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第1章 あずみ
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出発の準備といっても、たいして持っていくものはなかった。
日用品と服や下着の替え、懐中電灯に電池、スマホと充電コード。
後は残ったミネラルウォーターのペットボトルが2本。
3本あったうちの1本は、カラスを食べた後、喉が渇いたといってあずみが飲んでしまった。
ちなみに缶ビール2本は景気づけに僕が飲んだ。
武器は果物ナイフ1本と先輩にもらったお古のゴルフクラブ。
心もとないことこの上ない。
あずみはといえば、来た時のままのスポーツバッグを持って出るだけだった。
もちろん背中にはあの伸縮自在のポールを背負っている。
そのほうが、僕の装備より、だいぶマシなのかもしれなかった。
白の綿パンにワインレッドのポロシャツを合わせ、薄いブルーのパーカーを羽織る。
風呂の残り湯で身体を洗ったあずみは、新しいセーラー服に着替えていた。
「なんでまたセーラー服? ほかに服持ってきてないの?」
そう訊いたら、
「だってお兄ちゃん、あずみのセーラー服姿、好きじゃん」
という鋭い返事が返ってきた。
血はつながっていないとはいえ、さすが妹。
よく観察している。
あずみのビキニの写真は写真立てごとそっとリュックに忍ばせ、その代わりノートパソコンは置いていくことにした。
重いしかさばるし、ケロヨンとの連絡なら、スマホがあればこと足りるからだ。
「よし。行こう」
忘れ物がないか、部屋の中をひと通り見渡して、僕は言った。
1年半住んだ部屋だが、さして未練があるわけではなかった。
ただ、次に温かいベッドや布団や寝られる日がくるのかどうかと考えると、さすがに暗澹たる気分に陥らざるを得なかった。
ドアノブに手をかけようとしたら、グウと腹が鳴った。
そうだった。
ガスも電気も止まってしまったため、昨日の夜から何も食べていないのだ。
仮死状態のあずみのそばにつきっきりで、食欲があまりなかったせいもある。
「お兄ちゃん、おなか空いてるんじゃないの?」
耳ざとくそれを聞きつけて、あずみが訊いてきた。
でかいカラスを丸ごと1羽食べた分、あずみのほうが元気なようである。
「ま、まあな。でも、イオンに着けば、何か食べるものくらいあるさ」
強がりを口にしてみたが、空腹というものは、一度意識してしまうとなかなか消えてくれないものだ。
思わず立ちくらみがしてよろめくと、あずみが僕の腕を取って支えてくれた。
「ね、悪いこと言わないから、外に出る前に、このマンションで食べ物探してみようよ。まだゾンビになってない人もいるかもしれないし、空き家だったらちょっと中に入って、何か食べ物もらってくるって手もあるでしょ? たとえばお隣さんは、どんな人が住んでるの?」
「407号室は、確かOLのお姉さんだったような…」
僕は朝たまに見かける髪の長いスマートな女性を思い出した。
スタイリッシュという言葉がぴったりの、かなりイケてる雰囲気の年上の女性である。
「まさか、その人と浮気してないよね」
あずみの声が尖った。
「浮気って何だよ。俺はまだ独身だぞ」
「婚約者がいるでしょ」
「は? どこに?」
「ここにだよ」
あずみがぐっと顔を近づけてくる。
こんな時、インディアンのメイクみたいな模様が、けっこう威嚇的である。
「そ、そうだったな」
僕はため息をついた。
「だけど、何にもないって。だいたい、俺なんか相手にされるわけないし」
「あ、相手にされたかったんだ」
「違うって」
「じゃ、お隣にまず、行ってみようよ」
あずみが言って、ドアを開けた。
なんだよそれ。
「じゃ」の使い方、間違ってるだろ?
足音を忍ばせて、外に出る。
3日ぶりの外界である。
五月晴れというやつか。
見る人もいないというのに、空だけはやたら青くていい天気だ。
407号室の前に立つと、信じられないことにドアが少し開いていた。
3日前は閉まっていたから、あの後誰かが出入りしたということか。
「ごめんくださーい」
インターホンを押しながら、あずみが声をかけた。
「すみませーん。ちょっとお願いが」
返事はない。
「入ろう」
「よ、よせ」
「今は非常時なんだよ。遠慮してる場合じゃないよ」
言い合っていると、また腹が鳴った。
僕の負けである。
当然だが、中は薄暗かった。
電気が来ていないのは、僕の部屋だけではないのだ。
「なんか臭くない?」
中に入るなり、鼻をひくひくさせ、あずみが言った。
「待て」
上がりこもうとするあずみを手で制して、僕は暗がりに目を凝らした。
慣れると、ようやく奥の洋間の様子が網膜に像を結び始めた。
床に赤黒い液体が大きな水たまりのように広がっている。
その真ん中に、何かがあった。
何だろう?
