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第5章 百合はまだ世界を知らない
#17 杏里と死体安置室⑧
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「食われただと?」
韮崎が、傍らの零をにらみつけた。
「何馬鹿なこと言ってるんだ? どうしてそういうことになる?」
倉田静香の死体は、さながら屠場の牛である。
内臓を抜き取られ、外側しか残っていない。
零はその内側をのぞき込んだまま、動かない。
人差し指と中指をその内壁に当てて、じっと考え込んでいるように見える。
「唾液」
振り向くと、2本の指を韮崎に向けて突き出した。
「ほんのわずかだけど、唾液が残ってる」
「唾液だと?」
韮崎がこわごわその指先に顔を近づける。
同時に杏里も気づいていた。
零の指先に、透明な液体が付着している。
粘り気があるのか、わずかに水疱を含んでいるようだ。
「そうなのよ。彼女の言う通り」
零の肩越しで、ヤチカがため息混じりに口を開いた。
「確かにそれは、唾液の成分に似てる。だから、迷ってるのよね。このまま遺族に引き渡していいのかどうか」
「おまえまで、そんな戯言を」
オカルト嫌いの韮崎は渋い顔だ。
「じゃ、こういうことか? 夫の慎吾が、妻を殺して解体し、その場で内臓を食っちまったと?」
「残念ながら、そうじゃない」
首を振るヤチカ。
「DNAの照合は済んでるわ。その体液は、倉田慎吾のものじゃない。ついでにいうと、人間のものかどうかもわからない」
「しかし、防犯カメラには侵入者の映像はなかったぞ。それに、現場のサッシ窓は、すべて内側から施錠してあった。これをどう説明する?」
「知らないわ。それを調べるのがおじさんたちの仕事でしょ」
ヤチカは取りつく島もない。
「外道なら可能だわ」
杏里はぽつりとつぶやいた。
これまでの事件がみなそうだった。
彼らにとっては、密室など存在しないのだ。
どこからでも入り込むし、どこからでも出ていける。
「モウの出番かもしれないな」
死体から身を起こして、零が言った。
「モウって、あの煙みたいな犬のこと?」
杏里はゆうべ見た妖怪を思い出した。
「ああ」
うなずく零。
「モウはああ見えて、警察犬より鼻が利く」
「おまえら、いったい何の話、してるんだ?」
韮崎が苛立たしげにげじげじ眉を吊り上げた時である。
ガチャリと扉の開く音がして、誰かが死体安置室に入ってきた。
「あら、七尾さん。声がするので、誰かと思ったら」
話しかけてきたのは、背の高い女性である。
40代半ばだろうか。
赤い縁の眼鏡が、理知的な美貌によく似合っている。
ヤチカと同じ、白衣を着ていた。
ただ、ヤチカがピンクっぽいのに対し、女性の白衣は薄い水色をしている。
「陣内先生…」
ヤチカが、悪戯を見つかった子どものような顔になる。
陣内と呼ばれた女医が、視線を韮崎と杏里に向けた。
「検死はもう、終わったんじゃなかったの? そちらのおふたりは?」
「照和署の、韮崎警部補と笹原巡査です。どうしても、倉田静香の死体を見たいとおっしゃって…」
おふたり?
