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#69 乙都受難③
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窓に背を向け、通路を戻る。
途中で西に入る曲がり角があって、のぞくとトイレの表示が出ていた。
「確か、ここだったと思う」
「検査室は、トイレの奥ですね。検体をすぐ採取できるよう、男子トイレと女子トイレの両方に繋がっています」
乙都は平気な顔で男子トイレに入っていく。
小便器で用を足していた老人が、突然乱入してきた乙都を見て目を丸くする。
病衣の前を慌ただしくかき合わせると、点滴スタンドを引きずるようにして外に出て行った。
「誰かいますかあ?」
検査室との境のカーテンをめくって中に首をつっこみ、乙都が叫んだ。
誰もいないのか、返事はない。
僕は乙都の後に続いてカーテンをくぐった。
足を踏み入れたその検査室は、酷く雑然とした部屋だった。
右手の壁に、中に黄色い液体が入ったビーカーがずらりと並ぶ背の高いスチール棚。
左手には例のシンクと、バケツやデッキブラシ、洗剤、床にとぐろを巻いたホース。
「別に、怪しいものはなさそうだけど…」
周囲を見渡して、乙都が言う。
「でも、よく見ろよ。床にも、シンクにも、何かを拭いた後がある」
不自然に濡れているシンクの周囲を指差して、僕は言った。
「きっと血液反応を調べれば、それなりの痕跡が発見できると思う。だって、ついさっきまで、ここ、すごい血の海だったんだ」
「そんな…何の証拠もないのに、警察の鑑識にルミノール反応の調査、頼むわけにはいかないでしょ?」
「よく探してみろよ。何か犯行の証拠みたいなものが、見つかるはずだ」
藤田氏は殺されたのだ。
あのユズハとかいう、気味の悪い看護師に。
ここへ来て、ますますその思いが強くなってきた。
なんとなく、空気の底にも、消毒液やトイレの匂いの底に、生臭い血の匂いが混じっている気がする…。
毛髪の一本でも残っていないかと、シンクに顔を近づけ、排水口を覗き込もうとした時だった。
「あれ? これは何かな?」
乙都の声に、僕は振り向いた。
乙都は、スチール棚から丸いものを抱え上げたところだった。
どうやら、バイク乗りがかぶる、フルフェイスのヘルメットのようだ。
「どうして、ここに、こんなものが? あ」
中をのぞきこんだ乙都の目が、極限まで見開かれるのがわかった。
「どうした?」
「そ、そんな…」
悲鳴を噛み殺すように、乙都がうめいた。
その手から、ヘルメットが床に転げ落ちる。
乾いた音を立てて転がった鉄の丸い物体は、ゆっくり半回転したかと思うと、開口部を僕のほうに向けた。
どろり。
あふれ出る灰色の液状のもの。
ぐずぐずに砕かれた豆腐みたいな残骸の中に、ピンポン玉のようなものがふたつ埋まってこちらを向いている。
「マジかよ…」
その正体に気づいて、僕は呆然とつぶやいた。
間違いない。
あれは…。
人間の眼球だ。
と、その刹那、ふいに背後に人の気配がした。
「また舞い戻ってきたか。しかも、盛りのついたの牝犬まで連れて」
声が降ってきた。
ユズハの声だった。
乙都が立ち上がった。
真っ青な顔で、僕の背後を見上げている。
「颯太さん、逃げて!」
突進してきた。
僕の脇をすり抜けて、背後の何者かにつかみかかる。
「乙都!」
振り向いた僕は、見た。
鼻から上が、切り取られたように欠けた、異様に背の高い女。
その女が昆虫の前肢みたいに節くれ立った腕で、乙都の小柄な躰を絡め取っている。
二メートルの高みで後頭部まで裂けた口が蓋みたいに開き、軋むような声が言った。
