汚れちまった悲しみに、きょうも血潮が降り注ぐ

戸影絵麻

文字の大きさ
上 下
3 / 58

#2 兆候

しおりを挟む
 カップラーメンを作ろうと台所に立ち、相原巧はふと眉をひそめた。
 食器入れから、見慣れぬものが突き出ている。
「なんだろ、これ?」
 柄を持って引き抜くと、真新しいステンレス製の包丁だった。
「ん? こんなもの、うちにあったっけ?」
 刃先にまだ値段シールが貼ってあるところを見ると、どうやら買ったばかりらしい。
 値段の下には、近所のショッピングモールの店名が印刷されている。
 が、頭をひねってみても、最近そこへ行った記憶はない。
 大学の後期試験、家庭教師の教え子の受験指導で、とてもそれどころではなかったはずだからである。
 巧は、ここN市にある国立大学の2回生だ。
 ついさきほど、家庭教師先から帰宅したばかりである。
 といってもきょうは授業ではなく、教え子の斎藤ユイカの合格祝いみたいなものだった。
 本来なら先週で契約は切れていたのだが、念願の私立大学に合格したユイカの両親から、先生もぜひ、と呼ばれていたのである。
 一時はあれほど神経質になってとんがっていたユイカだったが、今夜は始終上機嫌だった。
 綺麗に着飾り、ほとんど恋人気取りでべたべたくっついてくるのには、心底閉口した。
 高校3年生ながら、ユイカはそこそこの美人である。
 友人たちに話したら、さぞうらやましがられるに違いない。
 が、巧はここ半年ほどで妙に色気づいてきたユイカが、正直苦手だった。
 仕事と割り切って週2回、英語と数学を教えてきたが、はっきりいって、限界だったと思う。
 だから合格の知らせを聞いた時、何より喜んだのは巧のほうだった。
 これであの女から解放される。
 そんな爽快感で、天にも昇る心地だったのだ。
 ともあれ、ユイカの合格パーティという最後の大仕事が終わり、しばらくはゆっくりできるはずだった。
 春休みも近い。
 久しぶりに旅行に出てみるのも、いいかもしれない。
 包丁を食器ケースに戻し、そんなことを考えながら、窓際のデッキチェアに座った時である。
 巧はふと、さっき帰り際に目撃した光景を思い出し、びくりと身を震わせた。
 この真下の105号室。
 ベランダにうずくまるピンクのパジャマ。
 思い出すと居ても立ってもいられなくなり、サッシ窓を開けて、そっと外に首を出した。
 下に目をやると、ピンクの塊はまだそこにあった。
 小学校低学年ぐらいの女児である。
 エアコンの室外機の陰にうずくまり、両手で膝を抱えて頭を落としている。
  ありえないことだが、少女は裸足だった。
 来ているのも、イチゴの模様のついた薄いパジャマだけのようだ。
 巧がベランダの前を通ってから、すでに1時間は経っている。
 その間、あの子はずっとあそこに居たのだろうか。
 今は2月半ばで、外はかなり寒い。
 このままでは、凍死してしまうのではないか。
 ふとそんな考えが脳裏をかすめた。
 いったい親は何をしてるんだ?
 冷たい怒りがこみあげてくる。
 105号室の住人には、ほとんど会ったことがない。
 最近転居してきたばかりらしく、引っ越しの際にちらと姿を見かけただけだ。
 眼鏡をかけた神経質そうな若い父親。
 大柄で美人だが、能面のような表情の母親。
 父親が小さな男の子を抱き、母親があの少女の手を引いていたように思う。
 目のくりくりした、可愛らしい顔立ちの少女だった。
 それ以来、姿を見かけたことはない。
 ただ、時折、声がした。
 母親らしき女性の叱咤の声。
 泣きながらあやまる少女の声。
 そこに時々低い男の声が混じった。
 何かが壁にぶつかる音。
 少女の悲鳴。
 児童虐待。
 その可能性は、高い。
 少女が夜、ベランダにいる姿を見かけたのも、今晩が初めてではなかった。
 2週間ほど前も、そんなことがあったように思う。
 けど、だからといって、大学生の巧にはどうしていいのかわからない。
 警察に通報?
 それとも児童相談所?
 あれこれ考えていると、コツコツとアスファルトを踏む足音が近づいてきた。
 角を回って現れたのは、ベージュのコートにマフラーの、小柄な女性だった。
 年のころは20代半ばくらいだろうか。
 髪型はボブカットで、全体的に地味な印象の女性である。
 アパートの前を通りかかったところで、その女性が雷にでも打たれたように突然立ち止まるのが見えた。
 このアパートの各部屋のベランダは道路に面していて、鉄柵の間から中を覗き込むことができる。
 おそらく巧がさっき気づいたように、あの女性もベランダの少女に気づいたに違いない。
「行くか」
 煙草とライター、それに部屋の鍵をコットンパンツのポケットに突っ込むと、巧は椅子から腰を上げた。
 ひとりで対処する勇気はないが、ふたりならなんとかなる。
 そんな気がしたからだった。

 
 
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

終焉の教室

シロタカズキ
ホラー
30人の高校生が突如として閉じ込められた教室。 そこに響く無機質なアナウンス――「生き残りをかけたデスゲームを開始します」。 提示された“課題”をクリアしなければ、容赦なく“退場”となる。 最初の課題は「クラスメイトの中から裏切り者を見つけ出せ」。 しかし、誰もが疑心暗鬼に陥る中、タイムリミットが突如として加速。 そして、一人目の犠牲者が決まった――。 果たして、このデスゲームの真の目的は? 誰が裏切り者で、誰が生き残るのか? 友情と疑念、策略と裏切りが交錯する極限の心理戦が今、幕を開ける。

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

視える棺2 ── もう一つの扉

中岡 始
ホラー
この短編集に登場するのは、"視えてしまった"者たちの記録である。 影がずれる。 自分ではない"もう一人"が存在する。 そして、見つけたはずのない"棺"が、自分の名前を刻んで待っている——。 前作 『視える棺』 では、「この世に留まるべきではない存在」を視てしまった者たちの恐怖が描かれた。 だが、"視える者"は、それだけでは終わらない。 "棺"に閉じ込められるべきだった者たちは、まだ完全に封じられてはいなかった。 彼らは、"もう一つの扉"を探している。 影を踏んだ者、"13階"に足を踏み入れた者、消えた友人の遺書を見つけた者—— すべての怪異は、"どこかへ繋がる"ために存在していた。 そして、最後の話 『視える棺──最後の欠片』 では、ついに"棺"の正体が明かされる。 "視える棺"とは何だったのか? 視えてしまった者の運命とは? この物語を読んだあなたも、すでに"視えている"のかもしれない——。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

由紀と真一

廣瀬純一
大衆娯楽
夫婦の体が入れ替わる話

処理中です...