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第1部 激甚のタナトス
#19 エピローグ ~タナトス目覚める~
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校庭を、白いユニフォームを着た一団がランニングしている。
そのリズミカルなかけ声が、風に乗って聞こえてくる。
カーテンが風に舞う。
夏の匂いが、保健室いっぱいに広がった。
「笹原、君は、タナトスなんだよ」
小田切がいった。
坐っている事務机の前の椅子をくるりと回し、正面から杏里と向かい合う。
杏里はベッドの端に腰かけていた。
「タナトス?」
「いや、正確にはタナトスを吸収してエロスに変換する、”精神受容体”とでもいうべきか」
杏里は首をひねって小田切を見た。
タナトス?
エロス?
何のことか、さっぱりだ。
「タナトスっていうのはね、人間の無意識が持つ"死に向かう衝動"のこと。エロスはその逆で、"生への衝動”。もとはといえば、どちらもギリシヤ神話の神の名なんだけどね」
小田切の横に立った水谷冬美がいった。
いつものように淡々とした、聞き取りやすい声である。
「私たちは、その転換を可能にするあなたのような存在を、仮に"タナトス”と呼ぶことにしているの。他人の死の衝動を吸収して、生への衝動に変え、中和してしまうような存在を、ね」
冬美は、きょうも夏向きの麻のスーツを、スリムな体にぴしっと決めていた。
「見ろよ。この学校も、ずいぶん平和になったと思わないか」
窓の外に視線を投げて、小田切がいう。
「杏里、君が来る前は、ほとんど臨界状態でね。ほんと、危ないところだったんだよ」
何気に外を見やった。
グラウンドを、体操服姿の女子たちがランニングしている。
その先頭に立っているのは、意外なことにあの佐倉萌だ。
萌はなんだか、妙に晴れ晴れとした表情をしているようだった。
あの体育館での彼女と比べると、まるで別人だ。
「私のせい?」
杏里は小首をかしげた。
あれから、2日経っていた。
杏里があずさに"解体”され、父の縊死体を見つけたあの日から・・・。
「タナトスはサディズムにつながったり、他者への破壊衝動として表層化したりしやすいんだ。あまり放置しておくと、いずれ取り返しのつかないことになりかねない」
つまり、私をいじめることで、みんなその衝動を昇華したということなのか。
あずさに至っては、実際に私を解剖することで。
そしてもしかしたら、お父さんも・・・。
「それが、私の生きる意味、ということだったんですか」
ふと思いついて、杏里はたずねた。
母は知っていたのかもしれない。
だからあのとき、あんなことをいったのだ。
「そうだ」
しばしの逡巡の後、小田切がいった。
「残酷なようだが、そういうことになる」
憐れむような目をしている。
小田切は、杏里の運命を憐れんでいるのに違いない。
「あなたはそのために、つくられたようなものだから」
杏里から窓の外に視線を移し、冬美がつぶやいた。
「つくられた?」
杏里は目を見開いた。
この私が、つくられた、とはどういうことなのだろう?
「詳しいことは。俺にもわからん。すべて、"上"がやってることなんでね」
小田切が頭を掻いた。
「でも、君たち"タナトス"のおかげで、この国の治安が保たれているのは確かだと思う」
「君たち?」
おうむ返しに、杏里はいった。
「あなたには仲間がいるってこと」
冬美が答えた。
「いずれどこかで会えるかもしれないわね」
タナトス。
仲間。
私、いったい何者なの・・・?
「つまり、私は、みんなの欲求不満を解消するためにつくられた、ロボットみたいなものってことですか」
杏里は口を開いた。
声に怒りがにじんでいた。
「私だけがいじめられて、傷つけられて、それで世の中が平和になるならそれでいいって、そういうことなんですね」
「極論を言えば、その通り」
この男なりにプレッシャーを感じているのか、小田切が禁煙パイプをくわえた。
「はっきりいおう。杏里、君は人間じゃない。持ってる記憶はせいぜい3年分。いくら傷ついても、死ぬこともできない。そんな人間は、この世にいない。そうだろう?」
「・・・」
杏里は絶句した。
なぜそのことを知っている?
確かに私が持っている記憶は、小学6年生以降のものだけ。
更に、内臓を摘出されても死なないこの体・・・。
まだ誰にも話していない、私だけの秘密なのに。
「だから、君たちタナトスには人権がない。なぜって、この国の憲法は人間のためにつくられたものだからだ。自由権も平等権も社会権も、本来君らには無縁のものなんだよ」
「そんな。ひどい」
杏里は唇を噛みしめた。
「ひどすぎる・・・」
「だからその分、これからは私たちがあなたを全面的にサポートします」
冬美がいった。
「そのための"ヒュプノス"も用意したわ」
冬美がベッドとベッドの間のアコーディオンカーテンを開けた。
隣のベッドに、あの同級生が座っていた。
黒縁眼鏡の、小学生のような顔をした男の子。
栗栖重人だった。
「ヒュプノスは唯一、タナトスを癒せる存在、彼の助けがあれば、この先何があっても、あなたの精神は持ちこたえられるはず」
「ボクは眠りの神なんだって」
重人がはにかんだように笑う。
「タナトスとヒュプノスは、もともとセットなんだ」
「眠りの神・・・」
杏里はいつか、少年に額を触られたとき、耐え難い睡魔に襲われたことを思い出した。
あれは、そういうことだったのか。
「とにかく、杏里、君は3年間の試運転期間を経て、"実地試験"に無事"合格"した。これからは一人前のタナトスとして、活躍してもらうことになる」
小田切が椅子から立ち上がり、杏里の頭に手を置いた。
「実は、死の衝動の昇華以外にもうひとつ、君たちには重要な任務があるのだが、それについてはいずれ君が落ちついたら話すことにしよう。ヒュプノスとは別の、魂のパートナー、パトスのこともね」
「任務? パトス?」
杏里はゆるゆるとかぶりを振った。
またわからないことが増えてきた。
いったいこの世界は、この私に、まだほかに何を求めているというのだろう?
