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第4章 百合と外道と疾走するウロボロス
#30 杏里、窮地に陥る
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円形車庫の直径は、570メートル。
ということは、円周の長さは1789.8メートル。
出入口まで走ればいいとしても、その半分の900メートルはあるだろう。
長い。
長すぎる。
駆けながら、杏里は絶望的な気分に陥った。
元より長距離走は得意なほうではない。
最長記録は、高校の体育の授業で走った1500メートルである。
その時でさえ危うく気を失いそうになったというのに、今は後ろから化け物が追いかけてくるのだ。
最悪を通り越して、これはもはや壮絶なイジメとでもいうしかないだろう。
杏里にとって、走る時、一番困るのは発達し過ぎた胸だった。
振動で胸の肉が上下するたびに、肩に痛みが走るのだ。
バストが重すぎるのである。
零は綺麗な形だと褒めてくれるけど、今はむしろこんなもの、ないほうがいい。
少しでも空気抵抗を失くすために、走りながらコートを脱いだ。
ヒップホルスターが邪魔で走りにくくて仕方ないので、中の拳銃ごと投げ捨てた。
それでも、大してスピードは上がらない。
スタート地点がちょうど反対側に当たっていたせいで、出入口はまだ遠い。
我慢できなくなって肩越しに振り返ると、後方では奇怪な現象が起きていた。
化け物が、大きくなっている。
いや、大きくなるというより、長くなっているのだ。
杏里を追って円周上の線路の上を疾走する化け物の身体は、明らかに伸びているようだった。
尻尾はまだスタート地点あたりに残っているのに、頭部は杏里のすぐ後ろまで迫ってきている。
このままでは。
ふと杏里は思った。
あの怪獣は私を丸呑みにした後、更にぐんぐん成長して、いずれ自分の尻尾にたどり着くのではないだろうか。
そして尻尾をくわえ、ひとつの巨大な円環になる。
そう。
それこそが、あの外道のアジトにあった羊皮紙の絵。
邪龍ウロボロスの完成形なのではないか。
長さ1789.8メートルの、肉でできた円環構造物。
それが完成した時、何が起こるのかまでは杏里にもわからない。
わかるはずがない。
でも、いつかの零の言葉を借りるなら、
そんなの、どうせろくでもないことに決まっている。
色々思いを巡らせているうちに、息が切れてきた。
乳房の重みで上半身は前のめりになっているのに、脚がついてこないのだ。
肩がちぎれるように痛い。
膝がガクガクし始めていた。
がんばれ私!
ここで掴まらなければ、そのうち応援が…。
ところが。
応援に思いを馳せたせいで気が緩んだのか、あっと思った時には、すでに脚がもつれていた。
身体が大きく前に泳ぎ、次の瞬間、杏里は無様に転倒していた。
小ぶりなメロンほどの大きさのバストがクッションになり、地面に顔をぶつけるのだけは免れた。
が、くるぶしのあたりに違和感があった。
見ると、化け物の口が右足首に吸いついていた。
さっきまであんなに大きかった口が、今は入れ歯を外した老婆の口のようにすぼまって、杏里の足を呑み込もうとしているのだ。
「いやあ!」
必死でジーンズのファスナーを下ろし、脱ぎ捨てた。
杏里のジーンズをくわえたまま、反動で怪獣の鎌首が後方に跳ね上がる。
杏里の下半身は、今やシルクの薄いパンテ1枚だった。
身軽になった分、正直スースーしてうすら寒い。
でんぐり返りをして杏里が立ち上がるのと同時に、ジーンズを吐き出した化け物が、どアップで目の前に迫ってきた。
腐った卵の白身のようなどろりとした眼が、正面から杏里を見た。
今度は丸呑みにしようとでもいうのか、丸い口がどんどん大きくなっていく。
杏里は立ちすくんだ。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、身体が動かない。
もう、ダメ。
背筋を悪寒が走り、指先が急速に冷たくなっていく。