違和感を覚えて周囲を見回すと、なるほど、零の姿がない。
忍者顔負けの早業で、女医の背後に回り込み、入れ違いに外に出て行ったに違いない。
いくら月齢が低くても、そのくらいは彼女にとって、朝飯前なのだ。
「それで、何か新しい発見でも?」
女医の声に、かすかにだが、揶揄するような響きがこもった。
「いやあ」
大げさに明るい声を上げたのは、韮崎である。
「正直、わけがわかりませんな。いったい、誰が何のためにこんなことをしでかしたのか…。何かご意見があれば、教えていただきたいところです」
「昨日お見えになった県警の刑事さんたちは、臓器売買の可能性をお考えだったようですけど…私にも、はっきりしたことは」
「臓器売買ですか。なるほど、それはありそうですな」
わが意を得たりとばかりにうなずく韮崎。
熟女美人に弱いのか、相好を崩しっぱなしである。
「では、次がありますので、私はこれで…」
女医が出ていくと、その後ろ姿を見送りながら、ヤチカが言った。
「今のは、第一外科の陣内先生。いやあ、びびったなあ。まさか、こんなとこで見つかっちゃうとは…。ところで、あれ? 彼女は? 零ちゃんは?」
「消えたみたいです」
杏里は肩をすくめてみせた。
「あの子、人見知りが激しいんで」
韮崎が、傍らの零をにらみつけた。
「何馬鹿なこと言ってるんだ? どうしてそういうことになる?」
倉田静香の死体は、さながら屠場の牛である。
内臓を抜き取られ、外側しか残っていない。
零はその内側をのぞき込んだまま、動かない。
人差し指と中指をその内壁に当てて、じっと考え込んでいるように見える。
「唾液」
振り向くと、2本の指を韮崎に向けて突き出した。
「ほんのわずかだけど、唾液が残ってる」
「唾液だと?」
韮崎がこわごわその指先に顔を近づける。
同時に杏里も気づいていた。
零の指先に、透明な液体が付着している。
粘り気があるのか、わずかに水疱を含んでいるようだ。
「そうなのよ。彼女の言う通り」
零の肩越しで、ヤチカがため息混じりに口を開いた。
「確かにそれは、唾液の成分に似てる。だから、迷ってるのよね。このまま遺族に引き渡していいのかどうか」
「おまえまで、そんな戯言を」
オカルト嫌いの韮崎は渋い顔だ。
「じゃ、こういうことか? 夫の慎吾が、妻を殺して解体し、その場で内臓を食っちまったと?」
「残念ながら、そうじゃない」
首を振るヤチカ。
「DNAの照合は済んでるわ。その体液は、倉田慎吾のものじゃない。ついでにいうと、人間のものかどうかもわからない」
「しかし、防犯カメラには侵入者の映像はなかったぞ。それに、現場のサッシ窓は、すべて内側から施錠してあった。これをどう説明する?」
「知らないわ。それを調べるのがおじさんたちの仕事でしょ」
ヤチカは取りつく島もない。
「外道なら可能だわ」
杏里はぽつりとつぶやいた。
これまでの事件がみなそうだった。
彼らにとっては、密室など存在しないのだ。
どこからでも入り込むし、どこからでも出ていける。
「モウの出番かもしれないな」
死体から身を起こして、零が言った。
「モウって、あの煙みたいな犬のこと?」
杏里はゆうべ見た妖怪を思い出した。
「ああ」
うなずく零。
「モウはああ見えて、警察犬より鼻が利く」
「おまえら、いったい何の話、してるんだ?」
韮崎が苛立たしげにげじげじ眉を吊り上げた時である。
ガチャリと扉の開く音がして、誰かが死体安置室に入ってきた。
「あら、七尾さん。声がするので、誰かと思ったら」
話しかけてきたのは、背の高い女性である。
40代半ばだろうか。
赤い縁の眼鏡が、理知的な美貌によく似合っている。
ヤチカと同じ、白衣を着ていた。
ただ、ヤチカがピンクっぽいのに対し、女性の白衣は薄い水色をしている。
「陣内先生…」
ヤチカが、悪戯を見つかった子どものような顔になる。
陣内と呼ばれた女医が、視線を韮崎と杏里に向けた。
「検死はもう、終わったんじゃなかったの? そちらのおふたりは?」
「照和署の、韮崎警部補と笹原巡査です。どうしても、倉田静香の死体を見たいとおっしゃって…」
おふたり?
違和感を覚えて周囲を見回すと、なるほど、零の姿がない。
忍者顔負けの早業で、女医の背後に回り込み、入れ違いに外に出て行ったに違いない。
いくら月齢が低くても、そのくらいは彼女にとって、朝飯前なのだ。
「それで、何か新しい発見でも?」
女医の声に、かすかにだが、揶揄するような響きがこもった。
「いやあ」
大げさに明るい声を上げたのは、韮崎である。
「正直、わけがわかりませんな。いったい、誰が何のためにこんなことをしでかしたのか…。何かご意見があれば、教えていただきたいところです」
「昨日お見えになった県警の刑事さんたちは、臓器売買の可能性をお考えだったようですけど…私にも、はっきりしたことは」
「臓器売買ですか。なるほど、それはありそうですな」
わが意を得たりとばかりにうなずく韮崎。
熟女美人に弱いのか、相好を崩しっぱなしである。
「では、次がありますので、私はこれで…」
女医が出ていくと、その後ろ姿を見送りながら、ヤチカが言った。
「今のは、第一外科の陣内先生。いやあ、びびったなあ。まさか、こんなとこで見つかっちゃうとは…。ところで、あれ? 彼女は? 零ちゃんは?」
「消えたみたいです」
杏里は肩をすくめてみせた。
「あの子、人見知りが激しいんで」
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