「次の赴任先はもう決まってるわ。隣町の中学校ね」
冬美が事務机の上の書類をめくって、いった。
「今度から、俺が君の"後見人"ということになるらしい。ま、だからといって心配は無用だ。ある事情で、俺には男性機能が欠けていてね。君を見てもムラムラきたりしないようにできてるんだ。この前の”父さん役”みたいなやっかいなことにはならないさ」
小田切が真顔でそんなことをいう。
父さん役?
じゃ、あの人は、本当のお父さんじゃなかったんだ。
というか、そもそも私に、両親なんて、存在しているのだろうか?
「さ、行くぞ。なんなら2-Cの連中に転校の挨拶をしてからにするか?」
小田切の言葉に、杏里は顔をしかめてみせた。
今更、萌や茶髪の晴れやかな顔など、見たくもない。
あずさも同様だった。
みんな、私を踏み台にして、裏切って、自分たちだけ…。
あまりの怒りで、しばらくの間、杏里は動けないでいた。
他人の死の衝動を吸収し、生の衝動に変える存在、
そんなものに、なりたくはない。
しかし、もう後戻りはできない気がした。
私が、世界で生きる意味・・・。
それがある限り、生きるしかないのかもしれない。
私が何者なのか、いまだによくわからない。
でも、と思う。
私が死ぬ時が来るとすれば、それは今ではない。
この腐った世界の中で、活きる意味を見失った時なのだ。
お母さん、これで、よかったの?
もっとも、あなたが本当に、私の母親だとしたら、だけれどね・・・。
心の中でつぶやくと、小田切の背中を追い、杏里はゆっくりと歩き出した。
そう。
あたかも、新たな戦場へと向かう、孤独な戦士のように。
そのリズミカルなかけ声が、風に乗って聞こえてくる。
カーテンが風に舞う。
夏の匂いが、保健室いっぱいに広がった。
「笹原、君は、タナトスなんだよ」
小田切がいった。
坐っている事務机の前の椅子をくるりと回し、正面から杏里と向かい合う。
杏里はベッドの端に腰かけていた。
「タナトス?」
「いや、正確にはタナトスを吸収してエロスに変換する、”精神受容体”とでもいうべきか」
杏里は首をひねって小田切を見た。
タナトス?
エロス?
何のことか、さっぱりだ。
「タナトスっていうのはね、人間の無意識が持つ"死に向かう衝動"のこと。エロスはその逆で、"生への衝動”。もとはといえば、どちらもギリシヤ神話の神の名なんだけどね」
小田切の横に立った水谷冬美がいった。
いつものように淡々とした、聞き取りやすい声である。
「私たちは、その転換を可能にするあなたのような存在を、仮に"タナトス”と呼ぶことにしているの。他人の死の衝動を吸収して、生への衝動に変え、中和してしまうような存在を、ね」
冬美は、きょうも夏向きの麻のスーツを、スリムな体にぴしっと決めていた。
「見ろよ。この学校も、ずいぶん平和になったと思わないか」
窓の外に視線を投げて、小田切がいう。
「杏里、君が来る前は、ほとんど臨界状態でね。ほんと、危ないところだったんだよ」
何気に外を見やった。
グラウンドを、体操服姿の女子たちがランニングしている。
その先頭に立っているのは、意外なことにあの佐倉萌だ。
萌はなんだか、妙に晴れ晴れとした表情をしているようだった。
あの体育館での彼女と比べると、まるで別人だ。
「私のせい?」
杏里は小首をかしげた。
あれから、2日経っていた。
杏里があずさに"解体”され、父の縊死体を見つけたあの日から・・・。
「タナトスはサディズムにつながったり、他者への破壊衝動として表層化したりしやすいんだ。あまり放置しておくと、いずれ取り返しのつかないことになりかねない」
つまり、私をいじめることで、みんなその衝動を昇華したということなのか。
あずさに至っては、実際に私を解剖することで。
そしてもしかしたら、お父さんも・・・。
「それが、私の生きる意味、ということだったんですか」
ふと思いついて、杏里はたずねた。
母は知っていたのかもしれない。
だからあのとき、あんなことをいったのだ。
「そうだ」
しばしの逡巡の後、小田切がいった。
「残酷なようだが、そういうことになる」
憐れむような目をしている。
小田切は、杏里の運命を憐れんでいるのに違いない。
「あなたはそのために、つくられたようなものだから」
杏里から窓の外に視線を移し、冬美がつぶやいた。
「つくられた?」
杏里は目を見開いた。
この私が、つくられた、とはどういうことなのだろう?
