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第1部 激甚のタナトス
#3 生贄少女
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2時限目の英語まで、10分あった。
杏里はなるべく目立たないように教室を出ると、校庭に向かった。
手洗い場でハンカチと上靴を洗いたかった。
渡り廊下を小走りに駆け抜ける。
日差しが強く、汗ばむほどだ。
校庭には陽炎が立ち、景色が揺らいで見える。
サッカーゴールのほうへ向かう。
その陰に手洗い場は位置していた。
水道の蛇口をひねる。
熱い水がほとばしる。
冷たくなるのを待って、ひと口飲んだ。
のどがカラカラに渇いていた。
水でハンカチをしめらせ、上履きをこする。
5分ほど続けたが、猫の血はいっこうにとれなかった。
ハンカチも血を吸って、見るも無惨なありさまだ、
もう捨てるしかなさそうだった。
杏里はお気に入りのキャラクターの描かれたハンカチをじっと見た。
誕生日プレゼントに、姉がくれたものだ。
目尻が熱くなり、視界がぼやけた。
でも、泣くのはまだ早い、と自分に言い聞かせた。
腰をシャープペンシルで刺された傷はすでにふさがっている。
お尻の痛みも完全に引いていた。
-一緒に帰ろう。
そういってくれたあずさの言葉を思い出す。
この学校へ来て、初めてかけられた優しい言葉。
あずさは少しだけ姉に似ていた。
気の強そうな横顔が脳裏をよぎる。
少なくともきょうは、心の支えがある。
そう思うことで、少し気分が晴れた。
濡れたハンカチをポケットにしまい、やはり濡れたままの上履きに履き替えて、教室に戻った。
自分では気をつけてそっと中に入ったつもりなのに、戸を開けると視線が一斉に集まってきた。
クラスメートは全員席についていた。
急いで自分の席に戻ると、筆箱がなくなっていた。
教室を出るときには、ちゃんと机の上に置いてあったのだ。
それが、なくなっている。
机の中や、下を探してみた。
が、やはり、ない。
「あれじゃない?」
後ろの席から、杏里の様子を眺めていた萌が、笑いを含んだ口調でいった。
指差すほうを見ると、教室の一番前、黒板の上に見慣れた筆箱が乗っている。
腕時計に目をやると、始業2分前だった。
間に合うだろうか。
教卓に駆け寄って、先生用の椅子を移動させ、上に立ってみた。
届かない。
失笑が起こった。
全員が杏里の挙動に注目しているのは、もう火を見るより明らかだった。
仕方なく、教卓に登ることにした。
足元がぐらぐらする。
恐かった。
黒板に左手をついて、せいいっぱい右手を伸ばした。
指先が、筆箱にかかった。
そのとき、
「見えた」
誰かがいった。
「マジかよ」
「オレにも見せろよ」
男子がざわめき、足元に押しかけてくる気配がした。
杏里は焦って左手でスカートの裾を押さえようとした。
バランスが崩れ、体が傾いた。
筆箱が弧を描いて下に落ちていくのが見えた。
あっ、と思ったときにはすでに遅かった。
杏里は自分が宙に浮くのを感じた。
床がすごい勢いで近づいてきて、次の瞬間、腹に激痛が走った。
さっき自分が動かした先生用の椅子。
その背もたれの部分に、思いっきり腹部を打ちつけたのだった。
椅子ごと床に転がった。
あまりの痛みに声が出なかった。
杏里は体をくの字に折り、腹を押さえてうめいた。
だが、誰も助け起こそうとしない。
「まだ生きてるの?」
誰かがいい、くすくす笑いがさざ波のように広がっていった。
「しぶといやつだな」
背中を蹴られた。
うつぶせになると、更に肩を蹴られた。
「ピンクのブラだよ」
「きも」
「娼婦」
「パンツもピンクだったぜ」
「うそ、マジ?」
「見てみる?」
「いいかも」
そのとき、引き戸が開く音がした。
「おまえら、何をしてる」
