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第1章 転校生

#16 杏里の事情

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「そんなことない」
 私はかぶりを振った。
「ちょっと、びっくりしただけ」
 涙で濡れた目を、杏里に向ける。
「それに…嬉しかったから」
 言ったとたんに、また下着が濡れるのがわかった。
「よかった」
 杏里が微笑んだ。
「もう、こんな話はよそうね。ほら、時間もないし、お弁当、食べよう」
 私はうなずいた。
 好き。
 杏里はそう言ってくれたのだ。
 私のことを好きになってくれる人間がいる。
 それだけでも奇跡なのに、その相手がよりによって、この天使のような美少女だなんて。
 ぎこちない沈黙が下りた。
 私たちは、まるでつき合い出したばかりのカップルみたいだった。
 心臓がバクバクして、まともに杏里のほうを見られない。
 でも、話したい。
 もっと、杏里の声を、聞いていたい。
 弁当を口に運びながら、私はきのうから気になっていた質問を、思い切って杏里にぶつけてみることにした。
「ね、杏里はどうしていつもパンと牛乳なの? お母さんが忙しいとか?」
 杏里の家庭の事情。
 私の計画には、ぜひとも必要な情報である。
 無事彼女を監禁した後、家族に騒がれては面倒なことになるからだ。
「私、養女なんだ」
 おいしそうに私の作った弁当を食べながら、杏里が答えた。
「だから、両親はいないの。保護者役の勇次はものぐさだから、お弁当なんて死んでもつくらないし。私も朝が弱くて」
「保護者役?」
 妙な言い回しだった。
「まあ、普通に言えば、養父ってことになるのかな。でも、勇次はまだ20代だから、そう言われるの嫌がるんだ」
「20代…?」
 私は思わず杏里の発達した胸に視線を向けた。
 危険な香りがしたからだ。
 このセクシーな娘と、20代の男性が、ひとつ屋根の下で…?
 嫉妬の炎が燃え上がる。
 杏里、あなた、まさか…。
 と、私の視線の意味に気づいたのか、杏里がぷっと吹き出した。
「ああ、でも勇次は大丈夫なの。宦官みたいなものだから」
「カンガン?」
「うん。高校生の頃に大変な目に遭ってね、男性機能失くしちゃってるの。だから私なんかにはまるで興味なし。ま、だからこそ私のトレーナーに選ばれたんだろうけどね」
「トレーナーって?」
「私たちの保護者役のこと。色々込み入った事情があってさ」
 そこまで言った時だった。
 昇降口のほうで、かすかな物音がした。
 危険を察知した野生動物のように、ぴくりと杏里が顔を上げる。
 しばらくドアのほうを眺めていたが、やがてふと思いついたように言った。
「ごめん。私、ちょっとトイレいきたくなっちゃった。遅くなるようなら、先に教室に戻ってて」
 ほぼ空になった弁当箱を傍らに置くと、スカートの尻を払いながら立ち上がる。
 杏里が去ると、私は広い屋上で、ひとりきりになった。
 ゆっくりと弁当の残りを片付けながら、今の会話の内容を反芻する。
 保護者役だのトレーナーだの、杏里の言葉はほとんど意味不明だった。
 両親がいないということは、杏里は養護施設の出身なのかもしれなかった。
 その杏里を引き取ったのが、勇次という青年なのだろう。
 高校生の頃、男性機能を失い、そこを見込まれて杏里の保護を引き受けた?
 なんだか奇妙な話だった。
 だが、ひとつ確かなのは、杏里は自分の性的魅力を知っているということだ。
 己のまき散らすフェロモンが、周囲にどんな影響を与えるかということを…。
 とにかく、杏里の保護者が、杏里に興味のない若い男ひとりだけ、というのは私にとって好都合だった。
 ついてる、と私は思った。
 これなら、予想よりずっと簡単に事が運ぶかも…。 

 10分以上経っても、杏里は戻ってこなかった。
 午後の授業の時間が近づいていた。
 私は二人分の弁当箱をナプキンで包むと、そっと昇降口から階段に戻った。
 屋上へのドアの鍵は、もともと壊れている。
 修理される前に私がお昼の居場所に定めたせいで、教師たちの暗黙の配慮なのだろう、壊れた鍵はその後そのまま放置されている。
 私たちの教室は2階だ。
 3階まで降りた時だった。
 すぐそこの教室から、人の声がした。
「だめよ…。いや」
 私は雷に打たれたように、その場に立ちすくんだ。
 あたりをはばかるような湿った声。
 それは紛れもなく、杏里のものだったからだ。
 


 

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