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第2部 背徳のパトス
#3 杏里と毒殺魔
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その翌日ー。
午前中最後の、体育の授業が終わった時のことだった。
シャワー室から出てロッカーの前で体を拭いていると、隣で着替えていた少女がふいに話しかけてきた。
「いいなあ、笹原さんは胸が大きくて。それってモロ巨乳じゃん」
驚いて振り向くと、栗色の髪の女生徒がにこにこ笑っていた。
確か名前は高橋楓。
クラスメートのひとりである。
「ちょっと触らせてくれない?」
楓が手を伸ばしてきたので、あわててバスタオルで前を隠す。
「うわあ、やわらかーい! マシュマロみたい」
バスタオルの上から杏里の胸を人差し指でつついて、歓声をあげる。
「ぷにぷにしてて、気持ちいいー!」
杏里はその童顔にひきつった笑みを顔に浮べた。
きのうのバスでの悪夢が蘇る。
女だからといって、油断はできないのだ。
が、幸い、楓の悪戯はそこまでだった。
「あたしのなんか見てほら。哀しいくらいぺチャパイでしょ? これじゃ彼氏なんてできるわけないよね」
一度着た白のブラウスをめくりあげて、胸を見せる。
ブラの必要のなさそうな平らな胸に、さくらんぼのようなふたつの乳首だけが存在感を主張していた。
中学二年生なのだから、これくらいが標準なのだろう、と杏里は思った。
どう見ても異常なのは私のほうだ。
重人の指摘が正しいとすると、きのうの一件で更に成熟が進んだことになる。
杏里は暗い気分になった。
できるなら、普通の中学生として、目立たず地味に暮らしたいのだ。
「か、関係ないと思うよ」
杏里は半笑いの表情のまま、いった。
「私にも別にそんなのいないし」
「そうなんだー」
真顔でうなずく楓。
ふたりで会話を交わすのはこれが初めてだが、悪い子ではなさそうである、
「ねえ、これから笹原さんのこと、杏里って呼んでいい? あたしは楓。以後よろしく」
楓がいって、もう一度杏里の胸をつんつんつついた。
杏里がおそるおそるうなずくと、にっと笑って、
「あ、そうだ。杏里もスクールランチ組でしょ? お昼一緒に食べようよ。そのときじっくり聞かせてよね。どうやったらそんなにおっぱい大きくなるか」
ぽかんとする杏里を残して、じゃね、と手を振って去っていった。
杏里は心の中が少し温かくなるのを感じた。
もしかして、この私に、友だちが・・・・?
初めての友だち・・・?
杏里には、なぜか三年分の記憶しかない。
病室の母。
自死した姉。
忌まわしい欲望を裡に秘めた父。
記憶の中の登場人物はそれだけだ。
だから、友と呼べる存在を杏里は知らなかった。
なぜかうるうるしてきた目を、杏里はそっとバスタオルで拭った。
岬が丘中学では、昼休みはスクールランチ組と弁当組に分かれて昼食を摂る。
弁当組はそのまま教室で食事を摂り、スクールランチ組は食堂に集まることになっている。
トイレに行っていたせいで少し遅れて食堂に向かった杏里は、その人物に気づいて思わず立ち竦んだ。
入口近くの柱の影。
前髪を垂らした顔色の悪い少年が、うつむいてたたずんでいる。
横顔に見覚えがあった。
きのう見た八個の猫の首。
病院へ登る階段。
あそこにいた少年に間違いない。
何をしているのだろう?
