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第2章 謝肉祭
#4 杏里の言い分
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ドーベルマンの成犬は体長が人間の幼児ほどもあり、体重ときたら、おそらく私とそんなに変わらない。
その太郎が激しく尻尾を振りながら、杏里の上にのしかかっている。
私は一瞬、その耳まで裂けた口が杏里の喉笛を食いちぎるさまを想像して、止めようかどうしようか迷った。
が、結果的にそうはならなかった。
「かわいい!」
杏里は太郎の首を抱きしめると、その体毛の短い黒い体に、すりすりと頬ずりをし始めたのである。
太郎は耳を垂れ、ハアハアと舌を出し、すっかりご満悦の表情だ。
しきりに杏里の胸元の匂いを嗅いでいたかと思うと、首の下をなでられてすっかり大人しくなってしまった。
「このわんちゃん、よどみの? 名前、なんていうの?」
太郎の首を抱きしめたまま、むっくり起き上がると、杏里が訊いた。
「犬のことなんてどうでもいい」
私は語気を強め、太郎の引き綱を引いた。
「おいで、太郎」
しぶしぶ杏里の元を離れ、すごすごと尻尾を股の間に入れ、戻ってくる太郎。
「私がどうして怒ってるのか、わからないの?」
スマホを取り出し、杏里に突きつける。
画面には、杏里と謎の少女がキスする場面が、静止画像となって映っている。
「ああ、それ…」
杏里が困ったような顔をした。
「どういうことなの? これは誰なの?」
私は杏里に詰め寄った。
太郎はすっかり大人しくなって、足元で丸くなり、私と杏里のやりとりを興味深げに眺めている。
「立花…さん」
消え入るような声で、杏里が答えた。
半ば予想していた答えだったので、私は大して驚かなかった。
杏里の次に短いスカート丈。
そこから、おそらく理沙ではないかと予想していたのである。
だけど、実際に杏里の口からその名を聞くと、ショックは抑えきれなかった。
理沙は本人が思っているほどではないにせよ、クラスで杏里に次ぐ美少女である。
少なくとも私の百倍は魅力的だ。
「どうして理沙なの? あいつ、杏里にからんできたばかりじゃない! 杏里のこと、ひどい言葉で罵ったんだよ!」
あきれ声でそうなじった時、ふと思った。
でも。
私が杏里に送り付けたラインのメールも、同じような内容だったのではないか。
いや、もっとひどい単語を並べ立てた気がする。
「そんなやつと、どうしてキスなんて…」
後半、語尾が消え入りそうに弱くなったのは、その自責の念に駆られたからだった。
「断り切れなかったの。立花さんとは同じ掃除当番で、お掃除が終わって、みんなが出て行って、それで私、落とした消しゴム探してのろのろしてたら、立花さんだけがひとりで戻ってきて…最初は前みたいに、色々難癖つけられたんだけど、そのうち…」
額にかかった髪をかき上げ、杏里がぽつりぽつりと話し始めた。
また消しゴム?
と私は心の中で嗤った。
落とした消しゴムを探して帰りが遅くなるなんて、こういうところはまるで小学生だ。
「そのうち、どうしたの?」
杏里がおびえたような表情で私の顔色をうかがった。
「そのうちに、あんた、かわいいね。キスしてあげようか…とか言い出して」
私はカーッと耳のあたりまで熱くなるのを感じた。
理沙のやつ、なんてことを。
「それで、あんな激しいキスを許したっていうの? あんた馬鹿? かわいいっていってくれる相手なら、誰でもいいの?」
「断り切れなかったの…。というか、私には、断るってことが、できないの」
断ることができない?
妙な言い訳だった。
私は一歩詰め寄り、杏里の頬をもう一度平手で叩いた。
杏里はよけなかった。
ぱちんと乾いた音が響き、その白いまろやかな頬がみるみるうちに赤くなる。
「ねえ、ひとつ、訊いていい?」
私を正面からじっと見つめて、杏里が言った。
「な、なに?」
私はたじろいだ。
杏里は怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなさそうだった。
ただ、純粋に好奇心に駆られて、何か言おうとしている。
そんな感じなのだ。
「どうしてよどみは、そんなに怒ってるの? 私が立花さんとキスをしたのが、なぜそんなに気に入らないの?」
「どうしてって…」
言葉に詰まった。
だが、ここで黙っているわけにはいかなかった。
「杏里は、私のものだから」
私は杏里から顔をそむけ、吐き捨てるように言った。
「他の誰かに渡すなんてこと、絶対にできないから」
「ふうん」
杏里の返事は、いつものように気の抜けたものだった。
「よどみは、そんなふうに思ってるわけなんだ」
「勝手な言い分だってことは、わかってる。でも、杏里だけなんだ。私の心、開かせてくれたの」
床に視線を落としたまま、私は独り言のように、続けた。
涙があふれてきた。
涙のしずくが、頬を伝い、カーペットの上に落ちた。
「私は誰のものでもないけれど…」
杏里が立ち上がる気配がした。
「でも、逆に言うと、誰のものでもある」
杏里ったら、またわけのわからないことを言っている。
誰のものでもないけど、誰のものでもある…?
それ、いったい、どういう意味?
でも、それ以上、その言葉について考える時間は、私には与えられなかった。
衣ずれの音が聞こえてくる。
まさか…。
私の中で、どきんと心臓が大きな音を立て、そして一瞬、静止した。
杏里、Tシャツを、脱いでる?
