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第2章 謝肉祭

#19 杏里の秘密

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「そんなに込み入った事情があるってこと?」
「そう」
 杏里が私の顔に視線を戻した。
「例えば、こういうことかな。よどみは、人の生きる意味ってなんだと思う?」
「生きる、意味?」
 私は首をかしげた。
 そんなこと、考えたこともない。
 いや、ていうか、私に限って言えば、意味なんてない。
 あるとしたら、快楽を追求すること。
 美しいものを汚して、屈辱まみれにしてやること。
 それくらいだろうか。
「私の場合、それはやっぱり、少しでも人間、いえ、他人の支えになること、だと思うんだ」
 返ってきた答えは、模範解答を絵に描いたような、ひどく優等生っぽいものだった。
「なんだか、道徳の教科書みたい」
 私がそう不満を口にすると、杏里は可愛らしくふふふと笑って、
「そうだね。でも、本当にそうなんだよ」
 と、根拠があるのかないのかはっきりしないまま、妙な自信を込めて言い切った。
「それとそのエロい服装とどういう関係があるの?」
「私は、頭も運動神経もよくないし、何か特別な才能があるわけでもない。だけどね、ひとつだけなれるものがあったんだ」
 なぜだか遠い目になって、杏里が言った。
 頭も運動神経も才能も関係ないでしょ?
 杏里はそれだけスタイルよくて、可愛いんだから。
 私はよっぽどそう言い返してやろうかと思った。
 杏里なら、アイドルは無理にしてもグラドルで十分やっていけるだろう。
 真剣にそう思うのだ。
 だけど、本人の答えが気になって、あえて何も言わないことにした。
 杏里がひとつだけなれるもの。
 それはいったい何だろう?
「私の天職。何だと思う?」
 真顔で杏里が訊いてきた。
 天職?
 天職って、仕事ってこと?
 そういえば、きのう杏里の若いおじさん、変なこと言ってなかったっけ。
 私が杏里に誘惑されかけた時である。
 小田切勇次は、確か、こう言ったのだ。
 -なんだ? 仕事中だったのか?
 と。
「ぜんぜんわかんない」
 私は大げさに両手を広げ、肩をすくめてみせた。
「それはね」
 杏里が言った。
「全人類の、ストレス緩衝装置になること。私はタナトス。生まれながらのタナトスなの」
「タナトス?」
 私はあっけにとられ、ハシバミ色の杏里の瞳を見つめ返した。
 そこには何の感情もこもっていなかった。
 杏里の瞳は、あまりにも透明すぎるのだ。
 私はふと、そこに海を見た気がした。
 喜びも悲しみも苦しみも、何もかもを飲み込む広大な青い海。
 そして。
 杏里が発した次の台詞に、私はぴくりと身を震わせた。
「よどみ、だから私はいつかあなたを浄化する。その時が来たら、必ずね」
 あろうことか、母なる海のやさしさで私を見つめながら、杏里はそんなことを言ったのだ。
 私は驚愕で口がきけなかった。
 なぜならそれは…。
 まさに私の本質を見抜いた、杏里から私への、究極のメッセージだったからである。

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