激甚のタナトス ~世界でおまえが生きる意味について~【覚醒編】

戸影絵麻

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第3部 凶愛のエロス

#8 救出

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 棒の先が水着を引き裂く。
 その度に、杏里は手錠につながれた右足を軸に、水中で回転した。
 さあっとピンク色の靄が水の中に広がっていく。
 皮膚が破れて、血が滲みだしているのだ。
 杏里を攻めているのは、二本の棒だった。
 一本が、胸に突き刺さった。
 水着が破れ、右の乳房がこぼれ出た。
 もう一本が、わき腹に刺さる。
 激痛に杏里は思わずうめき、水を飲んだ。
 苦しい。
 頭が割れるように痛い。
 これ以上、水を飲まないように歯を食いしばる。
 ふと、視界の隅に、何かが光るのが見えた。
 肩甲骨の間に、六角形の雪の結晶のような模様が浮かび上がっていた。
 小田切が刻印(スティグマ)と呼んだ、あの痣である。
 いつかの夜、外来種に犯されたときにできたものだ。
 それが、内側から光を放つようにぼんやりと浮き上がって見える。
 どうしたんだろう?
 一瞬、疑問がわいた。
 だが、すぐに意識が逸れた。
 それどころではなかった。
 もうこれ以上、一秒たりとも我慢できなかった。
 -由羅、助けて!
 杏里は死にかけた金魚のように口をぱくぱくさせた。
 -あんた、私のパートナーじゃなかったの?
 が、由羅がやって来る気配はかけらもない。
 それどころか、開けた口の中にどっと薬臭い水が入ってきた。
 喉がつまった。
 死ぬ、と思ったとき、
 ふいに鼻から上が水面に出た。
 足が底についている。
 手錠がはずれたのではなかった。
 プールの水が減り始めているのだ。
「間に合った。よかった」
 誰かがいって、気を失いかけた杏里を背中から抱きかかえた。
 剝き出しになった右の乳房にその手が、ほんの一瞬触れたようだった。
 杏里はびくんと跳ねた。
 こんなときにもかかわらず、由羅に愛撫された瞬間のような、快感の痺れを感じたからだった。

 ぽっかりと、水底から浮かび上がるように、意識が戻ってきた。
 背中が冷たい。
 硬いコンクリートの感触だ。
 どうやら、プールサイドにじかに寝かされているようだった。
 おそるおそる目を開けてみる。
 眩い日差しが視界に飛び込んできた。
 真っ青な空をバックに、何人かの顔がさかさまにのぞきこんでいる。
 上半身を起こす。
 胸から腹にかけて、バスタオルがかけられていた。
「大丈夫か?」
 杏里の肩を支えたのは、山口翔太だった。
 いつになく険しい表情をしている。
「ごめんな。まさか、あいつらが、あんなひどいことするとは思ってもみなかったんだ」
 あいつら・・・?
 杏里はのろのろとこうべをめぐらせた。
 プールサイドに、少年がふたり、正座させられている。
 その前に、モップが二本、転がっていた。
「おまえら、何をしでかしたのか、わかってるのか!」
 体育の先生の怒鳴り声が聞こえた。
 ふたりの手首を両手でそれぞれつかんでぐいと引き起こすと、杏里のほうへとずるずる引きずってくる。
「この子にあやまれ」
 ふたりの頭をコンクリートの地面に掏りつけて、また怒鳴った。
 鬼のような形相になっていた。
「ご、ごめん・・・」
 少年のうちのひとりが、泣き出しそうな声でいった。
「ちょっとした、冗談のつもりだったんだ」
「お、俺も・・・」
 もうひとりが頭を下げた。
 先生に殴られでもしたのか、頬が赤く腫れている。
 ふたりともクラスメートだった。
 転校して日が浅いため、名前はまだ覚えていない。
 特に男子についてはそうである。
 どちらもあまり目立たない生徒だった。
 杏里はため息をついた。
 ふたりを責める気にはなれなかった。
 今まで何もなかったのが、不自然だったのだ。
 タナトスは"死への衝動”をかき立て、引き寄せる。
 これだけの人数がいれば、いくら新設の学校といえども、タナトスの魔に当てられる者が出てきてもおかしくはない。
「翔太が助けてくれたんだよ」
 横から楓がいった。
「翔太が杏里の様子が変だって気づいて、プールの水を抜いたの」
「とにかく、間に合ってよかった」
 体育教師が杏里を見下ろして、いった。
「こいつらは無期学処分だ。この学校でいじめなど、絶対に許さんからな」
「でも・・・」
 その足元で、少年のひとりがうなだれたまま、つぶやいた。
「手錠なんて、知らない・・・。あれは、俺らじゃない・・・」

「ありがとう。もう平気」
 礼をいって、杏里は立ち上がった。
 頭がふらふらする。
 酸素不足が続いて、脳の機能がかなり低下しているようだった。
 よろめいた杏里の体を、後ろから翔太が支えた。
「先生、俺がこの子、保健室に連れてくよ」
 返事も待たず、杏里を抱きかかえるようにして歩き出す。
「そうだな。じゃあ、翔太、頼んだぞ」
 背後から体育教師が野太い声でいった。
「ほかの者はシャワーを浴びて、着替えるんだ。きょうの授業は中止だ」

「恐かっただろ?」
 杏里の歩調に合わせてゆっくりとしたペースで歩きながら、翔太がささやいてきた。
 この子、こんなにやさしかったんだ。
 半ば少年の肩に身を預けながら、杏里は思った。
 そういえば、退院したとき、真っ先にノートを貸してくれたのも、この翔太だった。
 面映いような、くすぐったいような、そんな奇妙な感覚に杏里は戸惑っていた。
 男の子にやさしくされるのは、生まれてはじめての経験だった。
 大半の男にとって、杏里は獲物にすぎないのだ。
 これまでの杏里は、彼らが性欲を発散する蹂躙の対象でしかなかったのである。
 例外はヒュプノスの重人とトレーナーの小田切だが、あのふたりが男といえるかというと、微妙なところだった。
 翔太に抱きかかえられるようにしてプールを出るとき、杏里はうなじにふと強い視線を感じた。
 レーザービームのような、熱く、それでいて冷たい視線。
 振り向いた。
 が、すでにプールサイドには、誰もいなかった。
 バスタオルの下で、胸の痣が疼いた。
 杏里は何の脈絡もなく、由羅の顔を思い浮かべた。
 助けに来てくれると、思ったのに。
 腹が立ってきた。
「ばか」
 つい、そう声に出してつぶやいていた。
「ん? どうしたの?」
 杏里の顔を横から覗き込んで、翔太がいった。
「なんでもない」
 杏里は微笑んだ。
 自然と、男心をくすぐる切なげな表情になっていた。
 

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