「余計なことに首を突っ込むなと言っただろ! こうなったら仕方がない。こいつは見せしめのために私が預かっておくからね!」
途中で西に入る曲がり角があって、のぞくとトイレの表示が出ていた。
「確か、ここだったと思う」
「検査室は、トイレの奥ですね。検体をすぐ採取できるよう、男子トイレと女子トイレの両方に繋がっています」
乙都は平気な顔で男子トイレに入っていく。
小便器で用を足していた老人が、突然乱入してきた乙都を見て目を丸くする。
病衣の前を慌ただしくかき合わせると、点滴スタンドを引きずるようにして外に出て行った。
「誰かいますかあ?」
検査室との境のカーテンをめくって中に首をつっこみ、乙都が叫んだ。
誰もいないのか、返事はない。
僕は乙都の後に続いてカーテンをくぐった。
足を踏み入れたその検査室は、酷く雑然とした部屋だった。
右手の壁に、中に黄色い液体が入ったビーカーがずらりと並ぶ背の高いスチール棚。
左手には例のシンクと、バケツやデッキブラシ、洗剤、床にとぐろを巻いたホース。
「別に、怪しいものはなさそうだけど…」
周囲を見渡して、乙都が言う。
「でも、よく見ろよ。床にも、シンクにも、何かを拭いた後がある」
不自然に濡れているシンクの周囲を指差して、僕は言った。
「きっと血液反応を調べれば、それなりの痕跡が発見できると思う。だって、ついさっきまで、ここ、すごい血の海だったんだ」
「そんな…何の証拠もないのに、警察の鑑識にルミノール反応の調査、頼むわけにはいかないでしょ?」
「よく探してみろよ。何か犯行の証拠みたいなものが、見つかるはずだ」
藤田氏は殺されたのだ。
あのユズハとかいう、気味の悪い看護師に。
ここへ来て、ますますその思いが強くなってきた。
なんとなく、空気の底にも、消毒液やトイレの匂いの底に、生臭い血の匂いが混じっている気がする…。
毛髪の一本でも残っていないかと、シンクに顔を近づけ、排水口を覗き込もうとした時だった。
「あれ? これは何かな?」
乙都の声に、僕は振り向いた。
乙都は、スチール棚から丸いものを抱え上げたところだった。
どうやら、バイク乗りがかぶる、フルフェイスのヘルメットのようだ。
「どうして、ここに、こんなものが? あ」
中をのぞきこんだ乙都の目が、極限まで見開かれるのがわかった。
「どうした?」
「そ、そんな…」
悲鳴を噛み殺すように、乙都がうめいた。
その手から、ヘルメットが床に転げ落ちる。
乾いた音を立てて転がった鉄の丸い物体は、ゆっくり半回転したかと思うと、開口部を僕のほうに向けた。
どろり。
あふれ出る灰色の液状のもの。
ぐずぐずに砕かれた豆腐みたいな残骸の中に、ピンポン玉のようなものがふたつ埋まってこちらを向いている。
「マジかよ…」
その正体に気づいて、僕は呆然とつぶやいた。
間違いない。
あれは…。
人間の眼球だ。
と、その刹那、ふいに背後に人の気配がした。
「また舞い戻ってきたか。しかも、盛りのついたの牝犬まで連れて」
声が降ってきた。
ユズハの声だった。
乙都が立ち上がった。
真っ青な顔で、僕の背後を見上げている。
「颯太さん、逃げて!」
突進してきた。
僕の脇をすり抜けて、背後の何者かにつかみかかる。
「乙都!」
振り向いた僕は、見た。
鼻から上が、切り取られたように欠けた、異様に背の高い女。
その女が昆虫の前肢みたいに節くれ立った腕で、乙都の小柄な躰を絡め取っている。
二メートルの高みで後頭部まで裂けた口が蓋みたいに開き、軋むような声が言った。
「余計なことに首を突っ込むなと言っただろ! こうなったら仕方がない。こいつは見せしめのために私が預かっておくからね!」
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