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「娘を保育園に迎えに行かなければならないので、あまり時間はないのですけど…」
彼女―秋津さんが少し申し訳なさそうに言った。伏見の雑居ビルの中にある、喫茶店に僕らはいた。僕はアイスコーヒー、彼女はアイスティーを飲んでいた。
「子供さんがいるんですか」
僕は危うくむせそうになった。落ち着きぶりから年上だとは思っていたが、まさか…。
「晴香っていいます。先月、三歳になりました。かわいいんですよ」
そんなことを言って、頬をほころばせた。笑うと目元に小じわができた。
「なんていうか…」
僕は言葉を継ぐのに苦労した。
「最強の人妻って感じですね」
あのアクションはタダものではない。それにあの凶器のような大鎌。四匹の怪物を一瞬にして寸断してしまった。
「正確には、人妻ではありません。今は娘と二人暮らしですから」
長い睫毛を伏せて言った。
「それに、朱雀鎌のスキルはまだ低いんです。最強なんて、とてもいえないと思います」
「はあ…」
「ところで、石川君からどこまで聞きましたか?」
秋津さんが、口調を変えてそう尋ねた。
「いや、ほとんど、何も」
僕は正直に答えた。きのうからのいきさつを手短に話す。というか、手短にならざるを得ないほど、話す内容が見事に何もない。
「煙草のポイ捨てはよくないですね」
聞き終えての彼女の第一声がそれだった。
「す、すみません、あたり一面吸殻だらけだったんで、つい」
「禁煙したほうがいいですよ。煙草は贅沢品ですし、この仕事は体力勝負だから」
「仕事、ですか?」
「ええ。石川君は任務って言うでしょうけど、わたし的には仕事ですね。お手当ももらえますし」
「お手当?」
「時給二千円です。きょうのは特別にプラスアルファがつくかも」
「時給二千円って、すごいじゃないですか」
思わず歓声を上げると、秋津さんは大きな目でじろりと僕を睨んで、
「豊原次郎君でしたっけ」
「…ええ」
気押されて僕は口ごもった。
「次郎君、よく考えてみてください。これは命をかけた戦いです。時給二千円で働く傭兵稼業が割に合いますか?」
「たしかに…」
そうだった。僕はあやうく化け物のエサになるところだったのだ。彼女にしてもそうだろう。見ず知らずの僕を助けるために、命を張る義理は何もない。
「なら、秋津さんは、なぜ?」
「晴香を守るためです」
僕を睨みつけたまま、短く言った。
「わたしはそのためなら、何でもします」
まさに、母は強し、だ。
僕は少なからず感動した。あのあられもない恰好で、強大な凶器を振り回して、正体不明の怪物と戦えるのも、母だからこそ、なのだろう。あんなこと、その辺の女子大生やOLにはどだい無理な話である。僕にだってできないし、いや、プロの格闘家にだって無理に違いない。
「ところで」
僕は気を取り直して聞いた。
「初めに戻って教えてほしいんですが…いったい、何が起こってるんですか? 戦いって、何と戦ってるんですか? あのタコとウツボのキメラみたいな怪物は何だったんですか? あ、それから石川君が言ってたあの渦巻き模様は?」
秋津さんは形のいい唇をアイスティーのストローから離すと、視線を僕からはずし、窓の外を見た。逆光の中、綺麗な横顔が浮かび上がる。
「敵は地底人です」
物憂げな口調で、ぽつりとそう言った。
「ちていじん?」
僕はポカンと口を開けた。
「地底から攻めてくるのだから、地底人でしょう? 海底人はそんなことしませんよ」
にこりともせず、そんなことを言う。
「そ、そうなんですか」
笑うべきなのかどうか、わからなかった。というより、目の前のこの女性がますますわからなくなった。グラマラスな外見はともかく、根はすごくまじめそうな人である。化粧気もなく、言われてみればたしかに三歳くらいの子供がいるごく普通の若い奥さんって感じだ。それが、よりによって「ちていじん」だと?
「さっきの怪物は地底人の生物兵器です。他にもサボテンみたいなのとか、いろいろいます。それから、あの渦巻きは、わたしたち〈原種〉を覚醒させるためのサインみたいなものです。石川君は、刻印って呼んでますけど…」
「わたしたち?」
秋津さんの真剣味を帯びた黒い瞳が正面から僕をひたと見据えた。
「そう、わたしたち。次郎君、あなたは青龍です。石川君が、そう言ってました」
「ん~、ちょっと待ってくださいよ。何のことですか、それ?」
秋津さんは確かに僕のすべての疑問に手際よく答えてくれた。何一つ隠すつもりのないことがわかる、潔いともいえる返答ぶりだ。しかし、内容が内容だった。
マジかよ。
僕は心の中でぼやいた。
青龍とか朱雀というのは、たしか中国の五行説に登場する聖獣だ。高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に描かれているあれである。北の玄武、南の朱雀、西の白虎、東の青龍だったか、とにかく風水の世界では、古代の都を守る聖なる獣とされてきた。僕が知っているのはその程度のことにすぎないが、それはあくまでゲームとかマンガから仕入れた知識である。断じて、大人の女性がいたいけな大学生を捕まえて真っ昼間から熱っぽく語る話題ではないだろう。
「今更あわてたってだめですよ。もう、決まったことなのだから」
秋津さんが怒ったような口調で言った。
「この世界は何でもありなんです。地底人もいれば怪物もいる。わたしが倒したあのヌルヌルしたのがその証拠です。でも、ここは晴香の世界でもある。だから、守らなければいけないんです」
確かに怪物は実在した。
しかしー。
この世界は何でもあり?