「だから、いつだって、よどみのものにも、なれるんだよ」
ふんわりと、あの体臭が私を包み込んだ。
おそるおそる顔を上げると、肌色が視界いっぱいに広がった。
「こうすれば、仲直りできるかな?」
マスクを外されるのが、わかった。
杏里の顔が近づいてくる。
私はぎゅっと目を閉じた。
体の震えが、止まらなかったからだった。
その太郎が激しく尻尾を振りながら、杏里の上にのしかかっている。
私は一瞬、その耳まで裂けた口が杏里の喉笛を食いちぎるさまを想像して、止めようかどうしようか迷った。
が、結果的にそうはならなかった。
「かわいい!」
杏里は太郎の首を抱きしめると、その体毛の短い黒い体に、すりすりと頬ずりをし始めたのである。
太郎は耳を垂れ、ハアハアと舌を出し、すっかりご満悦の表情だ。
しきりに杏里の胸元の匂いを嗅いでいたかと思うと、首の下をなでられてすっかり大人しくなってしまった。
「このわんちゃん、よどみの? 名前、なんていうの?」
太郎の首を抱きしめたまま、むっくり起き上がると、杏里が訊いた。
「犬のことなんてどうでもいい」
私は語気を強め、太郎の引き綱を引いた。
「おいで、太郎」
しぶしぶ杏里の元を離れ、すごすごと尻尾を股の間に入れ、戻ってくる太郎。
「私がどうして怒ってるのか、わからないの?」
スマホを取り出し、杏里に突きつける。
画面には、杏里と謎の少女がキスする場面が、静止画像となって映っている。
「ああ、それ…」
杏里が困ったような顔をした。
「どういうことなの? これは誰なの?」
私は杏里に詰め寄った。
太郎はすっかり大人しくなって、足元で丸くなり、私と杏里のやりとりを興味深げに眺めている。
「立花…さん」
消え入るような声で、杏里が答えた。
半ば予想していた答えだったので、私は大して驚かなかった。
杏里の次に短いスカート丈。
そこから、おそらく理沙ではないかと予想していたのである。
だけど、実際に杏里の口からその名を聞くと、ショックは抑えきれなかった。
理沙は本人が思っているほどではないにせよ、クラスで杏里に次ぐ美少女である。
少なくとも私の百倍は魅力的だ。
「どうして理沙なの? あいつ、杏里にからんできたばかりじゃない! 杏里のこと、ひどい言葉で罵ったんだよ!」
あきれ声でそうなじった時、ふと思った。
でも。
私が杏里に送り付けたラインのメールも、同じような内容だったのではないか。
いや、もっとひどい単語を並べ立てた気がする。
「そんなやつと、どうしてキスなんて…」
後半、語尾が消え入りそうに弱くなったのは、その自責の念に駆られたからだった。
「断り切れなかったの。立花さんとは同じ掃除当番で、お掃除が終わって、みんなが出て行って、それで私、落とした消しゴム探してのろのろしてたら、立花さんだけがひとりで戻ってきて…最初は前みたいに、色々難癖つけられたんだけど、そのうち…」
額にかかった髪をかき上げ、杏里がぽつりぽつりと話し始めた。
また消しゴム?
と私は心の中で嗤った。
落とした消しゴムを探して帰りが遅くなるなんて、こういうところはまるで小学生だ。
「そのうち、どうしたの?」
杏里がおびえたような表情で私の顔色をうかがった。
「そのうちに、あんた、かわいいね。キスしてあげようか…とか言い出して」
私はカーッと耳のあたりまで熱くなるのを感じた。
理沙のやつ、なんてことを。
「それで、あんな激しいキスを許したっていうの? あんた馬鹿? かわいいっていってくれる相手なら、誰でもいいの?」
「断り切れなかったの…。というか、私には、断るってことが、できないの」
断ることができない?
妙な言い訳だった。
私は一歩詰め寄り、杏里の頬をもう一度平手で叩いた。
杏里はよけなかった。
ぱちんと乾いた音が響き、その白いまろやかな頬がみるみるうちに赤くなる。
「ねえ、ひとつ、訊いていい?」
私を正面からじっと見つめて、杏里が言った。
「な、なに?」
私はたじろいだ。
杏里は怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなさそうだった。
ただ、純粋に好奇心に駆られて、何か言おうとしている。
そんな感じなのだ。
「どうしてよどみは、そんなに怒ってるの? 私が立花さんとキスをしたのが、なぜそんなに気に入らないの?」
「どうしてって…」
言葉に詰まった。
だが、ここで黙っているわけにはいかなかった。
「杏里は、私のものだから」
私は杏里から顔をそむけ、吐き捨てるように言った。
「他の誰かに渡すなんてこと、絶対にできないから」
「ふうん」
杏里の返事は、いつものように気の抜けたものだった。
「よどみは、そんなふうに思ってるわけなんだ」
「勝手な言い分だってことは、わかってる。でも、杏里だけなんだ。私の心、開かせてくれたの」
床に視線を落としたまま、私は独り言のように、続けた。
涙があふれてきた。
涙のしずくが、頬を伝い、カーペットの上に落ちた。
「私は誰のものでもないけれど…」
杏里が立ち上がる気配がした。
「でも、逆に言うと、誰のものでもある」
杏里ったら、またわけのわからないことを言っている。
誰のものでもないけど、誰のものでもある…?
それ、いったい、どういう意味?
でも、それ以上、その言葉について考える時間は、私には与えられなかった。
衣ずれの音が聞こえてくる。
まさか…。
私の中で、どきんと心臓が大きな音を立て、そして一瞬、静止した。
杏里、Tシャツを、脱いでる?
「だから、いつだって、よどみのものにも、なれるんだよ」
ふんわりと、あの体臭が私を包み込んだ。
おそるおそる顔を上げると、肌色が視界いっぱいに広がった。
「こうすれば、仲直りできるかな?」
マスクを外されるのが、わかった。
杏里の顔が近づいてくる。
私はぎゅっと目を閉じた。
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