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気がつくと、トイレの奥の汚物処理室に立っていた。
ここは男子トイレと女子トイレのどちらにもつながる小空間で、患者が個室内で困った時にすぐサポートに行けるようになっている。
棚には尿の入った容器やら摘出した腫瘍をホルマリン液に浸したガラス瓶やらが、所狭しと並んでいる。
「あたしってば、どうしちゃったのかしら?」
乙都は指先でこめかみを揉むと、ため息混じりにつぶやいた。
この黒十字病院は、慢性的な看護師不足に悩まされている。
そのせいで、乙都たち研修生に回ってくる仕事の量も、半端ない。
だから時間が経つのは驚くほど早く、うかうかしているとあっという間に勤務時間外まで働かされてしまう。
壁の時計は午後6時を指している。
すでに勤務時間を2時間過ぎているが、もうすぐ夜勤の看護師たちが来る頃だ。
ついでだから、それまで頑張ろう。
乙都は足元の大きなポリバケツに目をやった。
どうやらこれを処理するつもりでここへ運び、そのとたん、意識が飛んだらしい。
それにしても、これ、なんだろう?
何気に持ち上げようとするとかなり重く、よほど真剣に力を入れないと、びくともしそうにない。
バケツには蓋がしてあって、中身が見えないようになっている。
絶対安静の患者が排泄した糞便の類いだろうか?
彼らはベッドから出られないので、看護師が用意する簡易トイレで用を足す。
それを集めて回るのも乙都たち看護師見習いの重要な仕事なのだ。
が、排泄物にしては、臭くなかった。
匂うことは臭うが、蓋の隙間から洩れてくるのは明らかに別の臭いだ。
草いきれのような、青臭いこの匂い・・・。
なじみは薄いが、どこかで嗅いだことがある。
そんな気がしてならなかった。
中を確認しようかどうしようか迷いに迷ったあげく、好奇心に負けて、乙都はプラスチックの蓋をずらしてみた。
う・・・。
思わず、絶句した。
中身はなんとも形容し難い、奇怪な物体だった。
バケツの底で何重もの渦を巻くその形は、細長い大根を漬けた守口漬にそっくりだ。
だが、違いは素材がダイコンなどではなく、明らかに肉質の何かであることだった。
そういう意味では、守口漬けより、バーべQなどで見かけるぐるぐるソーセージに似ているといったほうがいいかもしれない。
とぐろを巻くその肉質の何かは、どうやら生きているようだった。
乙都が見ている間にも、粘液を滴らせた細長い身体で、ぬるっ、ぬるっと動くのだ。
そのさまは蛇というよりはミミズに近い。
そういえば、頭部がミサイルみたいな形に膨らんでいて、白く輪になった首の部分が出っ張っているあたりも、なんとはなしにミミズに似ている。
見ていると、なぜだか呼吸が荒くなってきた。
生理の時のように、股間が潤んでいる。
陰核が勝手に勃起し、下着に触れる先端部分が異様に疼く。
と、乙都の体臭の変化を敏感に嗅ぎ取ったかのように、巨大ミミズが頭部を持ち上げて、彼女を見上げてきた。
眼のないつるんとした頭部には、そこが口なのか、尖った鼻先に縦に切れ込みが入っている。
意識の底で、記憶の断片が、気味悪く、ぬるりと動いた。
「あなた・・・」
気がつくと、そう、声をかけていた。
と、その時ー。
「ちょっと、いいですか?」
肩越しに、若い女の声。
「あなた、ひょっとして、看護師見習いの、伊能乙都さん?」
