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第8部 妄執のハーデス

#88 2回戦⑧

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 杏里は後悔し始めていた。
 痛い。
 痛くてならない。
 チェーンに巻きつかれたふたつの乳房は、今や限界までしぼり上げられ、あれほど白かった肌も赤味がかった紫色に変色してしまっている。
 パトスだけあり、リタもリナも腕力は尋常ではない。
 布の裂けるような音がして、乳房のつけ根に亀裂が走り、白い脂肪層の間からじわりと鮮血が滲み始めている。
 タナトスだから、耐えるしかない。
 一瞬でもそう思ったのは、間違いだったのではないか。
 激しい痛みにうめきながら、そう思わずにはいられない。
 ふたりが襲いかかってきた時に、すぐにでも触手を使うべきだったのだ。
 やらなけば殺される。
 それはわかっていたはずなのに。
 何よりも問題なのは、今の杏里には、苦痛を快感に変換するシステムが欠けてしまっていることだった。
 あれこそが、タナトスをタナトスたらしめる最重要の能力だったのだ。
 あの機能があれば、まだ耐え切ることができたはず…。
 耐えて耐えて耐え抜いて、いずれは反撃のチャンスをつかむことができたかもしれない。
 が、もう無理だった。
 痛みが激しすぎて、精神を集中できない。
 触手を顕現させることができないのだ。
「覚悟しな」
 右側のリタが言って、空いたほうの手を振り上げた。
 いつのまにか、刃先がぎざぎざになったナイフを握っている。
 それは左側のリナも同じだった。
 このユニットの武器は、チェーンだけではなかったのだ。
 どうやらとどめは、あのサバイバルナイフで、ということらしい。
 チェーンを片手に巻き取りながら、両側からふたりが迫ってくる。
 乳房を引かれて、杏里の身体がずるずると前に出る。
「目を狙うよ」
 ご丁寧にも、リナが教えてくれた。
「その目玉をくりぬいて、脳味噌までこのナイフをぶちこんでやる」
「やめて」
 杏里は両手で顔を覆った。
 怖い。
 怖くて今にも膀胱が破裂しそうだ。
「これ以上、ひどいこと、しないで」
 そう口にしながら、なんという自分勝手な言い草だろう、と思う。
 私はこの手でリサを絞殺したのだ。
 それなのに、こんなふうに哀れに命乞いするなんて…。
「馬鹿言ってんじゃないよ!」
「地獄に堕ちな!」
 ふたりが同時に叫んだ時である。
 だしぬけに、黒い風が起こった。
 風はふたりの少女の間に滑りこむと、床面すれすれの角度から大きく足を蹴り上げた。
 鈍い音がして、左側のリナの首がへし折れた。
 ぐらりと傾き、もがれた人形の首よろしく、だらんと背中側に折れ曲がる。
「リナ!」
 動きを止めたリタの後ろに回り込み、由羅がその頭を両手でつかんだ。
「く、くそ! お、おまえ、まだ…」
 両側から由羅の万力のような手で締めつけられ、リタが苦しげにうめいた。
「残念だったな」
 少女の肩越しに、血まみれの顔をのぞかせて、由羅があざ笑うように言ってのける。
「うちはもともとドMなんでね。むち打ちには慣れてんだよ」
「ぐあっ! や、やめ」
 メリッという嫌な音がして、リタの声が途切れた。
 顔面が縦に細長く歪み、眼窩からゆっくりと眼球がせり出してくる。
 由羅はとてつもない怪力の持ち主だ。
 その膂力は、片手で難なくリンゴを握りつぶしてしまうほどである。
 メキッ。
 また何かがひしゃげる異様な音が響いた。
 リタの頭頂に亀裂が生まれ、割れた白い頭蓋骨と灰色の脳がその間から現れた。
 濃厚な血の匂いに混じって、息が詰まるほどの糞尿の臭いが立ち込める。
 リタは由羅に頭を潰され、スカートの間から湯気の立つ糞便を垂れ流していた。
 生命活動が止まり、括約筋が緩んだ証拠だった。
 少女の躯を放り出すと、由羅が額の汗を拭って、杏里を見た。
「いいか、杏里。次は、手加減するな」
 チェーンで打たれ続けた由羅は、杏里同様ほとんど裸で、身体中、醜い蚯蚓腫れに覆い尽くされている。
 その上ナイフで刺されたのだろう。
 右の脇腹に、目を覆いたくなるほどのひどい裂傷ができていた。
「もう、タナトスもパトスもない。生きるか死ぬかだけなんだから」
 喉から絞り出すような由羅の声に、
「ゆら…」
 ふらふらと前に進み出て、杏里が由羅の腕の中に飛び込もうとした、その時である。
 ふいに、頭の中に、”声”が生まれた。
 -助けて! 早く! このままじゃ、久美ちゃんが、殺されちゃう!ー
 この声…。
 まさか。
「もも、ちゃん…?」
 杏里はつぶやいた。
「行くぞ」
 由羅が杏里の手を取った。
 シャドウが溶け、その迷彩色の中で、目が血走っている。
「急ごう。まだ間に合う」






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