異世界病棟

戸影絵麻

文字の大きさ
上 下
53 / 88

#52 集中治療室へ

しおりを挟む
「レンゲ、手伝って。こいつをどけるから」
「あいさ」
 ふたりの看護師が、「せーの」と声を合わせ、昏倒した化け物を扉の前から撤去した。
 その隙に先生がベッドを押し込み、作業を終えた乙都と蓮月が飛び込んでくると、ドアが閉まった。
 閉まる寸前、枯れ木みたいな何本もの腕が伸びてきて、ドアのすき間に入り込み、両側にこじ開けようとした。
 それはまるで昔見たゾンビ映画のワンシーンそのもので、僕はカテーテルなしで危うく失禁するところだった。
「この! この! この!」
 うねうねと動く無数の手を、蓮月が点滴スタンドで押しのける。
「死ね! 死ね! 死ね!」
 乙都が注射器で加勢すると、ようやく腕たちが引っ込んでドアが閉まり、エレベーターが下降し始めた。
 静寂が戻ったエレベーターの中は、磯臭いような悪臭で息も詰まりそうなほどだった。
 死んだ魚の腐臭に似た臭気に、ともすれば嘔吐しそうになる。
「あ、あの、ちょっと、いいですか?」
 吐き気をこらえて、誰にともなく、僕はたずねた。
「いったいここでは、何が起こってるんでしょう?」
「前に言わなかったか?」
 ベッドの足元のほうに立っている先生が、僕を見下ろして言った。
「この病棟は、昼間と夜では、世界の”相”、すなわち、フェーズが変わるんだよ」
 相?
 フェーズ?
 聞いたような気がする。
 でも、なんのことかわからないのは相変わらずである。
「その、フェーズが変わるっていうのは、どういうことなんでしょう?」
「意識が連続しているというのも困りものだな」
 ちらりと乙都のほうを見て、先生が続けた。
「この状況に慣れるには、彼女らのように、人格を使い分けるのが一番なんだが…。正気を保つためにね」
「ですよねー」
 僕らの会話をしっかり聞いていたらしく、大げさにうなずいたのは、蓮月だった。
「夜の記憶を全部持ったまま昼間の世界に行ったら、あたしきっと、何が現実かわかんなくなっちゃいますよ」
「同感」
 黒いマスクから出た大きな目を、乙都が僕に向けた。
「だから颯太も、今夜のことは早く忘れることだね」
「は、はあ…」
 そんなこと言われたって、こんな悪夢のような体験、そう簡単に忘れられるとは思えないんだが…。
「まあ、これから行う手術の結果次第だな。そもそも、生体増殖血管の移植が彼にどんな影響を与えるかは、神のみぞ知るってところだからね。よくて心機能の回復、悪ければ脳死状態。ただ、こちらとしては、彼のあの器官さえ生きていればそれでいいわけだが」
「ホウジョウ部長もそれをお望みということでしたものね」
 少し力のない口調で、乙都が先生の説明に同意する。
「どうしたの? オト。なんか急に元気失くしちゃったみたいだけど」
 めざとくその変化に気づいた蓮月が突っ込むと、乙都がなんとなく悲しそうな眼になった。
「いや、こいつが脳死状態になったりすると、昼間のオトが悲しむと思ってさ。うちはどうでもいいんだけどね」
 昼間のオト?
 先生の言葉から察するに、ということは、やはりこのブラックな注射器娘は彼女の別人格ってか?
 と、その時だった。
 かすかに床が揺れて、エレベーターが止まった。
「さ、ふたりとも、無駄口はそこまでだ。ドアが開いたら、ICUの入口まで突っ走る。鬼が出るか、蛇が出るか。それはドアが開いてからのお楽しみってわけだ。行くぞ。用意はいいな?」
 ベッドの手すりを握り直して、低く押し殺した声で、叱りつけるように、瑞季先生が言った。




 

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

処理中です...