声をかけようとして、出かかった言葉を杏里は飲み込んだ。
少年は注射器を手にしていた。
針を、牛乳パックに刺している。
スクールランチについているのと同じメーカーのものである。
作業を終えると、注射器をポケットに隠し、牛乳パック片手に食堂に入っていく。
少し離れて、杏里は後を追った。
少年は、カウンターの最後尾に並んでいた。
杏里はその後ろに立った。
少年の前は、女生徒の三人組だった。
三人分のトレイがカウンターの上に差し出された。
が、少女たちはおしゃべりに夢中で、なかなか自分たちの分を手に取ろうとしない。
少年が動いたのは、そのときだった。
持っていた牛乳パックを、女生徒たちのひとりのものと、素早くすり替えたのである。
杏里の頭の中で警報が鳴った。
ー人間には、死へと向かおうとする衝動がある。
しかし、それはよほどのことがない限り、己に向けられることはない。
高まった死への衝動=タナトスは、まず他者へと向く。
それは破壊衝動や、殺人衝動に転化され、やがて他人を傷つけるー
小田切の声が耳の奥に蘇った。
杏里は手を伸ばすと、少年が置いた牛乳パックを取った。
驚いて、少年が振り返る。
真っ黒な目が、杏里をまじまじと見つめた。
感情のかけらもない、虚無がそこにわだかまっているかのような、深いふたつの穴。
「あれ、おばちゃん、あたしの牛乳は?」
少年の前の女生徒が手元に目をやり、声を上げた。
それを合図に、少年が列を離れた。
ポケットに手を入れて、食堂を出て行こうとする。
「待ちなさいよ」
杏里は少年の服の裾をつかんだ。
誰も坐っていない、隅のテーブルへと少年を引っ張っていく。
少年はされるがままになっていた。
椅子に坐らせると、逃げ道を塞いで杏里はいった。
「これは何? あなたは何がしたかったの?」
牛乳パックを少年の鼻先につきつける。
少年の虚無の目が杏里を見上げる。
「他人が苦しむところを見たかったの?」
少年は答えない。
ただじっと、杏里の顔を見つめている。
この虚無の目にたゆたうのは、死への衝動だろうか?
「それであなたが解放されるなら」
牛乳パックにストローを刺して、杏里はいった。
「私が見せてあげる」
目をつぶり、飲んだ、
とたんに、喉に焼けるような痛みが走った。
吐き気を抑えながら、更に飲む、
胃が激しく波打ち始めた。
口から胃液とともに血があふれ出す。
手足が痺れる。
目がかすむ。
杏里はたまらずその場に崩れ落ちた。
体をくの字に折り、転げまわる。
「杏里!」
楓の声が聞こえた気がした。
が、次の瞬間、激烈な痛みに襲われ、杏里は悶絶した。
息ができない。
身体じゅうが熱い。
苦しい。
誰か。
誰か、助けて。
顎をつかまれ、杏里は薄目を開けた。
あの少年が覆いかぶさるようにして、杏里の顔を覗き込んでいた。
指で杏里の目をこじあける。
「まだだ」
小声でつぶやいた。
なぜだか悔しそうな表情をしていた。
それが杏里の耳にした、最後の言葉だった。
午前中最後の、体育の授業が終わった時のことだった。
シャワー室から出てロッカーの前で体を拭いていると、隣で着替えていた少女がふいに話しかけてきた。
「いいなあ、笹原さんは胸が大きくて。それってモロ巨乳じゃん」
驚いて振り向くと、栗色の髪の女生徒がにこにこ笑っていた。
確か名前は高橋楓。
クラスメートのひとりである。
「ちょっと触らせてくれない?」
楓が手を伸ばしてきたので、あわててバスタオルで前を隠す。
「うわあ、やわらかーい! マシュマロみたい」
バスタオルの上から杏里の胸を人差し指でつついて、歓声をあげる。
「ぷにぷにしてて、気持ちいいー!」
杏里はその童顔にひきつった笑みを顔に浮べた。
きのうのバスでの悪夢が蘇る。
女だからといって、油断はできないのだ。
が、幸い、楓の悪戯はそこまでだった。
「あたしのなんか見てほら。哀しいくらいぺチャパイでしょ? これじゃ彼氏なんてできるわけないよね」
一度着た白のブラウスをめくりあげて、胸を見せる。
ブラの必要のなさそうな平らな胸に、さくらんぼのようなふたつの乳首だけが存在感を主張していた。
中学二年生なのだから、これくらいが標準なのだろう、と杏里は思った。
どう見ても異常なのは私のほうだ。
重人の指摘が正しいとすると、きのうの一件で更に成熟が進んだことになる。
杏里は暗い気分になった。
できるなら、普通の中学生として、目立たず地味に暮らしたいのだ。
「か、関係ないと思うよ」
杏里は半笑いの表情のまま、いった。
「私にも別にそんなのいないし」
「そうなんだー」
真顔でうなずく楓。
ふたりで会話を交わすのはこれが初めてだが、悪い子ではなさそうである、
「ねえ、これから笹原さんのこと、杏里って呼んでいい? あたしは楓。以後よろしく」
楓がいって、もう一度杏里の胸をつんつんつついた。
杏里がおそるおそるうなずくと、にっと笑って、
「あ、そうだ。杏里もスクールランチ組でしょ? お昼一緒に食べようよ。そのときじっくり聞かせてよね。どうやったらそんなにおっぱい大きくなるか」
ぽかんとする杏里を残して、じゃね、と手を振って去っていった。
杏里は心の中が少し温かくなるのを感じた。
もしかして、この私に、友だちが・・・・?