先生の声だ。
床に横たわって目を閉じたまま、杏里は安堵のため息をついた。
間一髪、助かったのだ。
杏里はなるべく目立たないように教室を出ると、校庭に向かった。
手洗い場でハンカチと上靴を洗いたかった。
渡り廊下を小走りに駆け抜ける。
日差しが強く、汗ばむほどだ。
校庭には陽炎が立ち、景色が揺らいで見える。
サッカーゴールのほうへ向かう。
その陰に手洗い場は位置していた。
水道の蛇口をひねる。
熱い水がほとばしる。
冷たくなるのを待って、ひと口飲んだ。
のどがカラカラに渇いていた。
水でハンカチをしめらせ、上履きをこする。
5分ほど続けたが、猫の血はいっこうにとれなかった。
ハンカチも血を吸って、見るも無惨なありさまだ、
もう捨てるしかなさそうだった。
杏里はお気に入りのキャラクターの描かれたハンカチをじっと見た。
誕生日プレゼントに、姉がくれたものだ。
目尻が熱くなり、視界がぼやけた。
でも、泣くのはまだ早い、と自分に言い聞かせた。
腰をシャープペンシルで刺された傷はすでにふさがっている。
お尻の痛みも完全に引いていた。
-一緒に帰ろう。
そういってくれたあずさの言葉を思い出す。
この学校へ来て、初めてかけられた優しい言葉。
あずさは少しだけ姉に似ていた。
気の強そうな横顔が脳裏をよぎる。
少なくともきょうは、心の支えがある。
そう思うことで、少し気分が晴れた。
濡れたハンカチをポケットにしまい、やはり濡れたままの上履きに履き替えて、教室に戻った。
自分では気をつけてそっと中に入ったつもりなのに、戸を開けると視線が一斉に集まってきた。
クラスメートは全員席についていた。
急いで自分の席に戻ると、筆箱がなくなっていた。
教室を出るときには、ちゃんと机の上に置いてあったのだ。
それが、なくなっている。
机の中や、下を探してみた。
が、やはり、ない。
「あれじゃない?」
後ろの席から、杏里の様子を眺めていた萌が、笑いを含んだ口調でいった。
指差すほうを見ると、教室の一番前、黒板の上に見慣れた筆箱が乗っている。
腕時計に目をやると、始業2分前だった。
間に合うだろうか。
教卓に駆け寄って、先生用の椅子を移動させ、上に立ってみた。
届かない。
失笑が起こった。
全員が杏里の挙動に注目しているのは、もう火を見るより明らかだった。
仕方なく、教卓に登ることにした。
足元がぐらぐらする。
恐かった。
黒板に左手をついて、せいいっぱい右手を伸ばした。
指先が、筆箱にかかった。
そのとき、
「見えた」
誰かがいった。
「マジかよ」
「オレにも見せろよ」
男子がざわめき、足元に押しかけてくる気配がした。
杏里は焦って左手でスカートの裾を押さえようとした。
バランスが崩れ、体が傾いた。
筆箱が弧を描いて下に落ちていくのが見えた。
あっ、と思ったときにはすでに遅かった。
杏里は自分が宙に浮くのを感じた。
床がすごい勢いで近づいてきて、次の瞬間、腹に激痛が走った。
さっき自分が動かした先生用の椅子。
その背もたれの部分に、思いっきり腹部を打ちつけたのだった。
椅子ごと床に転がった。
あまりの痛みに声が出なかった。
杏里は体をくの字に折り、腹を押さえてうめいた。
だが、誰も助け起こそうとしない。
「まだ生きてるの?」
誰かがいい、くすくす笑いがさざ波のように広がっていった。
「しぶといやつだな」
背中を蹴られた。
うつぶせになると、更に肩を蹴られた。
「ピンクのブラだよ」
「きも」
「娼婦」
「パンツもピンクだったぜ」
「うそ、マジ?」
「見てみる?」
「いいかも」
そのとき、引き戸が開く音がした。
「おまえら、何をしてる」
先生の声だ。
床に横たわって目を閉じたまま、杏里は安堵のため息をついた。
間一髪、助かったのだ。
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