「詳しいことは。俺にもわからん。すべて、"上"がやってることなんでね」
小田切が頭を掻いた。
「でも、君たち"タナトス"のおかげで、この国の治安が保たれているのは確かだと思う」
「君たち?」
おうむ返しに、杏里はいった。
「あなたには仲間がいるってこと」
冬美が答えた。
「いずれどこかで会えるかもしれないわね」
タナトス。
仲間。
私、いったい何者なの・・・?
「つまり、私は、みんなの欲求不満を解消するためにつくられた、ロボットみたいなものってことですか」
杏里は口を開いた。
声に怒りがにじんでいた。
「私だけがいじめられて、傷つけられて、それで世の中が平和になるならそれでいいって、そういうことなんですね」
「極論を言えば、その通り」
この男なりにプレッシャーを感じているのか、小田切が禁煙パイプをくわえた。
「はっきりいおう。杏里、君は人間じゃない。持ってる記憶はせいぜい3年分。いくら傷ついても、死ぬこともできない。そんな人間は、この世にいない。そうだろう?」
「・・・」
杏里は絶句した。
なぜそのことを知っている?
確かに私が持っている記憶は、小学6年生以降のものだけ。
更に、内臓を摘出されても死なないこの体・・・。
まだ誰にも話していない、私だけの秘密なのに。
「だから、君たちタナトスには人権がない。なぜって、この国の憲法は人間のためにつくられたものだからだ。自由権も平等権も社会権も、本来君らには無縁のものなんだよ」
「そんな。ひどい」
杏里は唇を噛みしめた。
「ひどすぎる・・・」
「だからその分、これからは私たちがあなたを全面的にサポートします」
冬美がいった。
「そのための"ヒュプノス"も用意したわ」
冬美がベッドとベッドの間のアコーディオンカーテンを開けた。
隣のベッドに、あの同級生が座っていた。
黒縁眼鏡の、小学生のような顔をした男の子。
栗栖重人だった。
「ヒュプノスは唯一、タナトスを癒せる存在、彼の助けがあれば、この先何があっても、あなたの精神は持ちこたえられるはず」
「ボクは眠りの神なんだって」
重人がはにかんだように笑う。
「タナトスとヒュプノスは、もともとセットなんだ」
「眠りの神・・・」
杏里はいつか、少年に額を触られたとき、耐え難い睡魔に襲われたことを思い出した。
あれは、そういうことだったのか。
「とにかく、杏里、君は3年間の試運転期間を経て、"実地試験"に無事"合格"した。これからは一人前のタナトスとして、活躍してもらうことになる」
小田切が椅子から立ち上がり、杏里の頭に手を置いた。
「実は、死の衝動の昇華以外にもうひとつ、君たちには重要な任務があるのだが、それについてはいずれ君が落ちついたら話すことにしよう。ヒュプノスとは別の、魂のパートナー、パトスのこともね」
「任務? パトス?」
杏里はゆるゆるとかぶりを振った。
またわからないことが増えてきた。
いったいこの世界は、この私に、まだほかに何を求めているというのだろう?
「次の赴任先はもう決まってるわ。隣町の中学校ね」
冬美が事務机の上の書類をめくって、いった。
「今度から、俺が君の"後見人"ということになるらしい。ま、だからといって心配は無用だ。ある事情で、俺には男性機能が欠けていてね。君を見てもムラムラきたりしないようにできてるんだ。この前の”父さん役”みたいなやっかいなことにはならないさ」
小田切が真顔でそんなことをいう。
父さん役?
じゃ、あの人は、本当のお父さんじゃなかったんだ。
というか、そもそも私に、両親なんて、存在しているのだろうか?
「さ、行くぞ。なんなら2-Cの連中に転校の挨拶をしてからにするか?」
小田切の言葉に、杏里は顔をしかめてみせた。
今更、萌や茶髪の晴れやかな顔など、見たくもない。
あずさも同様だった。
みんな、私を踏み台にして、裏切って、自分たちだけ…。
あまりの怒りで、しばらくの間、杏里は動けないでいた。
他人の死の衝動を吸収し、生の衝動に変える存在、
そんなものに、なりたくはない。
しかし、もう後戻りはできない気がした。
私が、世界で生きる意味・・・。
それがある限り、生きるしかないのかもしれない。
私が何者なのか、いまだによくわからない。
でも、と思う。
私が死ぬ時が来るとすれば、それは今ではない。
この腐った世界の中で、活きる意味を見失った時なのだ。
お母さん、これで、よかったの?
もっとも、あなたが本当に、私の母親だとしたら、だけれどね・・・。
心の中でつぶやくと、小田切の背中を追い、杏里はゆっくりと歩き出した。
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