僕はあっけにとられて、彼女を見つめ返すしかなかった。
何でもありって、いつからそうなったんだ? そんなの、誰が決めたんだ…?。
彼女―秋津さんが少し申し訳なさそうに言った。伏見の雑居ビルの中にある、喫茶店に僕らはいた。僕はアイスコーヒー、彼女はアイスティーを飲んでいた。
「子供さんがいるんですか」
僕は危うくむせそうになった。落ち着きぶりから年上だとは思っていたが、まさか…。
「晴香っていいます。先月、三歳になりました。かわいいんですよ」
そんなことを言って、頬をほころばせた。笑うと目元に小じわができた。
「なんていうか…」
僕は言葉を継ぐのに苦労した。
「最強の人妻って感じですね」
あのアクションはタダものではない。それにあの凶器のような大鎌。四匹の怪物を一瞬にして寸断してしまった。
「正確には、人妻ではありません。今は娘と二人暮らしですから」
長い睫毛を伏せて言った。
「それに、朱雀鎌のスキルはまだ低いんです。最強なんて、とてもいえないと思います」
「はあ…」
「ところで、石川君からどこまで聞きましたか?」
秋津さんが、口調を変えてそう尋ねた。
「いや、ほとんど、何も」
僕は正直に答えた。きのうからのいきさつを手短に話す。というか、手短にならざるを得ないほど、話す内容が見事に何もない。
「煙草のポイ捨てはよくないですね」
聞き終えての彼女の第一声がそれだった。
「す、すみません、あたり一面吸殻だらけだったんで、つい」
「禁煙したほうがいいですよ。煙草は贅沢品ですし、この仕事は体力勝負だから」
「仕事、ですか?」
「ええ。石川君は任務って言うでしょうけど、わたし的には仕事ですね。お手当ももらえますし」
「お手当?」
「時給二千円です。きょうのは特別にプラスアルファがつくかも」
「時給二千円って、すごいじゃないですか」
思わず歓声を上げると、秋津さんは大きな目でじろりと僕を睨んで、
「豊原次郎君でしたっけ」
「…ええ」
気押されて僕は口ごもった。
「次郎君、よく考えてみてください。これは命をかけた戦いです。時給二千円で働く傭兵稼業が割に合いますか?」
「たしかに…」
そうだった。僕はあやうく化け物のエサになるところだったのだ。彼女にしてもそうだろう。見ず知らずの僕を助けるために、命を張る義理は何もない。
「なら、秋津さんは、なぜ?」
「晴香を守るためです」
僕を睨みつけたまま、短く言った。
「わたしはそのためなら、何でもします」
まさに、母は強し、だ。
僕は少なからず感動した。あのあられもない恰好で、強大な凶器を振り回して、正体不明の怪物と戦えるのも、母だからこそ、なのだろう。あんなこと、その辺の女子大生やOLにはどだい無理な話である。僕にだってできないし、いや、プロの格闘家にだって無理に違いない。
「ところで」
僕は気を取り直して聞いた。
「初めに戻って教えてほしいんですが…いったい、何が起こってるんですか? 戦いって、何と戦ってるんですか? あのタコとウツボのキメラみたいな怪物は何だったんですか? あ、それから石川君が言ってたあの渦巻き模様は?」
秋津さんは形のいい唇をアイスティーのストローから離すと、視線を僕からはずし、窓の外を見た。逆光の中、綺麗な横顔が浮かび上がる。
「敵は地底人です」
物憂げな口調で、ぽつりとそう言った。
「ちていじん?」
僕はポカンと口を開けた。
「地底から攻めてくるのだから、地底人でしょう? 海底人はそんなことしませんよ」
にこりともせず、そんなことを言う。
「そ、そうなんですか」
笑うべきなのかどうか、わからなかった。というより、目の前のこの女性がますますわからなくなった。グラマラスな外見はともかく、根はすごくまじめそうな人である。化粧気もなく、言われてみればたしかに三歳くらいの子供がいるごく普通の若い奥さんって感じだ。それが、よりによって「ちていじん」だと?
「さっきの怪物は地底人の生物兵器です。他にもサボテンみたいなのとか、いろいろいます。それから、あの渦巻きは、わたしたち〈原種〉を覚醒させるためのサインみたいなものです。石川君は、刻印って呼んでますけど…」
「わたしたち?」
秋津さんの真剣味を帯びた黒い瞳が正面から僕をひたと見据えた。
「そう、わたしたち。次郎君、あなたは青龍です。石川君が、そう言ってました」
「ん~、ちょっと待ってくださいよ。何のことですか、それ?」
秋津さんは確かに僕のすべての疑問に手際よく答えてくれた。何一つ隠すつもりのないことがわかる、潔いともいえる返答ぶりだ。しかし、内容が内容だった。
マジかよ。
僕は心の中でぼやいた。
青龍とか朱雀というのは、たしか中国の五行説に登場する聖獣だ。高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に描かれているあれである。北の玄武、南の朱雀、西の白虎、東の青龍だったか、とにかく風水の世界では、古代の都を守る聖なる獣とされてきた。僕が知っているのはその程度のことにすぎないが、それはあくまでゲームとかマンガから仕入れた知識である。断じて、大人の女性がいたいけな大学生を捕まえて真っ昼間から熱っぽく語る話題ではないだろう。
「今更あわてたってだめですよ。もう、決まったことなのだから」
秋津さんが怒ったような口調で言った。
「この世界は何でもありなんです。地底人もいれば怪物もいる。わたしが倒したあのヌルヌルしたのがその証拠です。でも、ここは晴香の世界でもある。だから、守らなければいけないんです」
確かに怪物は実在した。
しかしー。
この世界は何でもあり?
僕はあっけにとられて、彼女を見つめ返すしかなかった。
何でもありって、いつからそうなったんだ? そんなの、誰が決めたんだ…?。
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