こめかみがどくどく脈打ち、頭が割れるように痛くなった。
車庫の外周の半分近くにまで達する化け物の巨体。
その前に立ちすくむ杏里はあまりにも無力でちっぽけだった。
しかも、上はセーター、下はパンティ1枚だけという、どうにも情けない格好なのである。
こんな死に方って、ないよね。
ぐんぐん迫りくる化け物の口をぼんやりと眺めながら、杏里は思った。
まさか、パンツ丸出しで、地下鉄に食べられて死んじゃうなんて。
泣き笑いのような表情が、杏里の顏に浮かんだその時である。
地響きを立てて、右手のほうから何かが猛然と突っこんできた。
中央部から円周に向かって、車輪の軸状に走る直線の線路。
その1本を爆走してきた地下鉄が、真横から化け物の頭部に激突したのだ。
ぐしゃり。
柔らかい物がひしゃげる嫌な音が、あたりいっぱいに響き渡った。
横から突っ込んできた列車は、大破しながらも壁に化け物を釘づけにしている。
化け物の頭は半ば潰れ、眼窩から飛び出した真ん丸の眼球が、どろりと糸を引いてぶら下がっていた。
地下鉄の運転席のドアが開き、着物姿の零が現れた。
「間に合ったか」
杏里を見て、うっすらと微笑んだ。
「零…」
目頭が熱くなる。
みるみるうちに、零の姿が曇っていく。
「これ、意外に役に立つ」
零が掲げて見せたのは、杏里が先日買ってあげたスマートフォンだった。
「検索したら、地下鉄の運転の仕方まで出てきたよ」
杏里はその場にへなへなとへたりこんだ。
すさまじい脱力感と、底が抜けるような安堵の念。
零がしゃがみこみ、杏里の顏を覗き込む。
「…終わったの?」
かろうじて声を出すと、
「ああ」
零がうなずいた。
「よく頑張ったな。この最悪の体調で勝てたのは、杏里、おまえのおかげだよ」
ということは、円周の長さは1789.8メートル。
出入口まで走ればいいとしても、その半分の900メートルはあるだろう。
長い。
長すぎる。
駆けながら、杏里は絶望的な気分に陥った。
元より長距離走は得意なほうではない。
最長記録は、高校の体育の授業で走った1500メートルである。
その時でさえ危うく気を失いそうになったというのに、今は後ろから化け物が追いかけてくるのだ。
最悪を通り越して、これはもはや壮絶なイジメとでもいうしかないだろう。
杏里にとって、走る時、一番困るのは発達し過ぎた胸だった。
振動で胸の肉が上下するたびに、肩に痛みが走るのだ。
バストが重すぎるのである。
零は綺麗な形だと褒めてくれるけど、今はむしろこんなもの、ないほうがいい。
少しでも空気抵抗を失くすために、走りながらコートを脱いだ。
ヒップホルスターが邪魔で走りにくくて仕方ないので、中の拳銃ごと投げ捨てた。
それでも、大してスピードは上がらない。
スタート地点がちょうど反対側に当たっていたせいで、出入口はまだ遠い。
我慢できなくなって肩越しに振り返ると、後方では奇怪な現象が起きていた。
化け物が、大きくなっている。
いや、大きくなるというより、長くなっているのだ。
杏里を追って円周上の線路の上を疾走する化け物の身体は、明らかに伸びているようだった。
尻尾はまだスタート地点あたりに残っているのに、頭部は杏里のすぐ後ろまで迫ってきている。
このままでは。
ふと杏里は思った。
あの怪獣は私を丸呑みにした後、更にぐんぐん成長して、いずれ自分の尻尾にたどり着くのではないだろうか。
そして尻尾をくわえ、ひとつの巨大な円環になる。
そう。
それこそが、あの外道のアジトにあった羊皮紙の絵。
邪龍ウロボロスの完成形なのではないか。
長さ1789.8メートルの、肉でできた円環構造物。
それが完成した時、何が起こるのかまでは杏里にもわからない。
わかるはずがない。
でも、いつかの零の言葉を借りるなら、
そんなの、どうせろくでもないことに決まっている。
色々思いを巡らせているうちに、息が切れてきた。
乳房の重みで上半身は前のめりになっているのに、脚がついてこないのだ。
肩がちぎれるように痛い。
膝がガクガクし始めていた。
がんばれ私!