初めての友だち・・・?
杏里には、なぜか三年分の記憶しかない。
病室の母。
自死した姉。
忌まわしい欲望を裡に秘めた父。
記憶の中の登場人物はそれだけだ。
だから、友と呼べる存在を杏里は知らなかった。
なぜかうるうるしてきた目を、杏里はそっとバスタオルで拭った。
岬が丘中学では、昼休みはスクールランチ組と弁当組に分かれて昼食を摂る。
弁当組はそのまま教室で食事を摂り、スクールランチ組は食堂に集まることになっている。
トイレに行っていたせいで少し遅れて食堂に向かった杏里は、その人物に気づいて思わず立ち竦んだ。
入口近くの柱の影。
前髪を垂らした顔色の悪い少年が、うつむいてたたずんでいる。
横顔に見覚えがあった。
きのう見た八個の猫の首。
病院へ登る階段。
あそこにいた少年に間違いない。
何をしているのだろう?
声をかけようとして、出かかった言葉を杏里は飲み込んだ。
少年は注射器を手にしていた。
針を、牛乳パックに刺している。
スクールランチについているのと同じメーカーのものである。
作業を終えると、注射器をポケットに隠し、牛乳パック片手に食堂に入っていく。
少し離れて、杏里は後を追った。
少年は、カウンターの最後尾に並んでいた。
杏里はその後ろに立った。
少年の前は、女生徒の三人組だった。
三人分のトレイがカウンターの上に差し出された。
が、少女たちはおしゃべりに夢中で、なかなか自分たちの分を手に取ろうとしない。
少年が動いたのは、そのときだった。
持っていた牛乳パックを、女生徒たちのひとりのものと、素早くすり替えたのである。
杏里の頭の中で警報が鳴った。
ー人間には、死へと向かおうとする衝動がある。
しかし、それはよほどのことがない限り、己に向けられることはない。
高まった死への衝動=タナトスは、まず他者へと向く。
それは破壊衝動や、殺人衝動に転化され、やがて他人を傷つけるー
小田切の声が耳の奥に蘇った。
杏里は手を伸ばすと、少年が置いた牛乳パックを取った。
驚いて、少年が振り返る。
真っ黒な目が、杏里をまじまじと見つめた。
感情のかけらもない、虚無がそこにわだかまっているかのような、深いふたつの穴。
「あれ、おばちゃん、あたしの牛乳は?」
少年の前の女生徒が手元に目をやり、声を上げた。
それを合図に、少年が列を離れた。
ポケットに手を入れて、食堂を出て行こうとする。
「待ちなさいよ」
杏里は少年の服の裾をつかんだ。
誰も坐っていない、隅のテーブルへと少年を引っ張っていく。
少年はされるがままになっていた。
椅子に坐らせると、逃げ道を塞いで杏里はいった。
「これは何? あなたは何がしたかったの?」
牛乳パックを少年の鼻先につきつける。
少年の虚無の目が杏里を見上げる。
「他人が苦しむところを見たかったの?」
少年は答えない。
ただじっと、杏里の顔を見つめている。
この虚無の目にたゆたうのは、死への衝動だろうか?
「それであなたが解放されるなら」
牛乳パックにストローを刺して、杏里はいった。
「私が見せてあげる」
目をつぶり、飲んだ、
とたんに、喉に焼けるような痛みが走った。
吐き気を抑えながら、更に飲む、
胃が激しく波打ち始めた。
口から胃液とともに血があふれ出す。
手足が痺れる。
目がかすむ。
杏里はたまらずその場に崩れ落ちた。
体をくの字に折り、転げまわる。
「杏里!」
楓の声が聞こえた気がした。
が、次の瞬間、激烈な痛みに襲われ、杏里は悶絶した。
息ができない。
身体じゅうが熱い。
苦しい。
誰か。
誰か、助けて。
顎をつかまれ、杏里は薄目を開けた。
あの少年が覆いかぶさるようにして、杏里の顔を覗き込んでいた。
指で杏里の目をこじあける。
「まだだ」
小声でつぶやいた。
なぜだか悔しそうな表情をしていた。
それが杏里の耳にした、最後の言葉だった。
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