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第5章 百合はまだ世界を知らない
#23 杏里と女医の謎①
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「陣内摩耶に、事件当日の夜のアリバイはありません。診療所兼住居の陣内外科医院にひとりでいたというのですが、証明する者がいませんから」
照和署の2階、捜査一課のフロアである。
椅子に腰かけ、長い脚を組んだ三上刑事が手帳をめくっている。
「典型的な仮面夫婦だな。あの夜、秀英は教団本部に泊まったと言い張ってるし、そもそも滅多に家には帰らないらしい」
「何のために結婚したんでしょうね。元はと言えばあの陣内秀英という男、税理士だったということです。およそ宗教家とは無縁の職業だ」
「秀英と先代教祖のつながりを探る必要がありそうだな。それと臓器移植がどこかで絡んでくるかもしれん」
韮崎の口調が落ち着きを取り戻しているのは、ようやく煙草にありつけたからである。
自分の城であるこの部屋なら、部下たちがどんなに嫌な顔をしても、いくらでも吸えるからだ。
「しかし、グノーシス主義とは、妙なものが出てきましたね」
高山がパソコンの画面をにらみながら、横から口を出す。
おおかた、wikで調べているのだろう。
「なんて書いてあるんです?」
そばに立って、杏里は身を乗り出した。
「うわ」
高山が感電したように身体を強張らせたのは、腕に杏里のマシュマロチックな胸が、一瞬触れたからだった。
「えー、なになに…? グノーシス主義とは、地中海周辺の地方で、紀元1世紀から4世紀の間に発生した思想または宗教で…古くキリスト教の異端と見られていたが、『ヘルメス文書』の発見などにより…。うーん、読んでも、何言ってるか、ぜんぜん頭に入ってこないんですけど」
「グノーシス主義ってのはね、単一の宗教を指す言葉じゃないんだよ」
こともなげに三上が注釈をつけたので、ぽかんとなる杏里と高山。
「いや、以前読んだミステリにちらっと出てきてね、それで覚えてるんだが、何でも、ある共通項を持った思想を総合してそう呼称しているらしい」
「共通項って?」
「この世は悪が造った偽物の世界で、本物の神の世界は別にあるって考え方さ。そこでは蛇が真の神の使いだったり、あるいはウロボロスのように、この偽の世界の外郭を表すものだったりする。まあ、この世が悪の世界ってのは、刑事やってる僕らには、非常に共感できる考え方ではあるんだけどね」
そう言って、苦笑する三上。
「ウロボロスも出てくるんですか?」
昨年末の地下鉄事件を思い出し、杏里は眉をひそめた。
あの時、地下深くの操車場で、もしあの怪物が自分のしっぽをくわえることに成功していたら…。
この世が悪の世界であることを証明する、何かとんでもない事態が生じたとでもいうのだろうか。
「まあ、秀英のたわ言につき合うのは、そのくらいにしとくんだな」
オカルト嫌いの韮崎がぶっきらぼうにしめくくる。
「それより、あの夫婦の状況をまとめるぞ。先代がなくなったのが、1年半前。それと前後して、摩耶は大学病院から独立し、個人医院を建て、更に秀英と結婚。このへん、妙にバタバタしてるのが気にかかる。ふつう、親父が死んで半年足らずで結婚なんてするか? 独立は、まあ、死んだ親父の遺産が手に入ったからということかもしれんが、なにもほとんど同時に結婚することもあるまいに」
「摩耶の母親、つまり先代の妻はかなり前に亡くなっていますから、遺産は彼女が独り占めだったでしょうしね」
「遺産目当ての政略結婚ってやつじゃないですか? 真面目な女医だった摩耶に、秀英が遺産の匂いを嗅ぎつけて近づいたとか」
と、これはいかにもテレビドラマ好きな高山らしい推理である。
3人の話を聞くともなく聞いていた時だった。
杏里はあることにひっかかりを覚えて、はっと顔を上げた。
「あのう、摩耶さんの結婚も、個人医院の設立も1年前のことだっていうことですよね」
「ああ、ちょうど去年の春のことだそうだ。それがどうかしたのか?」
韮崎がクジラのように煙を噴き上げた。
