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第4章 百合と外道と疾走するウロボロス
#21 杏里、眩暈に襲われる
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雪混じりの寒風の中、コートの襟を立て、杏里は立っていた。
目の前には地下鉄の駅。
『八事日赤駅』というプレートが、アーチ型の昇降口の上部にはめ込まれている。
大通りを渡った先が日赤病院で、駅は交差点の4つの角にそれぞれ口を開いている。
が、今はどの昇降口も、立ち入り禁止になっているはずだ。
杏里が立っているのは、その4番昇降口の前だった。
見慣れた黄色と黒の立入禁止テープの両側に、制服姿の警察官。
中に入れない利用者たちが、次々に押しかけては警官たちと押し問答を繰り広げていた。
「朝早くから、悪かったな」
振り向くと、トレンチコートのポケットに両手を突っ込んで、鼻の頭を赤くした韮崎が立っていた。
韮崎から杏里のスマホに電話があったのが、早朝の6時30分。
タクシーを飛ばしてきたから、それから30分も経っていない。
「今度は何ですか?」
杏里が訊くと、
「見てのお楽しみだ」
嫌そうに顔をしかめ、韮崎がひょいと肩をすくめてみせた。
テープをくぐり、階段を降りると、踊り場の隅にコート姿の男がふたり、うずくまっていた。
肩幅の広い大柄なほうを、やせっぽちの若者が介抱している。
どちらの後ろ姿にも、見覚えがあった。
野崎と高山である。
「あ、杏里先輩、それと班長」
やせっぽちのほう、野崎刑事が振り返った。
「俺はおまけか」
憮然とした表情で、韮崎が言い返す。
「やだな、レディファーストですよ」
野崎は相変わらずノリが軽い。
それに比べて、介抱されている高山は、顔面蒼白の有様である。
吐瀉物の匂いが立ち込めているところからすると、どうやらここで吐いていたらしい。
「大丈夫ですか? 何があったんです?」
声をかけると、高山が苦しげな表情で、杏里を見返してきた。
「杏里ちゃん、悪いことは言わない。ここから先には、行かない方がいい。俺、あんなの始めて見た。もう、刑事、やめたくなってきちゃったよ」
「何情けないこと言ってやがる。おら、笹原、行くぞ」
韮崎に急かされて、階段を下りる。
フリーパスで改札を抜けてホームに降りると、すでに鑑識係が十数人、集まってきていた。
「ごめんよ」
人混みをかき分けて、杏里の手を引きながら韮崎が輪の中に入る。
ホームの中央部に、盛大な血だまりができていた。
その中に転がっている物体をひと目見るなり、杏里は思わずえずいた。
危うく吐きそうになり、ハンカチで口と鼻を覆う。
「ひでえな、こりゃ」
韮崎が呻く。
それは、ズボンを履いた男の下半身だった。
太い腹から上が食いちぎられたようになくなっていて、脂肪や臓物がどろどろと床に流れ出して小山をつくっている。
韮崎に習って目を閉じ、死体に向かって合掌する。
と、よく通るソプラノが頭の上から降ってきた。
「凶器は刃物じゃないわね。何か大きな獣に食いちぎられた跡みたい」
ヤチカだった。
スレンダーな肢体に白衣がよく似合っている。
きょうはなぜか縁なしの幅の狭い眼鏡をかけている。
「ケダモノだと? この大都市にそんなもの、いるわけねえだろ?」
早速韮崎がかみついた。
「南山動物園から逃げ出したのかも。あるいは一般人が、世話に困って逃がしたとか」
「たとえばどんな動物だよ? 虎か? ライオンか?」
「傷口の形状からして、被害者はおそらくひと口で体を噛み切られたと推定されるわ。こんなことができるのは、陸上生物では、体長7メートルサイズのワニぐらいのものね」
「ワニ? なんでワニが地下鉄のホームにいるんだよ? だいたいそんなでかいものがその辺這いまわってたら、誰かが先に警察に通報するだろうが」
「知りませんよ、そんなこと。それを調べるのが、あなたたち刑事さんの仕事でしょ」
ヤチカが立ち去ると、入れ替わりに三上がやってきた。
杏里たちより早く、現場に着いていたらしい。
「死亡推定時刻は、きょう未明の深夜2時ごろじゃないかということです。解剖するまでもなく、この匂いからしてガイシャはかなり酒を飲んでいたようですから、多分忘年会の二次会で遅くなり、終電を逃したんでしょうね。それで、線路の隅にでも隠れて、駅員の見回りをやり過ごした。駅員が立ち去れば、後はベンチでゆっくり朝まで寝ようと、そんな魂胆だったんじゃないかと思います。ところがそこに、予想外の事態が起きてしまった」
三上が立て板に水といった口調で説明した。
「身元は?」
「今のところ、不明です。なにしろ上半身がないもので。定期入れや名刺は、上着のポケットにでも入っていたんじゃないでしょうか」
「くそ。またしてもとんでもねえ事件だな」
韮崎がぼやいた時である。
そのポケットで、携帯が鳴った。
ガラケーを耳に当てる韮崎。
その顏が、見る間に険しいものに変わっていく。
「なんだって? 本山駅と一社駅のホームで死体? しかも上半身がないだと? わかった、すぐ戻る」
通話を切った韮崎は、鬼のような形相をしていた。
「署に詰めてる山田巡査長だ。聞こえただろう? 本部から今、連絡が入ったそうだ。ここと同じ地下鉄のホームで、更に死体が2つ見つかった」
杏里は眩暈を覚えて、無意識に三上の肩に寄りかかっていた。
ワニなんかじゃない。
そう思った。
恐ろしい想像で、身体の震えが止まらない。
来たのだ。
ついに、その時が。
召喚。
地龍の、目覚め。
ああ、零、私いったい、どうしたらいいの?
