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第5章 百合はまだ世界を知らない
#10 杏里と死体安置室①
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往来に出て、もう一度タクシーを拾い、署に戻った。
「また、おかしな事件が起こったんだってね」
1階の交通安全課の窓口から顔をのぞかせたのは、杏里の同期、斎藤曜子巡査である。
体育会系女子の典型といった雰囲気の曜子は、ちょうど帰るところなのか、コートを着こんで首にマフラーを巻いていた。
「うん」
杏里は、疲れた顔に強張った笑みを浮かべた。
さすがにこの時間になると、眠気が押し寄せてくる。
でも、刑事たるもの、そうは言っていられない。
いったん事件が起こってしまった以上、これからが本番なのだ。
「きょうはオールなの?」
杏里が手に提げた旅行バッグを目に留めて、曜子が言った。
「たぶんね。猟奇的な事件だから、明日にでもここに帳場が立つ可能性、高いもの」
「うわ。じゃ、あの権田も来るんだ」
露骨に不快そうな顔をする曜子。
権田は県警の警部で、女性職員たちに蛇蝎の如く嫌われている。
元警視総監の親の威信をかさに着る、パワハラ、セクハラの権化みたいな男だからだ。
「どうかな」
杏里は小さく肩をすくめた。
これが連続殺人事件に発展して、県警が主導権を握るとなれば当然表に出てくるだろうが、まだ死体がひとつでは微妙なところである。
「頑張ってね。身体、壊さないようにね。杏里は、私たち照和署女子の誇りなんだから」
曜子が励ますように微笑んだ。
誇りとは大げさだが、杏里が県下でも希少な女性刑事だということは確かである。
しかも、県内でただひとりの囮捜査官だから、手柄の有無にかかわらず、職員たちの話題には上りやすい。
「事件が片づいたら、また女子会開こうよ」
「ありがと」
片手を挙げて別れの挨拶を返し、薄暗い階段を2階に上がる。
『刑事課』のプレートのかかったドアを開けると、捜査一課のフロアでは、韮崎がPCとにらめっこしていた。
「おう、やっと来たか」
振り向きもせず、韮崎が言った。
「県警本部から連絡があった。明日朝8時から、ここで捜査会議だそうだ。それまでに帳場立てる準備をしておけだとよ」
「県警本部じゃなくって、やっぱりうちですか?」
「まあ、まだガイシャがひとりなんでな。他の署の応援が来るわけでもなし、うちの会議室で十分ということなんだろう」
「三上さんたちから連絡は?」
「いくつか来てる。そこにメモしといたから、さっそく報告書作りにかかってくれ。あと2時間もすれば全員帰って来るとは思うが、それまでにできるだけ作業を進めておくんだ」
「垂れ幕はどうします?」
「今回は山田巡査長に書いてもらう。あの顔で書道師範の腕前なんだ」
杏里は、韮崎と同い年の山田刑事の顔を思い浮かべた。
寿司屋の主人以外には考えられないおにぎり頭だが、そんな特技があったとは。
「ニラさんは、今何を?」
コートをハンガーにかけ、自分の席に座ると、PCが立ち上がるのを待ちながら、杏里は韮崎に声をかけた。
「あの宗教団体を調べてる。智慧の蛇教団」
「何かわかりましたか?」
「いや、たいして。教団のHPには、きれいごとしか書いてないし、零細企業だからか、つぶやきの類いもほとんどない」
「零細企業、ですか?」
「信者の数だ。200人ほどしかいない。新興宗教の団体にしては、ささやかだ」
「へーえ、そうなんだ」
「それから、面白いことがひとつ」
PCの画面から、韮崎が顔を上げた。
「この教団の教祖、とっくの昔に死んでるぞ。栗栖重人って言うんだが」
「また、おかしな事件が起こったんだってね」
1階の交通安全課の窓口から顔をのぞかせたのは、杏里の同期、斎藤曜子巡査である。
体育会系女子の典型といった雰囲気の曜子は、ちょうど帰るところなのか、コートを着こんで首にマフラーを巻いていた。
「うん」
杏里は、疲れた顔に強張った笑みを浮かべた。
さすがにこの時間になると、眠気が押し寄せてくる。
でも、刑事たるもの、そうは言っていられない。
いったん事件が起こってしまった以上、これからが本番なのだ。
「きょうはオールなの?」
杏里が手に提げた旅行バッグを目に留めて、曜子が言った。
「たぶんね。猟奇的な事件だから、明日にでもここに帳場が立つ可能性、高いもの」
「うわ。じゃ、あの権田も来るんだ」
露骨に不快そうな顔をする曜子。
権田は県警の警部で、女性職員たちに蛇蝎の如く嫌われている。
元警視総監の親の威信をかさに着る、パワハラ、セクハラの権化みたいな男だからだ。
「どうかな」
杏里は小さく肩をすくめた。
これが連続殺人事件に発展して、県警が主導権を握るとなれば当然表に出てくるだろうが、まだ死体がひとつでは微妙なところである。
「頑張ってね。身体、壊さないようにね。杏里は、私たち照和署女子の誇りなんだから」
曜子が励ますように微笑んだ。
誇りとは大げさだが、杏里が県下でも希少な女性刑事だということは確かである。
しかも、県内でただひとりの囮捜査官だから、手柄の有無にかかわらず、職員たちの話題には上りやすい。
「事件が片づいたら、また女子会開こうよ」
「ありがと」
片手を挙げて別れの挨拶を返し、薄暗い階段を2階に上がる。
『刑事課』のプレートのかかったドアを開けると、捜査一課のフロアでは、韮崎がPCとにらめっこしていた。
「おう、やっと来たか」
振り向きもせず、韮崎が言った。
「県警本部から連絡があった。明日朝8時から、ここで捜査会議だそうだ。それまでに帳場立てる準備をしておけだとよ」
「県警本部じゃなくって、やっぱりうちですか?」
「まあ、まだガイシャがひとりなんでな。他の署の応援が来るわけでもなし、うちの会議室で十分ということなんだろう」
「三上さんたちから連絡は?」
「いくつか来てる。そこにメモしといたから、さっそく報告書作りにかかってくれ。あと2時間もすれば全員帰って来るとは思うが、それまでにできるだけ作業を進めておくんだ」
「垂れ幕はどうします?」
「今回は山田巡査長に書いてもらう。あの顔で書道師範の腕前なんだ」
杏里は、韮崎と同い年の山田刑事の顔を思い浮かべた。
寿司屋の主人以外には考えられないおにぎり頭だが、そんな特技があったとは。
「ニラさんは、今何を?」
コートをハンガーにかけ、自分の席に座ると、PCが立ち上がるのを待ちながら、杏里は韮崎に声をかけた。
「あの宗教団体を調べてる。智慧の蛇教団」
「何かわかりましたか?」
「いや、たいして。教団のHPには、きれいごとしか書いてないし、零細企業だからか、つぶやきの類いもほとんどない」
「零細企業、ですか?」
「信者の数だ。200人ほどしかいない。新興宗教の団体にしては、ささやかだ」
「へーえ、そうなんだ」
「それから、面白いことがひとつ」
PCの画面から、韮崎が顔を上げた。
「この教団の教祖、とっくの昔に死んでるぞ。栗栖重人って言うんだが」
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