振り向くと、入口にスーツ姿の男女が立って、こちらを覗き込んでいる。
苦虫を噛み潰したような険しい顔の初老の男と、対照的にマシュマロみたいに童顔の若い女性のコンビである。
「警察の者ですが」
先に立って話し出したのは、女性のほうだった。
「私、照和署の笹原と言います。こっちは、韮崎警部補」
初老の刑事が、仏頂面で申し訳程度に頭を下げた。
「は、はあ・・・?」
ぽかんと口を開けた乙都だったが、バケツの蓋を閉めるのは、さすがに忘れなかった。
「刑事さん、ですか?」
「ですです」
くだけた口調で、笹原と名乗った女性が続けた。
「この病棟に入院している、ある患者について、お聞きしたいのです。ナースステーションで聞いたんですけど、由井颯太って、伊能さん、確か、あなたが担当してるんですよね? 実はその人物の住むマンションの一室の冷蔵庫から、大変やっかいなものが発見されまして・・・」
よどみなく話し続ける女性刑事の肘を、「おいこら」とでもいうふうに、上司の男刑事が引っ張った。
「やっかいなもの・・・?」
由井颯太。
その名前には、かすかに、聞き覚えがあるようだ。
「切断された若い女性の右足です。ちょうど太腿のつけ根から、丸ごとですね。しかも気色の悪いことに、その人物、なんとなんと、その腕を自慰に使っていたようなのです」
その瞬間だった。
女刑事の言葉が聴こえたかのように、ふいにバケツがガタンと音を立て、揺れた。
「なんですか? そのバケツ?」
女性刑事の眼が鋭くなる。
「犬か猫でも入ってるんですか?」
「あ、いや、その」
乙都はバケツを股の間に挟み、作り笑いを顔に浮かべた。
「ただのぐるぐるソーセージです。退院する患者さんにいただいたので、手頃な大きさに切っておやつ代わりにみんなで食べようかと」
女性刑事の瞳が輝いた。
「いいですねー! あたしもぐるぐるソーセージ、大好きなんですよ!」
「わあ、そうだったんですかあ! じゃあ、よろしければ、刑事さんたちもごいっしょに!」
ヤケクソになった乙都の言葉が届いたのか―。
ガタンガタンガタンッ!
バケツの揺れが、更に烈しくなる・・・。
ここは男子トイレと女子トイレのどちらにもつながる小空間で、患者が個室内で困った時にすぐサポートに行けるようになっている。
棚には尿の入った容器やら摘出した腫瘍をホルマリン液に浸したガラス瓶やらが、所狭しと並んでいる。
「あたしってば、どうしちゃったのかしら?」
乙都は指先でこめかみを揉むと、ため息混じりにつぶやいた。
この黒十字病院は、慢性的な看護師不足に悩まされている。
そのせいで、乙都たち研修生に回ってくる仕事の量も、半端ない。
だから時間が経つのは驚くほど早く、うかうかしているとあっという間に勤務時間外まで働かされてしまう。
壁の時計は午後6時を指している。
すでに勤務時間を2時間過ぎているが、もうすぐ夜勤の看護師たちが来る頃だ。
ついでだから、それまで頑張ろう。
乙都は足元の大きなポリバケツに目をやった。
どうやらこれを処理するつもりでここへ運び、そのとたん、意識が飛んだらしい。
それにしても、これ、なんだろう?
何気に持ち上げようとするとかなり重く、よほど真剣に力を入れないと、びくともしそうにない。
バケツには蓋がしてあって、中身が見えないようになっている。
絶対安静の患者が排泄した糞便の類いだろうか?