目の前には地下鉄の駅。
『八事日赤駅』というプレートが、アーチ型の昇降口の上部にはめ込まれている。
大通りを渡った先が日赤病院で、駅は交差点の4つの角にそれぞれ口を開いている。
が、今はどの昇降口も、立ち入り禁止になっているはずだ。
杏里が立っているのは、その4番昇降口の前だった。
見慣れた黄色と黒の立入禁止テープの両側に、制服姿の警察官。
中に入れない利用者たちが、次々に押しかけては警官たちと押し問答を繰り広げていた。
「朝早くから、悪かったな」
振り向くと、トレンチコートのポケットに両手を突っ込んで、鼻の頭を赤くした韮崎が立っていた。
韮崎から杏里のスマホに電話があったのが、早朝の6時30分。
タクシーを飛ばしてきたから、それから30分も経っていない。
「今度は何ですか?」
杏里が訊くと、
「見てのお楽しみだ」
嫌そうに顔をしかめ、韮崎がひょいと肩をすくめてみせた。
テープをくぐり、階段を降りると、踊り場の隅にコート姿の男がふたり、うずくまっていた。
肩幅の広い大柄なほうを、やせっぽちの若者が介抱している。
どちらの後ろ姿にも、見覚えがあった。
野崎と高山である。
「あ、杏里先輩、それと班長」
やせっぽちのほう、野崎刑事が振り返った。
「俺はおまけか」
憮然とした表情で、韮崎が言い返す。
「やだな、レディファーストですよ」
野崎は相変わらずノリが軽い。
それに比べて、介抱されている高山は、顔面蒼白の有様である。
吐瀉物の匂いが立ち込めているところからすると、どうやらここで吐いていたらしい。
「大丈夫ですか? 何があったんです?」
声をかけると、高山が苦しげな表情で、杏里を見返してきた。
「杏里ちゃん、悪いことは言わない。ここから先には、行かない方がいい。俺、あんなの始めて見た。もう、刑事、やめたくなってきちゃったよ」
「何情けないこと言ってやがる。おら、笹原、行くぞ」
韮崎に急かされて、階段を下りる。
フリーパスで改札を抜けてホームに降りると、すでに鑑識係が十数人、集まってきていた。
「ごめんよ」
人混みをかき分けて、杏里の手を引きながら韮崎が輪の中に入る。
ホームの中央部に、盛大な血だまりができていた。
その中に転がっている物体をひと目見るなり、杏里は思わずえずいた。
危うく吐きそうになり、ハンカチで口と鼻を覆う。
「ひでえな、こりゃ」
韮崎が呻く。
それは、ズボンを履いた男の下半身だった。
太い腹から上が食いちぎられたようになくなっていて、脂肪や臓物がどろどろと床に流れ出して小山をつくっている。
韮崎に習って目を閉じ、死体に向かって合掌する。
と、よく通るソプラノが頭の上から降ってきた。
「凶器は刃物じゃないわね。何か大きな獣に食いちぎられた跡みたい」
ヤチカだった。
スレンダーな肢体に白衣がよく似合っている。
きょうはなぜか縁なしの幅の狭い眼鏡をかけている。
「ケダモノだと? この大都市にそんなもの、いるわけねえだろ?」
早速韮崎がかみついた。
「南山動物園から逃げ出したのかも。あるいは一般人が、世話に困って逃がしたとか」
「たとえばどんな動物だよ? 虎か? ライオンか?」
「傷口の形状からして、被害者はおそらくひと口で体を噛み切られたと推定されるわ。こんなことができるのは、陸上生物では、体長7メートルサイズのワニぐらいのものね」
「ワニ? なんでワニが地下鉄のホームにいるんだよ? だいたいそんなでかいものがその辺這いまわってたら、誰かが先に警察に通報するだろうが」
「知りませんよ、そんなこと。それを調べるのが、あなたたち刑事さんの仕事でしょ」
ヤチカが立ち去ると、入れ替わりに三上がやってきた。
杏里たちより早く、現場に着いていたらしい。
「死亡推定時刻は、きょう未明の深夜2時ごろじゃないかということです。解剖するまでもなく、この匂いからしてガイシャはかなり酒を飲んでいたようですから、多分忘年会の二次会で遅くなり、終電を逃したんでしょうね。それで、線路の隅にでも隠れて、駅員の見回りをやり過ごした。駅員が立ち去れば、後はベンチでゆっくり朝まで寝ようと、そんな魂胆だったんじゃないかと思います。ところがそこに、予想外の事態が起きてしまった」
三上が立て板に水といった口調で説明した。
「身元は?」
「今のところ、不明です。なにしろ上半身がないもので。定期入れや名刺は、上着のポケットにでも入っていたんじゃないでしょうか」
「くそ。またしてもとんでもねえ事件だな」
韮崎がぼやいた時である。
そのポケットで、携帯が鳴った。
ガラケーを耳に当てる韮崎。
その顏が、見る間に険しいものに変わっていく。
「なんだって? 本山駅と一社駅のホームで死体? しかも上半身がないだと? わかった、すぐ戻る」
通話を切った韮崎は、鬼のような形相をしていた。
「署に詰めてる山田巡査長だ。聞こえただろう? 本部から今、連絡が入ったそうだ。ここと同じ地下鉄のホームで、更に死体が2つ見つかった」
杏里は眩暈を覚えて、無意識に三上の肩に寄りかかっていた。
ワニなんかじゃない。
そう思った。
恐ろしい想像で、身体の震えが止まらない。
来たのだ。
ついに、その時が。
召喚。
地龍の、目覚め。
ああ、零、私いったい、どうしたらいいの?
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