103 / 157
第5章 百合はまだ世界を知らない
#16 杏里と死体安置室⑦
しおりを挟む
杏里たちが導かれたのは、建物の地下2階。
無機質な照明の下、鈍く光ったリノリウムの床が伸びる病院の一角のようなフロアだった。
「もう解剖は終わってるから、死体はこっちなんだけど、正直迷ってるのよね。これで遺族の手に引き渡していいかどうか」
ヤチカが右手の大きな扉を顎で示してみせ、そう言った。
そこがどうやら、死体安置室ということらしい。
中は吐く息が白くなるほど寒く、薄手のコートしか来ていない杏里は襟元を掻き合わせて、思わずぶるっと身を震わせた。
不謹慎だとは思うが、匂いも嫌だ。
ホルマリンの臭気に混じって空気の底にわだかまる、そこはかとない腐敗臭。
そして、死の匂い。
寒いところが嫌いな零も思いは同じらしく、妙に白茶けた横顔をしている。
真ん中のベッドを迂回して、ヤチカは壁際に歩み寄っていく。
そこはおびただしい数の引き出しになっていて、それぞれ名前を記入したタグがついている。
ヤチカが引き出したのは、入口に近いほうにある、そのうちのひとつだった。
現れた台の上に乗せられているのは、白いビニルシートをかけられた女性の死体である。
こうして改めて近くで見ると、30歳を超えているというのに倉田静香はひどくあどけない顔立ちをしていた。
結婚して新居を持ち、幸せの絶頂だったのに…。
こんなになるなんて、ひどい。
ひどすぎる。
合掌を終えて、杏里は唇を噛み締めた。
「驚かないでね」
ヤチカが言って、シーツをめくったのはその時だ。
「う」
予想はしていたものの、目の前にあらわになった死体の身体を見て、杏里は喉の奥でくぐもった叫びを上げた。
まだ綿などをつめていないからだろう、胸郭から下が、ぺしゃんこにへこんでいる。
「中を見せて」
縫合の痕を指差して、零が言った。
「いいわよ。どうせ、そう言うだろうと思ってた」
あっさりうなずくヤチカ。
白衣のポケットから小さな鋏を取り出すと、慣れた手つきで傷口を縫い合わせた糸を切っていく。
傷口は、胸の下から下腹部にかけて、一直線に走っている。
糸を切り終わると、ヤチカが傷口に両手をつっこみ、鞄の口でも開くみたいに、左右にゆっくり開けていった。
現れたのは、何もない空間だ。
太い背骨の向こうには、もう背中側の皮が見えている。
残った肋骨が、まるで大きな鳥籠みたい。
「ひでえな。本当に、何にもない」
韮崎がハンカチで鼻を押さえてうめいた。
下がった韮崎の代わりに、零が前へ進み出る。
死体にぽっかり空いた空洞に顔を近づけると、指で内部の壁をなぞり始めた。
「何かわかったの?」
あまりに長い間零が何も言わないので、業を煮やしたのか、少しいら立ちの混じった口調でヤチカがたずねた。
「まあね」
顔を上げる零。
そして、杏里たちを見回すと、疲れたような口調でぼそりと言った。
「内臓が残ってないのは、喰われたから。たぶん、それで間違いないと思う」
無機質な照明の下、鈍く光ったリノリウムの床が伸びる病院の一角のようなフロアだった。
「もう解剖は終わってるから、死体はこっちなんだけど、正直迷ってるのよね。これで遺族の手に引き渡していいかどうか」
ヤチカが右手の大きな扉を顎で示してみせ、そう言った。
そこがどうやら、死体安置室ということらしい。
中は吐く息が白くなるほど寒く、薄手のコートしか来ていない杏里は襟元を掻き合わせて、思わずぶるっと身を震わせた。
不謹慎だとは思うが、匂いも嫌だ。
ホルマリンの臭気に混じって空気の底にわだかまる、そこはかとない腐敗臭。
そして、死の匂い。
寒いところが嫌いな零も思いは同じらしく、妙に白茶けた横顔をしている。
真ん中のベッドを迂回して、ヤチカは壁際に歩み寄っていく。
そこはおびただしい数の引き出しになっていて、それぞれ名前を記入したタグがついている。
ヤチカが引き出したのは、入口に近いほうにある、そのうちのひとつだった。
現れた台の上に乗せられているのは、白いビニルシートをかけられた女性の死体である。
こうして改めて近くで見ると、30歳を超えているというのに倉田静香はひどくあどけない顔立ちをしていた。
結婚して新居を持ち、幸せの絶頂だったのに…。
こんなになるなんて、ひどい。
ひどすぎる。
合掌を終えて、杏里は唇を噛み締めた。
「驚かないでね」
ヤチカが言って、シーツをめくったのはその時だ。
「う」
予想はしていたものの、目の前にあらわになった死体の身体を見て、杏里は喉の奥でくぐもった叫びを上げた。
まだ綿などをつめていないからだろう、胸郭から下が、ぺしゃんこにへこんでいる。
「中を見せて」
縫合の痕を指差して、零が言った。
「いいわよ。どうせ、そう言うだろうと思ってた」
あっさりうなずくヤチカ。
白衣のポケットから小さな鋏を取り出すと、慣れた手つきで傷口を縫い合わせた糸を切っていく。
傷口は、胸の下から下腹部にかけて、一直線に走っている。
糸を切り終わると、ヤチカが傷口に両手をつっこみ、鞄の口でも開くみたいに、左右にゆっくり開けていった。
現れたのは、何もない空間だ。
太い背骨の向こうには、もう背中側の皮が見えている。
残った肋骨が、まるで大きな鳥籠みたい。
「ひでえな。本当に、何にもない」
韮崎がハンカチで鼻を押さえてうめいた。
下がった韮崎の代わりに、零が前へ進み出る。
死体にぽっかり空いた空洞に顔を近づけると、指で内部の壁をなぞり始めた。
「何かわかったの?」
あまりに長い間零が何も言わないので、業を煮やしたのか、少しいら立ちの混じった口調でヤチカがたずねた。
「まあね」
顔を上げる零。
そして、杏里たちを見回すと、疲れたような口調でぼそりと言った。
「内臓が残ってないのは、喰われたから。たぶん、それで間違いないと思う」
0
お気に入りに追加
97
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
カフェ・シュガーパインの事件簿
山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。
個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。
だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる