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第8部 妄執のハーデス

#10 廃墟 

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 木更津の熱の入らないホームルームが終わり、終齢が鳴ると、教室の中はとたんににぎやかになった。

 荷物をまとめ、我先にと部活動に出かけていく生徒たち。

 数は少ないが、さっさと正門に直行する帰宅部の生徒もいるようだ。

 この光景だけは、どこの中学校の放課後とも、さして変わりはしない。

 杏里は掃除当番に当たっていたので、同じ列のクラスメートたちと分担して、廊下の清掃を受け持った。

 璃子とふみは早々に姿を消してしまっている。

 できれば会いたくない。

 時間を引き伸ばそうとのろのろ廊下を掃いていると、杏里のパンチラ目当ての男子生徒たちが、次第に周囲に増えてきた。

 直接手は出してこないものの、杏里を遠巻きにして。垣根をつくり始めているのだ。

 掃くところもなくなってきたし、鬱陶しくなって、小走りに教室に戻った。

「一緒に帰る?」

 掃除道具を片付けて荷物をまとめていると、同じく教室内の清掃を終えた唯佳がそう声をかけてきた。

「あ、ごめん。ちょっと先約があって」

 やんわり断ると、唯佳の生真面目な顔に残念そうな表情が浮かんだ。

「そっか。同じ帰宅部同士、仲よくなれるかなと思ったんだけど」

「ありがと」

 微笑みを返しながら、杏里は内心驚いていた。

 私と仲良くなる?

 そんなことを面と向かって言う子は、この唯佳が初めてだ。

 杏里はいじめや虐待のターゲットにされることはあっても、友だち候補に挙げられることはない。

 もちろん、LINEのグループに入れてもらったこともない。

 それはこれまで在籍したどこの学校でもそうで、この曙中学も例外ではないはずだった。

 唯佳が変わり者なのか、それとも私自身の雰囲気が変わったのか。

 タナトスとしての影響力が、弱くなってしまった証拠だろうか。

 そう言えば、と思う。

 昼休み、校長室で襲われた時、杏里は確かに大山を射精にまで導いたはずだった。

 ふつう、タナトスに絶頂まで追い込まれれば、相手はストレスをすべて浄化され、一時的にその時の記憶を失ってしまうものである。

 が、大山はそうならなかった。

 射精の後しばらくすると、前原と会話を交わすところまで、すっかり回復してしまっていたのだ。

 杏里の”力”が弱すぎて、浄化が失敗してしまったのか。

 あるいは、大山がタナトス慣れしているのか。

 どちらにせよ、これから璃子たちと相まみえるに当たって、その事実はプラス要素にはなりそうもなかった。

「また今度ね。でも、本当にありがとう。声かけてくれて」

 唯佳がどんなつもりなのかはわからない。

 が、とりあえず礼だけ言い残して、杏里は教室を後にした。

 階段を降り、下駄箱で靴に履き替えて、玄関ロビーを出る。

 校庭や体育館に向かう生徒たちから外れて、ひとり校舎裏に足を向けた。

 校舎の角を曲がると、人気のない空間が現れた。

 雑草がまばらに生えたむき出しの地面。

 高いフェンスに沿って、ボロ長屋のようなクラブハウスが軒を連ねている。

 ひと目で使われていないとわかる、古びた平屋の建物だった。

 さびたトタン屋根が反り返り、窓ガラスは割れ、外壁は赤ペンキの落書きだらけ。

 なにこれ?

 まるで廃墟じゃない。

 足元から伸びる細長い空間のとば口に立ち尽くして、杏里はかすかに身を震わせた。

 どこだろう? あのふたり。

 警戒しながら周囲を見回していると、ふいにいちばん近い部室の戸が開いて、いきなり右腕をつかまれた。

「入れや」

 引きずり込まれた。

 ほとんど同時に、耳障りな音を立てて引き戸が閉まる。

 ひっくり返りそうになるところを、辛うじて壁に手をつき、体勢を立て直す。

 目の前に奇妙な空間が広がっていた。

 間仕切りのない、古い電車の内部のような、細長い空間である。

 建物の中は、部室と部室の間の壁をすべて取り払い、ひと続きになっている。

「見ての通り、ここはもうすぐ取り壊される。だから誰も来ない」

 杏里の腕を放して、璃子が言った。

「冬休みまでの期間限定だけど、今はあたしとふみの隠れ家みたいなもんさ」

 璃子は、竹刀に寄りかかるようにして、柱の陰に立っている。

 脱色したくせ毛の隙間から、あの酷薄そうな三白眼が覗いていた。

「用って、何なの?」

 すぐにも逃げ出せるように、横目で引き戸までの距離を測りながら、杏里はたずねた。

「私、あなたたちに呼びつけられるようなこと、何もしてないんだけど」

「まあ、座れ」

 璃子が竹刀でパイプ椅子を叩いた。

 椅子は部屋の中央に置いてある。

 クッションの飛び出た、汚らしい椅子である。

「時間はたっぷりある。ゆっくり話そうぜ」

「いやだと言ったら?」

 反抗的に睨み返したその時だった。

「璃子が座れと言ってんだよ」

 ふいに万力のような力で両肩をつかまれ、杏里は危うく悲鳴を上げそうになった。

 声でわかった。

 ふみだ。

 あの巨体で、いつの間に忍び寄ってきていたのか。

 ふみが背後から、ぶくぶくと肥え太ったグローブのような手のひらで、杏里の両肩を鷲掴みにしているのだ。

 まさか、この子…。

 杏里は全身が総毛立つのを感じていた。

 背中に当たるふみの体の感触…。

 これ…ふつうじゃない。

 なんだか、異様にぶよぶよして、しかも熱くて、湿っている。

 この子、ひょっとして、服を、着ていない?

「逆らうと、犯しちゃうよ」

 ニンニク臭い息が耳元にかかった。

「やめて」

 やっとのことで、杏里は言った。

「お願い、離して。言われた通りに座るから」

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