初めて、芙由子は少女が黄色いクマのぬいぐるみを抱きしめていることに気づいた。
あちこち変色し、ボロボロになったぬいぐるみが、少女の膝の間から見えている。
胸にこみ上げる熱いものに、芙由子は危うく叫びだしそうになった。
かろうじて叫びを飲み下し、努めて優しい声で語りかけを再開する。
「ねえ、あなた、なんて名前? 私は朝比奈芙由子。この近くに住んでるの」
何かひっかかるところがあったのか、少女がちらっと眼を上げ、
「ひな」
と小さくつぶやいた。
自分の名前を答えたのだとわかるまでに、しばし時間がかかった。
「そうか、ひなちゃんっていうんだ。じゃ、お姉ちゃんとおんなじだね。お姉ちゃんの苗字、朝比奈だから」
少女が反応したのは、きっとそこだろう。
そう見当をつけ、勢い込んで芙由子は言葉を継いだ。
「あさひな…?」
少女の顔が徐々に上がる。
本当に、なんてかわいい顔してるんだろう。
正面から見つめてくるその黒々とした瞳に、芙由子は泣き出したい気分に陥った。
なのに、どうしてこの子はこんなところにいるのだろう?
両親は、いったい何を考えているのだろう?
背後に人の立つ気配がしたのは、芙由子が手の甲で目頭を拭った時のことだった。
「ひどい話ですよね」
若い男の声が、言った。
「これは典型的な児童虐待ですよ」
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