彼らはベッドから出られないので、看護師が用意する簡易トイレで用を足す。
それを集めて回るのも乙都たち看護師見習いの重要な仕事なのだ。
が、排泄物にしては、臭くなかった。
匂うことは臭うが、蓋の隙間から洩れてくるのは明らかに別の臭いだ。
草いきれのような、青臭いこの匂い・・・。
なじみは薄いが、どこかで嗅いだことがある。
そんな気がしてならなかった。
中を確認しようかどうしようか迷いに迷ったあげく、好奇心に負けて、乙都はプラスチックの蓋をずらしてみた。
う・・・。
思わず、絶句した。
中身はなんとも形容し難い、奇怪な物体だった。
バケツの底で何重もの渦を巻くその形は、細長い大根を漬けた守口漬にそっくりだ。
だが、違いは素材がダイコンなどではなく、明らかに肉質の何かであることだった。
そういう意味では、守口漬けより、バーべQなどで見かけるぐるぐるソーセージに似ているといったほうがいいかもしれない。
とぐろを巻くその肉質の何かは、どうやら生きているようだった。
乙都が見ている間にも、粘液を滴らせた細長い身体で、ぬるっ、ぬるっと動くのだ。
そのさまは蛇というよりはミミズに近い。
そういえば、頭部がミサイルみたいな形に膨らんでいて、白く輪になった首の部分が出っ張っているあたりも、なんとはなしにミミズに似ている。
見ていると、なぜだか呼吸が荒くなってきた。
生理の時のように、股間が潤んでいる。
陰核が勝手に勃起し、下着に触れる先端部分が異様に疼く。
と、乙都の体臭の変化を敏感に嗅ぎ取ったかのように、巨大ミミズが頭部を持ち上げて、彼女を見上げてきた。
眼のないつるんとした頭部には、そこが口なのか、尖った鼻先に縦に切れ込みが入っている。
意識の底で、記憶の断片が、気味悪く、ぬるりと動いた。
「あなた・・・」
気がつくと、そう、声をかけていた。
と、その時ー。
「ちょっと、いいですか?」
肩越しに、若い女の声。
「あなた、ひょっとして、看護師見習いの、伊能乙都さん?」
振り向くと、入口にスーツ姿の男女が立って、こちらを覗き込んでいる。
苦虫を噛み潰したような険しい顔の初老の男と、対照的にマシュマロみたいに童顔の若い女性のコンビである。
「警察の者ですが」
先に立って話し出したのは、女性のほうだった。
「私、照和署の笹原と言います。こっちは、韮崎警部補」
初老の刑事が、仏頂面で申し訳程度に頭を下げた。
「は、はあ・・・?」
ぽかんと口を開けた乙都だったが、バケツの蓋を閉めるのは、さすがに忘れなかった。
「刑事さん、ですか?」
「ですです」
くだけた口調で、笹原と名乗った女性が続けた。
「この病棟に入院している、ある患者について、お聞きしたいのです。ナースステーションで聞いたんですけど、由井颯太って、伊能さん、確か、あなたが担当してるんですよね? 実はその人物の住むマンションの一室の冷蔵庫から、大変やっかいなものが発見されまして・・・」
よどみなく話し続ける女性刑事の肘を、「おいこら」とでもいうふうに、上司の男刑事が引っ張った。
「やっかいなもの・・・?」
由井颯太。
その名前には、かすかに、聞き覚えがあるようだ。
「切断された若い女性の右足です。ちょうど太腿のつけ根から、丸ごとですね。しかも気色の悪いことに、その人物、なんとなんと、その腕を自慰に使っていたようなのです」
その瞬間だった。
女刑事の言葉が聴こえたかのように、ふいにバケツがガタンと音を立て、揺れた。
「なんですか? そのバケツ?」
女性刑事の眼が鋭くなる。
「犬か猫でも入ってるんですか?」
「あ、いや、その」
乙都はバケツを股の間に挟み、作り笑いを顔に浮かべた。
「ただのぐるぐるソーセージです。退院する患者さんにいただいたので、手頃な大きさに切っておやつ代わりにみんなで食べようかと」
女性刑事の瞳が輝いた。
「いいですねー! あたしもぐるぐるソーセージ、大好きなんですよ!」
「わあ、そうだったんですかあ! じゃあ、よろしければ、刑事さんたちもごいっしょに!」
ヤケクソになった乙都の言葉が届いたのか―。
ガタンガタンガタンッ!
バケツの揺れが、更に烈しくなる・・・。
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