ここで掴まらなければ、そのうち応援が…。
ところが。
応援に思いを馳せたせいで気が緩んだのか、あっと思った時には、すでに脚がもつれていた。
身体が大きく前に泳ぎ、次の瞬間、杏里は無様に転倒していた。
小ぶりなメロンほどの大きさのバストがクッションになり、地面に顔をぶつけるのだけは免れた。
が、くるぶしのあたりに違和感があった。
見ると、化け物の口が右足首に吸いついていた。
さっきまであんなに大きかった口が、今は入れ歯を外した老婆の口のようにすぼまって、杏里の足を呑み込もうとしているのだ。
「いやあ!」
必死でジーンズのファスナーを下ろし、脱ぎ捨てた。
杏里のジーンズをくわえたまま、反動で怪獣の鎌首が後方に跳ね上がる。
杏里の下半身は、今やシルクの薄いパンテ1枚だった。
身軽になった分、正直スースーしてうすら寒い。
でんぐり返りをして杏里が立ち上がるのと同時に、ジーンズを吐き出した化け物が、どアップで目の前に迫ってきた。
腐った卵の白身のようなどろりとした眼が、正面から杏里を見た。
今度は丸呑みにしようとでもいうのか、丸い口がどんどん大きくなっていく。
杏里は立ちすくんだ。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、身体が動かない。
もう、ダメ。
背筋を悪寒が走り、指先が急速に冷たくなっていく。
こめかみがどくどく脈打ち、頭が割れるように痛くなった。
車庫の外周の半分近くにまで達する化け物の巨体。
その前に立ちすくむ杏里はあまりにも無力でちっぽけだった。
しかも、上はセーター、下はパンティ1枚だけという、どうにも情けない格好なのである。
こんな死に方って、ないよね。
ぐんぐん迫りくる化け物の口をぼんやりと眺めながら、杏里は思った。
まさか、パンツ丸出しで、地下鉄に食べられて死んじゃうなんて。
泣き笑いのような表情が、杏里の顏に浮かんだその時である。
地響きを立てて、右手のほうから何かが猛然と突っこんできた。
中央部から円周に向かって、車輪の軸状に走る直線の線路。
その1本を爆走してきた地下鉄が、真横から化け物の頭部に激突したのだ。
ぐしゃり。
柔らかい物がひしゃげる嫌な音が、あたりいっぱいに響き渡った。
横から突っ込んできた列車は、大破しながらも壁に化け物を釘づけにしている。
化け物の頭は半ば潰れ、眼窩から飛び出した真ん丸の眼球が、どろりと糸を引いてぶら下がっていた。
地下鉄の運転席のドアが開き、着物姿の零が現れた。
「間に合ったか」
杏里を見て、うっすらと微笑んだ。
「零…」
目頭が熱くなる。
みるみるうちに、零の姿が曇っていく。
「これ、意外に役に立つ」
零が掲げて見せたのは、杏里が先日買ってあげたスマートフォンだった。
「検索したら、地下鉄の運転の仕方まで出てきたよ」
杏里はその場にへなへなとへたりこんだ。
すさまじい脱力感と、底が抜けるような安堵の念。
零がしゃがみこみ、杏里の顏を覗き込む。
「…終わったの?」
かろうじて声を出すと、
「ああ」
零がうなずいた。
「よく頑張ったな。この最悪の体調で勝てたのは、杏里、おまえのおかげだよ」
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