髪に匂いがつかないよう、その紫煙を手のひらで払いのけながら、杏里は言った。
「もうひとつ、何かあった気がするんですよ。その、ちょうど今から1年くらい前に起こった出来事が」
照和署の2階、捜査一課のフロアである。
椅子に腰かけ、長い脚を組んだ三上刑事が手帳をめくっている。
「典型的な仮面夫婦だな。あの夜、秀英は教団本部に泊まったと言い張ってるし、そもそも滅多に家には帰らないらしい」
「何のために結婚したんでしょうね。元はと言えばあの陣内秀英という男、税理士だったということです。およそ宗教家とは無縁の職業だ」
「秀英と先代教祖のつながりを探る必要がありそうだな。それと臓器移植がどこかで絡んでくるかもしれん」
韮崎の口調が落ち着きを取り戻しているのは、ようやく煙草にありつけたからである。
自分の城であるこの部屋なら、部下たちがどんなに嫌な顔をしても、いくらでも吸えるからだ。
「しかし、グノーシス主義とは、妙なものが出てきましたね」
高山がパソコンの画面をにらみながら、横から口を出す。
おおかた、wikで調べているのだろう。
「なんて書いてあるんです?」
そばに立って、杏里は身を乗り出した。
「うわ」
高山が感電したように身体を強張らせたのは、腕に杏里のマシュマロチックな胸が、一瞬触れたからだった。
「えー、なになに…? グノーシス主義とは、地中海周辺の地方で、紀元1世紀から4世紀の間に発生した思想または宗教で…古くキリスト教の異端と見られていたが、『ヘルメス文書』の発見などにより…。うーん、読んでも、何言ってるか、ぜんぜん頭に入ってこないんですけど」
「グノーシス主義ってのはね、単一の宗教を指す言葉じゃないんだよ」
こともなげに三上が注釈をつけたので、ぽかんとなる杏里と高山。
「いや、以前読んだミステリにちらっと出てきてね、それで覚えてるんだが、何でも、ある共通項を持った思想を総合してそう呼称しているらしい」
「共通項って?」
「この世は悪が造った偽物の世界で、本物の神の世界は別にあるって考え方さ。そこでは蛇が真の神の使いだったり、あるいはウロボロスのように、この偽の世界の外郭を表すものだったりする。まあ、この世が悪の世界ってのは、刑事やってる僕らには、非常に共感できる考え方ではあるんだけどね」
そう言って、苦笑する三上。
「ウロボロスも出てくるんですか?」
昨年末の地下鉄事件を思い出し、杏里は眉をひそめた。
あの時、地下深くの操車場で、もしあの怪物が自分のしっぽをくわえることに成功していたら…。
この世が悪の世界であることを証明する、何かとんでもない事態が生じたとでもいうのだろうか。
「まあ、秀英のたわ言につき合うのは、そのくらいにしとくんだな」
オカルト嫌いの韮崎がぶっきらぼうにしめくくる。
「それより、あの夫婦の状況をまとめるぞ。先代がなくなったのが、1年半前。それと前後して、摩耶は大学病院から独立し、個人医院を建て、更に秀英と結婚。このへん、妙にバタバタしてるのが気にかかる。ふつう、親父が死んで半年足らずで結婚なんてするか? 独立は、まあ、死んだ親父の遺産が手に入ったからということかもしれんが、なにもほとんど同時に結婚することもあるまいに」
「摩耶の母親、つまり先代の妻はかなり前に亡くなっていますから、遺産は彼女が独り占めだったでしょうしね」
「遺産目当ての政略結婚ってやつじゃないですか? 真面目な女医だった摩耶に、秀英が遺産の匂いを嗅ぎつけて近づいたとか」
と、これはいかにもテレビドラマ好きな高山らしい推理である。
3人の話を聞くともなく聞いていた時だった。
杏里はあることにひっかかりを覚えて、はっと顔を上げた。
「あのう、摩耶さんの結婚も、個人医院の設立も1年前のことだっていうことですよね」
「ああ、ちょうど去年の春のことだそうだ。それがどうかしたのか?」
韮崎がクジラのように煙を噴き上げた。
髪に匂いがつかないよう、その紫煙を手のひらで払いのけながら、杏里は言った。
「もうひとつ、何かあった気がするんですよ。その、ちょうど今から1年くらい前に起こった出来事が」
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