更に目を凝らした僕は、そこで思いっきり後悔した。
見なけりゃよかった。
だってあれは…。
「誰か死んでる」
僕の思いを代弁するかのように、押し殺した声であずみがつぶやいた。
そこは、まるで屠場だった。
血の海に、ほとんど原形を失った肉塊が、無造作に放置されていた。
裂かれた胸から肋骨が飛び出ている。
腹からあふれ出した腸が、カーペットの上で大蛇よろしくとぐろを巻いている。
身体から引きちぎられた頸が、まるで悪い冗談のように斜めに傾いてこちらを見ていた。
髪型と顔つきからして、どうやら若い男のようだ。
「なんか、ヤバいかも」
あずみがつぶやいた。
僕も同感だった。
僕らが嗅いだのは、まぎれもなく血と糞尿の臭気だったのだ。
日用品と服や下着の替え、懐中電灯に電池、スマホと充電コード。
後は残ったミネラルウォーターのペットボトルが2本。
3本あったうちの1本は、カラスを食べた後、喉が渇いたといってあずみが飲んでしまった。
ちなみに缶ビール2本は景気づけに僕が飲んだ。
武器は果物ナイフ1本と先輩にもらったお古のゴルフクラブ。
心もとないことこの上ない。
あずみはといえば、来た時のままのスポーツバッグを持って出るだけだった。
もちろん背中にはあの伸縮自在のポールを背負っている。
そのほうが、僕の装備より、だいぶマシなのかもしれなかった。
白の綿パンにワインレッドのポロシャツを合わせ、薄いブルーのパーカーを羽織る。
風呂の残り湯で身体を洗ったあずみは、新しいセーラー服に着替えていた。
「なんでまたセーラー服? ほかに服持ってきてないの?」
そう訊いたら、
「だってお兄ちゃん、あずみのセーラー服姿、好きじゃん」
という鋭い返事が返ってきた。
血はつながっていないとはいえ、さすが妹。
よく観察している。
あずみのビキニの写真は写真立てごとそっとリュックに忍ばせ、その代わりノートパソコンは置いていくことにした。
重いしかさばるし、ケロヨンとの連絡なら、スマホがあればこと足りるからだ。
「よし。行こう」
忘れ物がないか、部屋の中をひと通り見渡して、僕は言った。
1年半住んだ部屋だが、さして未練があるわけではなかった。
ただ、次に温かいベッドや布団や寝られる日がくるのかどうかと考えると、さすがに暗澹たる気分に陥らざるを得なかった。
ドアノブに手をかけようとしたら、グウと腹が鳴った。
そうだった。
ガスも電気も止まってしまったため、昨日の夜から何も食べていないのだ。
仮死状態のあずみのそばにつきっきりで、食欲があまりなかったせいもある。
「お兄ちゃん、おなか空いてるんじゃないの?」
耳ざとくそれを聞きつけて、あずみが訊いてきた。
でかいカラスを丸ごと1羽食べた分、あずみのほうが元気なようである。
「ま、まあな。でも、イオンに着けば、何か食べるものくらいあるさ」
強がりを口にしてみたが、空腹というものは、一度意識してしまうとなかなか消えてくれないものだ。
思わず立ちくらみがしてよろめくと、あずみが僕の腕を取って支えてくれた。
「ね、悪いこと言わないから、外に出る前に、このマンションで食べ物探してみようよ。まだゾンビになってない人もいるかもしれないし、空き家だったらちょっと中に入って、何か食べ物もらってくるって手もあるでしょ? たとえばお隣さんは、どんな人が住んでるの?」
「407号室は、確かOLのお姉さんだったような…」
僕は朝たまに見かける髪の長いスマートな女性を思い出した。
スタイリッシュという言葉がぴったりの、かなりイケてる雰囲気の年上の女性である。
「まさか、その人と浮気してないよね」
あずみの声が尖った。
「浮気って何だよ。俺はまだ独身だぞ」
「婚約者がいるでしょ」
「は? どこに?」
「ここにだよ」
あずみがぐっと顔を近づけてくる。
こんな時、インディアンのメイクみたいな模様が、けっこう威嚇的である。
「そ、そうだったな」
僕はため息をついた。
「だけど、何にもないって。だいたい、俺なんか相手にされるわけないし」
「あ、相手にされたかったんだ」
「違うって」
「じゃ、お隣にまず、行ってみようよ」
あずみが言って、ドアを開けた。
なんだよそれ。
「じゃ」の使い方、間違ってるだろ?
足音を忍ばせて、外に出る。
3日ぶりの外界である。
五月晴れというやつか。
見る人もいないというのに、空だけはやたら青くていい天気だ。
407号室の前に立つと、信じられないことにドアが少し開いていた。
3日前は閉まっていたから、あの後誰かが出入りしたということか。
「ごめんくださーい」
インターホンを押しながら、あずみが声をかけた。
「すみませーん。ちょっとお願いが」
返事はない。
「入ろう」
「よ、よせ」
「今は非常時なんだよ。遠慮してる場合じゃないよ」
言い合っていると、また腹が鳴った。
僕の負けである。
当然だが、中は薄暗かった。
電気が来ていないのは、僕の部屋だけではないのだ。
「なんか臭くない?」
中に入るなり、鼻をひくひくさせ、あずみが言った。
「待て」
上がりこもうとするあずみを手で制して、僕は暗がりに目を凝らした。
慣れると、ようやく奥の洋間の様子が網膜に像を結び始めた。
床に赤黒い液体が大きな水たまりのように広がっている。
その真ん中に、何かがあった。
何だろう?
更に目を凝らした僕は、そこで思いっきり後悔した。
見なけりゃよかった。
だってあれは…。
「誰か死んでる」
僕の思いを代弁するかのように、押し殺した声であずみがつぶやいた。
そこは、まるで屠場だった。
血の海に、ほとんど原形を失った肉塊が、無造作に放置されていた。
裂かれた胸から肋骨が飛び出ている。
腹からあふれ出した腸が、カーペットの上で大蛇よろしくとぐろを巻いている。
身体から引きちぎられた頸が、まるで悪い冗談のように斜めに傾いてこちらを見ていた。
髪型と顔つきからして、どうやら若い男のようだ。
「なんか、ヤバいかも」
あずみがつぶやいた。
僕も同感だった。
僕らが嗅いだのは、まぎれもなく血と糞尿の臭気だったのだ。
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